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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第62話 拒めない招待

 訓練終了の号令が響いても、選ばれた五人だけは演習場に残された。


 ヴィルヘルム・ザイツは、生徒たちを脇の講義室へ連れていった。


 部屋の中央には帝都の地図が広げられている。外壁と五つの城門、軍施設、広場、治療所。色の異なる木札が、街路に沿って細かく置かれていた。


「先に言っておく。これは五人で敵を倒す訓練ではない」


 ザイツは折り畳まれた左袖を揺らし、右手で地図を示した。


「帝都防衛演習では、外壁の一部が破られ、市街へ敵が侵入した状況を想定する。守備隊は迎撃。消防隊と治療班は火災と負傷者へ対処。軍務院は物資と情報を集め、各部隊へ振り分ける」


「私たちも戦うんですか?」


 ニナが尋ねた。


「自分と住民を守る必要があればな。だが、お前たちの主な役目は別だ」


 ザイツは五枚の青い木札を、南側の市街へ置く。


「第一学年の試験参加者は、移動支援班(いどうしえんはん)として行動する。避難誘導、負傷者の搬送、伝令、物資の運搬。人手が足りない場所へ向かい、その場の指揮官を補助する」


「槍を使う場面はないんですか」


 トビアスが少し残念そうに聞いた。


「ない方が演習としては成功だ」


 ザイツは即答した。


「前線だけ守っても、後ろで人が死ねば敗北だ。敵を一人倒すより、倒れた一人を運ぶ方が必要になる場合もある。その判断を学べ」


 トビアスは背筋を伸ばした。


「はい」


「参加者は帝国軍の指揮下へ入る。ただし、お前たち五人の監督は俺が担当する。精霊術の安全管理には、宮廷精霊術師のエレオノーラ・ヴァイスが加わる予定だ」


 セイルが地図へ視線を落としたまま問う。


「軍務院からの指示と、先生の指示が食い違った場合は?」


「人命に差し迫った危険がなければ、俺へ確認しろ。確認できなければ、現場の指揮系統に従う。ただし、命令の内容と発令者は覚えておけ」


 ザイツの右目が、五人を順に見た。


「演習だから安全だとは思うな。武器の刃には演習用の覆いを固定し、攻撃用の精霊術には制限を掛ける。それでも、荷車は重く、火は熱く、崩れた石は人を殺す」


 刃覆いは、鍔元へ結ばれた赤い封印紐を引けば緊急時に外せる。ただし、演習中に正当な理由なく封印を切れば、その時点で失格となる。


 地図の端へ、五枚の書面が置かれた。


「参加は強制ではない。辞退する者は、明日の夕刻までに俺へ申し出ろ。以上だ」


 説明が終わると、トビアスはすぐ書面を手に取った。


「俺は出ます」


「今、聞いたばかりだぞ」


 ローディスが言う。


「だからだ。運ぶ訓練なら、西門でもっとやっておけばよかった。次は荷車を止めた後まで、ちゃんとできるようになりたい」


 校外実地課程での失敗を、本人なりに気にしていたらしい。


 ニナも書面を取り、胸元へ抱えた。


「私も参加します。治療所への道や、避難する人へ伝える内容を学べる機会は多くありませんから」


「二人とも、決めるのが早いね」


 リュカが微笑む。


「リュカ君たちは、出ないの?」


 ニナに尋ねられ、リュカは首を傾げた。


「僕たちは三人で相談してから決めるよ。せっかく選ばれたんだから、慎重に喜ばないと」


「喜ぶのに慎重さって要るのか?」


 トビアスが真顔で聞く。


「要るときもあるんだよ」


 セイルが答え、書面を折り畳んだ。


 ザイツは三人を見たが、理由を尋ねなかった。


     ◇


 日が傾き始めた旧演習場には、三人以外の姿はなかった。


 ローディスは傷だらけの木製人形へ背を預けた。セイルは古い標的台に腰を下ろし、リュカは地面へ伸びた自分の影を踏んでいる。


「僕は辞退する」


 最初に口を開いたのはリュカだった。


 笑顔はなかった。


「昨日の握手で脚が反応して、その翌日にこの推薦だ。僕が選ばれた理由には、教育や査察とは別の意図が混じっているかもしれない。二人まで付き合う必要はないよ」


「俺たちも推薦されている」


 ローディスが腕を組む。


「お前一人が辞退しても、俺たちの名は消えない」


「二人も辞退すればいい」


 リュカが言う。


「ニナとトビアスは参加すると言ったね」


 セイルが書面の折り目を指でなぞる。


「君が目的だとしても、相手は最初から五人を選んでいる。君だけが出なければ、残った四人を使って外へ引き出そうとするかもしれない」


 リュカが僅かに眉を寄せた。


「それは、二人が参加する理由にはならないよ」


「君を一人にしない理由にはなる」


 セイルは顔を上げた。


「辞退すれば安全になる、という根拠がない。なら、警戒している場所へ自分から入る方がまだましだ。教員も兵士もいる。何か起きれば、誰がどう動いたかを見る人間も多い」


「もし推薦に別の意図があるなら、教員や兵士がいることも承知の上じゃないかな」


 リュカは二人を見た。


「もちろん。だから、歓迎されるまま歩くつもりはないよ」


 セイルは淡々と答えた。


 ローディスが木製人形から背を離す。


「俺も出る」


「ローディス」


「前に言ったはずだ。危険が俺たちにも関わるなら、話せる範囲は話せと」


 ローディスはリュカを真っ直ぐ見た。


「危険かもしれないからと、俺たちの分まで勝手に決めるな。話を聞いた上でどうするかは、俺たちが決める」


 リュカは二人を交互に見た。


「もう少し、自分の命を大事にした方がいいよ」


「君にだけは言われたくないね」


 セイルが返す。


 しばらく黙っていたリュカの口元に、ようやく小さな笑みが戻った。


「困った仲間を持ったなあ」


「それはお互い様だ」


 ローディスが言う。


「でも、参加を決める前に、もう一人へ聞きたいことがある」


 セイルは校舎の中央塔を見上げた。


     ◇


 学園長室を訪れると、オルフェンは机の上で演習の参加承諾書を並べ替えていた。


 今日も首元から指先まで肌を隠し、銀色の仮面の上には深い紫の帽子を載せている。三人を迎えた手には、指の数より多く見えるほど指輪が嵌められていた。


「やあ。軍政総監閣下に選ばれた、当学府期待の新星たちじゃないか」


「俺たちが来ると分かっていたんですか」


 ローディスが尋ねる。


「訓練後から三人そろって難しい顔をしていればね。私でなくても、相談か便秘のどちらかだと思うだろう」


「前者です」


 セイルが即答した。


「安心したよ。後者は専門外だからね」


 オルフェンは三人へ椅子を勧めたが、リュカだけは座らなかった。


「今日届いた推薦について、どう思いますか」


 セイルが尋ねた。


「偶然だと思う、と言えば君たちは帰ってくれるかな」


「思っていない顔ですね」


 セイルが言う。


「仮面越しに顔を読むのは、行儀が悪いよ」


 軽口を返してから、オルフェンは椅子の背へ身を預けた。


「学府には推薦を断る権利がある。三人が望むなら、私が不参加にすることもできる」


「辞退した方が安全だと思いますか」


 ローディスが問う。


 オルフェンはすぐには答えなかった。


「そうは言えない」


 やがて、冗談の混じらない声で言った。


「推薦の意図が分からない以上、学府の中にいれば安全だとも保証できない。むしろ演習当日は、私の目が届かない場所へ多くの生徒と教員が散る」


「学園長は、僕たちに出てほしいんですか」


 リュカが尋ねた。


「私は、君たちに選ばせたい」


 銀の仮面が三人へ向く。


「ただし、参加するなら守りは増やす。ザイツには五人から離れないよう命じる。ヴァイス宮廷精霊術師も、安全管理の名目で演習区域へ入る。私も学府で全体の連絡を受ける」


「それでも、何かは起きると思っているんですね」


 セイルの問いに、オルフェンは机上の推薦書を指で叩いた。


「昨日初めて会った一年生を、帝国で最も忙しい人物が翌日に推薦した。教育者としては、生徒の魅力を誇るべきところだろうがね」


「僕が魅力的すぎたのかな」


 リュカが普段の調子で言う。


「そこまで戻ったなら少し安心したよ」


 オルフェンは笑った。


 ローディスが二人を見てから、学園長へ向き直る。


「参加します。三人とも」


「勝手に決めたね」


 セイルが言う。


「違うのか」


「同じ結論だよ」


 セイルは参加承諾書を取った。


 リュカは小さく息を吐き、残る一枚へ手を伸ばす。


「僕も参加します。ただ、二人に何かあったら、演習の規則は守れないかもしれません」


「そのときは、生き残るために必要なことをしなさい」


 オルフェンの声は静かだった。


「規則を破った説教は、生きて帰った後でいくらでもできる」


     ◇


 それから三週間、五人は通常授業の後に演習準備を続けた。


 担架へ重りを載せ、狭い階段を上る。


 色煙と鐘の組み合わせを覚え、伝令文を一度だけ聞いて復唱する。


 帝都の地図から指定された道が封鎖された場合に、次に使える経路を選ぶ。


 戦う訓練より地味で、覚えることは多かった。


「右、上げて!」


 ニナの声に合わせ、担架の前を持つトビアスが腕を上げた。


 後ろを持つローディスは、ほとんど高さを変えずに重りを支えている。


「ローディス君、一人で持ち上げないで。前が練習にならないから」


「すまない」


 ローディスが力を緩めると、トビアスの腕へ急に重さが戻った。


「今度は重い!」


「注文が多いね」


 リュカが担架の横を歩きながら笑う。


「お前も持て!」


 トビアスがリュカへ叫ぶ。


「僕は経路確認役だから」


 リュカは悪びれずに答えた。


「さっきから一度も地図を見てないだろ!」


 トビアスが言い返す。


「道は覚えたよ。次の角を左、その次を右。突き当たりの階段は崩落想定だから使わない」


 リュカが即答すると、トビアスは言葉に詰まった。


「合ってる?」


 ニナがセイルへ尋ねる。


「合ってるよ。腹立たしいことにね」


 セイルは地図を畳んだ。


 五人で動く時間が増えるほど、ニナとトビアスは演習を楽しみにするようになった。


 三人は、軍政総監への疑いを二人へ話さなかった。相手の目的も証拠も分からないまま恐れだけを与えれば、普段の動きができなくなる。


 代わりに、誰か一人で指示を受けに行かないこと。経路を変える命令は発令者を確かめること。五人のうち二人以上が反対した行動は、ザイツへ確認すること。


 それを演習中の決まりとして、全員で共有した。


 やがて、演習当日の朝が来た。


     ◇


 帝都の南側市街には、夜明け前から鐘の音が響いていた。


 参加者は所属ごとに色の違う腕章を巻き、交差点には誘導板が立てられている。店の多くは午前中だけ戸を閉め、住民役を引き受けた兵士と市民が、指定された建物で開始を待っていた。


 五人の左腕には、移動支援班を示す青い布がある。


 ローディスは刃へ演習用の覆いを固定した大剣を背負い、セイルは杖を持つ。ニナの腰には紋章札を収めた革箱、トビアスの背には穂先を覆った槍があった。


 リュカは演習用の覆いを付けたいつもの短剣を帯び、南の鐘楼を見上げている。


「フィル、怒ってたね」


 ニナが言った。


「連れていけないと分かった途端、僕の朝食を持っていったよ」


 リュカが答える。


「お前の分だけか?」


 ローディスが確認した。


「君のパンも一つ」


「帰ったら取り返す」


「食べ物が絡むと頼もしいね」


 セイルが言った。


 ザイツが振り返る。


「私語はそこまでだ。最初の任務は、南第三広場から臨時治療所まで、負傷者役を三名搬送する。途中、赤煙が上がった街路は火災区域として迂回しろ」


「はい」


 五人の返事が重なる。


 少し離れた屋根の上では、エレオノーラが黒石の杖を立て、周囲の精霊術師へ指示を出していた。


 さらに後方の兵站所では、荷役人に紛れた女が木箱の数を帳面へ記している。日に焼けた頬も、太い眉も、エヴァが朝に作った借り物だった。


 南鐘楼から、長い鐘が三度鳴る。


 演習開始の合図だった。


 白い煙が外壁沿いに上がり、伝令役の兵士たちが一斉に走り出す。


「行くぞ」


 ザイツの号令で、五人も南第三広場へ向かった。


 最初の搬送は、予定どおりに進んだ。


 足を負傷した役の兵士をトビアスとローディスが運び、ニナが前方の人を誘導する。セイルは赤煙を避ける経路を選び、リュカは後方から近づく荷車を先に通した。


 二人目を臨時治療所へ届けたところで、鐘が短く二度鳴った。


 南側の倉庫区画で、建物倒壊を想定した合図だ。


「次の搬送先と重なるね」


 セイルが地図を開く。


「西の通りから回れば入れます」


 ニナが指で経路をたどった。


「そうしよう。走るぞ」


 ザイツが先頭に立つ。


 倉庫区画へ近づくと、土埃の向こうに崩れた煉瓦が見えた。教員の土の精霊術で、古い倉庫の外壁だけを予定どおり倒したものだ。


 見物を兼ねた住民役が、誘導員に従って通りの外へ移動している。


 五人が西の路地へ入ったとき、リュカの足が止まった。


「待って」


 柔らかな声ではなかった。


 ローディスが振り返る。


「どうした」


「下に、何かいる」


 リュカが石畳を見る。


「僕の脚が、さっきから――」


 石畳の下で、鈍い音がした。


 一度。


 二度。


 地面が、脈打つように持ち上がる。


「全員、下がれ!」


 ザイツが叫んだ。


 その声と同時に、路地の石畳が砕けた。


 土の精霊へ願いを伝える声も、紋章が光る気配もなかった。


 舗装の下に隠れていた空洞が、一息に口を開く。


 ニナの身体が傾いた。


 ローディスが腕を伸ばすより早く、リュカがニナの外套を掴む。


 反対側では、トビアスの足元も崩れた。セイルが杖を向け、水を伸ばそうとする。


 だが、割れ目の底から圧縮された風が噴き上がり、水を散らした。


 ザイツが腹這いになり、残された右腕でトビアスの手首を掴む。靴底が石畳を滑ったが、落下は止まった。


「リュカ!」


 ローディスが叫ぶ。


 リュカはニナを抱えたまま、落下する石へ片足を置いた。


 蹴り返す。


 二人の身体が、崩落の縁へ跳ね上がる。


 その瞬間、割れ目の奥から伸びた何かが、リュカの足首へ絡みついた。


 金色の糸だった。


 リュカはニナだけを路地へ押し戻し、自分は暗い穴の中へ引き落とされた。


「リュカ!」


 ローディスは迷わず、崩れた縁から身を投げた。


 セイルが舌打ちし、その後を追う。


 三人の姿を呑み込むと、地下から再び激しい風が吹き上がった。


 砕けた石畳が、意思を持つように穴の上へ集まり始める。


 演習用の鐘は、変わらず帝都の空に鳴り続けていた。


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