第61話 七つの祝福
遥か昔、私たちの世界は崩壊した。
大地は痩せ、海は濁り、空から光が失われた。
本来なら、そこに生きていたものは一つ残らず滅びるはずだった。
だが、私たちの神は自らを犠牲にした。
その身を大地へ分け与え、血を川とし、肉を土とし、滅びかけた生命へ新たな力を授けた。
そして、光を失った世界へ、新たな光をもたらした。
神の恵みを受けた者の中でも、特別な資質を備えた七名は、その資質に応じた、より大きな祝福を授かった。
愛に満ち、魂へ新たな居場所を与えることで、離れた者たちに協和をもたらす者。
正しき怒りを絶やさず、傷つくたびに肉体をより強く作り替え、同胞を脅かすものへ抗い続ける者。
失われた命を余さず受け入れ、死を新たな生命へ巡らせることで、飢えた世界を満たす者。
あらゆる魂を結び、力も責務も分かち合い、一人では成し得ない働きを世界へ広げる者。
優れた生命へ憧れ、その美しさと強さを写し取り、より多くの可能性を生み出す者。
己の価値を疑わず、誰より高い場所から迷える同胞を導き、世界の秩序を担う者。
そして――知識を、姿を、力を、国を欲し、得たすべてを次の進歩へ変える者。
私たちが祝福を授かるより前、その資質を恐れた者たちは、七つの性質を罪と呼んだ。
愛する心を色欲と呼び、抗う意志を憤怒と呼び、命を求める飢えを暴食と呼んだ。
他者へ力を委ねる性質を怠惰、優れたものを望む心を嫉妬、己を信じて導こうとする誇りを傲慢と蔑んだ。
そして、世界のすべてを求める私の渇望を、強欲と呼んだ。
その者たちはとうに滅び、記録も歴史から消えた。
だが、七つの呼び名だけは、私たちの側に残り続けた。
構わない。
手に入れられぬ者は、手に入れようとする者を罪人と呼ぶものだ。
千年を超える時の中で、祝福を受け継ぐ者の多くは代替わりした。
だが、私は違う。
神から祝福を授かった、最初の一人だ。
長い月日を耐え、ようやく、この力を存分に振るう機会を得た。
この世界には、あちらにはなかったものがあまりにも多い。
豊かな大地。精霊。竜。国。技術。そして、無数の魂。
この力で、すべてを手に入れてやる。
一つ残らず、私のものにする。
◇
軍政総監府へ戻った男は、執務室の扉を閉めさせた。
壁一面を覆う書棚。帝国各地の軍団を示す色分けされた地図。磨き上げられた机の上には、予算、人事、兵站に関する書類が三つの山を作っている。
男は金糸の飾緒を外し、椅子へ腰を下ろした。
机の端には、小さな銀の鏡が置かれている。
鏡の中で、撫でつけられた黒髪が色を失った。細い口髭が消え、頬が痩せ、壮年の顔が二十代ほどの若い軍務官へ変わっていく。
上層資料室から書類を運び出した姿だった。
男はその顔を確かめると、すぐに軍政総監の姿へ戻した。
「この顔は、もう使えんな」
机の前に立つ副官は、顔を上げなかった。
コンラート・メルツ。
三十代半ばの男で、色の薄い金髪を短く整え、細い身体を皺一つない軍装へ収めている。灰色の目は、目の前で上官の顔が変わっても揺れなかった。
「北西軍団へ向かったという記録は、予定どおり更新されています」
「それでよい。本人の遺体は」
「残っておりません」
「結構。しばらくは、北西へ向かう途上にいてもらおう」
軍政総監は、右手の指先を見つめた。
兵学府で少年へ触れた瞬間、覚えのある怒りが指先から流れ込んできた。
ヴァルガは、最初に祝福を授かった憤怒ではない。長い月日の中で祝福を受け継いだ、後代の継承者だった。
祝福を受け継いだ後のヴァルガを、アウレウスは知っている。
自らが傷つけられたときよりも、同胞が虐げられたとき。守ると決めたものを奪われたとき。その怒りは祝福を激しく燃え上がらせ、何度倒されてもヴァルガの肉体をより強く作り替えた。
肉を再生させ、壊れた器をより強く作り替える魂。
かつて自らが実験材料として用意し、失われたと思っていた祝福の一つ。
初代の七人とは違い、アウレウスにとってヴァルガは、滅びかけた世界をともに生き抜いた仲間ではない。
使い道のある祝福の器だ。その魂を実験で使い潰すことに、躊躇などなかった。
「ヴァルガは、あの少年へ根を張っている」
「回収いたしますか」
「学園長とヴァイスが見ている前でか?」
軍政総監は笑った。
「欲しいものを見つけたからといって、すぐ手を伸ばすのは子供のすることだ」
机上の書類から、一枚を抜き取る。
帝都の外壁と五つの城門、避難区画、兵站倉庫が描かれた演習計画書だった。
「三週間後の帝都防衛演習に、兵学府の学生も参加させる」
「例年、演習区域へ入る学生は上級生のみですが」
「今年は若い世代の育成状況も確かめたい。査察を終えた私が提案すれば、不自然ではあるまい」
「エアハルトだけを?」
「まさか」
軍政総監は、五人分の名が記された別紙を机へ置いた。
ローディス・ベルグ。
セイル・クローデン。
リュカ・エアハルト。
ニナ・フェルナー。
トビアス・ケルン。
「北方帰還者三名と、同じ学級から二名。実地課程と直近の合同授業をもとに選んだことにする」
「演習中に確保しますか」
「まずは、どこまでが少年自身で、どこからがヴァルガなのかを見る」
軍政総監は、リュカの名を指でなぞった。
「器を壊しては意味がない。あれは、我らの魂を定着させた数少ない成功体だ」
◇
査察の翌日、第一学年の合同学級は、屋外演習場へ集められていた。
前日の緊張から解放されたせいか、生徒たちの声は普段より大きい。
フィルは演習場脇の武器棚へ留まり、トビアスの腰袋を見つめている。
「今日は何も入ってないぞ」
トビアスが腰袋を両手で隠す。
フィルは信じていないらしく、琥珀色の目を細めた。
「昨日の偉い人、怖かったね」
ニナが三人へ声を落とした。
「笑っていたけど、見られていると息がしにくかった」
「軍政総監だからね。息の仕方まで予算に入ってるのかもしれない」
セイルが答える。
「そんなわけないだろ」
トビアスが真顔で言った。
「セイルの冗談よ」
エルザが弓の弦を確かめながら補足する。
「分かってた」
「今、信じてた顔だったよ」
リュカが笑う。
いつもどおりの柔らかな笑顔だった。
だが、ローディスとセイルは、昨夜からリュカが一度も軍政総監の話を自分から出していないことに気づいている。
「リュカ」
ローディスが呼ぶ。
「授業が終わったら、昨日の続きを話すぞ」
「逃げないよ。僕も二人に相談したいことがあるから」
リュカは軽く答えた。
そこへ、ヴィルヘルム・ザイツが書面を手に演習場へ入ってきた。
「整列!」
短い号令で、生徒たちが二列に並ぶ。
「訓練を始める前に、軍務院から届いた通知を伝える」
ザイツは書面を開いた。
「三週間後、帝都全域で帝都防衛演習が実施される。本来、兵学府からの参加は第二、第三学年に限られるが、今年は第一学年からも五名の試験参加者を選ぶことになった」
生徒たちがざわめく。
「候補者は、ベルグ、クローデン、エアハルト、フェルナー、ケルン」
「俺?」
トビアスが自分を指さした。
「返事」
「はい!」
遅れて背筋を伸ばす。
ニナは驚いたまま書面を見つめ、ローディスは表情を引き締めた。
セイルだけが、すぐにリュカを見た。
「人選の理由を伺ってもよろしいですか」
「北方街道の校外実地課程、直近の合同授業、昨日の査察を踏まえた軍務院からの推薦だ」
ザイツは答えた。
「参加の最終決定は学府が行う。選ばれた五名は、本日の訓練後に説明を受けろ」
リュカは笑顔のまま、小さく息を吐いた。
「昨日の今日で、ずいぶん気に入られたみたいだね」
「嬉しそうには見えないな」
ローディスが言った。
「好かれたい相手は選びたいんだ」
リュカは腰の短剣へ手を添えた。
「それに、僕だけを呼ばないところが、余計に嫌だな」
◇
同じ日の夕刻、帝都南部の石材倉庫に三人の姿があった。
エレオノーラは黒石の杖を壁へ立てかけ、ディルクが持参した書面へ目を通している。
エヴァは今夜も別人の顔をしていた。
髪には白いものが混じり、目尻と口元には深い皺がある。軍政総監府で補助書記官を務めたときとは似ても似つかない、腰の曲がった老女の姿だった。
「査察の翌日に推薦ですか」
ディルクが腕を組む。
「手続きに不備はない。軍政総監には、査察結果をもとに試験参加者を推薦する権限がある」
「だから余計に厄介ね」
エヴァが老女の声で言った。
「正しい手順で、望んだ人間を望んだ場所へ動かしている」
「査察中、軍政総監はエアハルトへ強い関心を示しました」
エレオノーラが書面から顔を上げる。
「握手をした瞬間、彼の足元が揺らいだ。その前後に術式もマナの動きも感じませんでした」
「本人には確認したのか」
「学園長が間へ入りました。あの場で私が追及すれば、軍政総監へ異変を強調することになります」
ディルクは黙って頷いた。
「もう一つ」
エヴァが、折り畳んだ紙を木箱の上へ広げる。
帝都から北西軍団までの街道と、途中の宿駅が記された略図だった。
「私が軍務院で見た軍務官は、記録の上では今も北西へ移動している。昨日、三つ目の宿駅を通過したことになったわ」
「本人を見た証人は」
ディルクが尋ねる。
「宿駅の書記は、命令書と通行証を確認した。でも、顔を覚えていない」
「ありふれたことではあります」
エレオノーラが言う。
「ええ。一度ならね」
エヴァは、二つ目と三つ目の宿駅を指で叩いた。
「どちらも同じ。書類は正しい。通過印も本物。馬の交換記録もある。それなのに、髪の色も背格好も、答えられる者が一人もいない」
「記録だけが移動している可能性があるな」
「私もそう考えてる」
倉庫の外を、荷車の音が通り過ぎる。
三人は音が遠ざかるまで口を閉ざした。
「帝都防衛演習を止めることはできない」
ディルクが先に言った。
「軍政総監の推薦だけでは、不正の証拠にならん。第一学年の参加を学府が拒めば別だが、正規の教育機会として成立している」
「止める必要はありません」
エレオノーラは黒石の杖を取った。
「私は宮廷精霊術師として演習へ参加します。第一学年が加わるなら、術式と安全管理を確認する者が必要です」
「私は参加者の選定経路と、演習用物資の出所を洗う」
ディルクがエヴァを見る。
「レンナーはどうする」
「兵站区画は人が多い。顔を一つ増やしても、誰も気づかないでしょうね」
エヴァは老女の顔で、薄く笑った。
「ただし、三人とも同じ場所を見ないこと。誰か一人が疑われても、残り二人の道は残す」
「異論はない」
ディルクが二枚の書面を重ねた。
一枚は、存在するはずのない軍務官の移動記録。
もう一枚は、第一学年五名を演習へ招く推薦書の写し。
二つの紙の端には、どちらも軍政総監府の名があった。
◇
軍政総監府の執務室で、アウレウスは学府の受領印が加えられた推薦書の控えを眺めていた。
アウレウスは、ヴァルガが憤怒を受け継いでから、何に怒り、どのように力を増したかを知っている。
肉体を傷つけるだけでも、祝福は傷を塞ぐ。
だが、ヴァルガの魂を本当に目覚めさせるのは、痛みそのもではない。
奪われたとき。
守りたいものへ、手が届かなかったとき。
その魂は、最も美しく燃え上がる。
三人の名を囲うように、赤い線が引かれた。
「さて。今のお前は、何を奪われれば怒る?」




