第60話 借りた力
軍政総監による査察を翌日に控え、兵学府は朝から騒がしかった。
廊下では上級生が窓枠を拭き、玄関広間では教員が傷んだ敷石を確認している。
教室の梁では、フィルが革鞄の上へ腹を乗せ、その様子を見下ろしていた。
「どうして僕たちまで掃除させられるんだろうね」
セイルは自分の机を布で拭きながら言った。
「普段使っている場所だからだ」
ローディスは机を持ち上げ、床に溜まった埃を掃き出している。
「そういう正しい答えは求めてないよ」
「軍政総監って、そんなに偉いのか?」
トビアスが窓の外へ顔を出し、上階の窓を拭いている生徒を見上げた。
「軍務院の中枢で、予算や人事を扱う役職です」
ニナが答える。
「兵学府も軍務院の管轄ですから、偉いかどうかで言えば、とても偉いです」
「明日は槍の授業を見に来ないかな」
「見に来たら、あなたは急に上手くなるの?」
エルザが尋ねる。
「普段よりは」
「普段からやって」
教室の後ろで、小さな笑いが起きた。
リュカは窓枠を拭きながら、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。
「北方から戻った三人も査察対象なんだって」
「誰から聞いた?」
セイルが尋ねる。
「食堂で上級生が話してたよ。フィルも査察対象らしいね」
梁の上で、自分の名を聞いたフィルが首を上げる。
「僕たちより、珍しい竜族が目的かもしれないなあ」
「そうだといいね」
セイルの声は低かった。
軍務院内部の調査が専任者へ移った直後に、軍政総監本人が兵学府へ来る。
偶然と考えるには、時期がよすぎる。
「席へ着きなさい」
マレーネが教室へ入ってきた。
「掃除の成果を軍政総監に採点していただく予定はありません。授業を始めます」
生徒たちが布と箒を片づける。
黒板には、前日の神に代わって、二つの言葉が書かれた。
精霊術。
魔術。
◇
「魔術について、これまで一般に知られていたことは多くありません」
マレーネは黒板の二語の間へ、一本の縦線を引いた。
「魔族が精霊術とは異なる超常現象を起こすこと。人族の肉体を変化させる個体がいること。そして、人族へ力を与えることがある。その程度でした」
「先生。そもそも、どうして魔族って呼ぶんですか」
トビアスが手を挙げる。
「あいつらが、そう名乗ったんですか」
「いいえ。〈魔族〉は、人族側が付けた呼称です」
マレーネは黒板の端へ、人族と魔族の二語を書いた。
「人族という呼び名は古く、三王定衡会が行われていた時代から、竜族や精霊と区別するために使われていました。一方、魔族という呼び名が公的な記録へ現れるのは、〈黒淵〉の彼方から侵略が始まった約五十年前からです」
「魔、という言葉はそれ以前からあったんですか?」
ニナが尋ねる。
「ありました。精霊の働きでは説明できず、人へ害を及ぼす不可思議な力や現象を指す古い言葉です。〈黒淵〉から現れた侵入者が、精霊語も紋章も使わずにそうした力を振るい、集団で行動した。そこで人族は、知性ある彼らを魔族と呼び、魔族が使う力を魔術と呼ぶようになりました」
マレーネは魔族の下へ、魔物と書き加える。
「獣に近く、人語を解さないと考えられたものは魔物と分類されました。ただし、人語を話す魔物も確認されており、この区別が生物として正確だとは証明されていません」
「では、魔族自身が何と名乗っているかは?」
ニナが続けて尋ねる。
「不明です。人族は、会話が成立する個体を殺さずに捕らえることに成功していません。魔族と魔物は、あくまで人族が付けた便宜上の呼称だと覚えておきなさい」
「では、話を魔術へ戻します」
黒板の精霊術側へ、マナ、精霊語、紋章と書き加える。
「魔族との戦闘記録や、契約した人族に残された変化の調査が進んだことで、ここ数年、魔術にはいくつかの共通点が見え始めています」
今度は魔術側へ、三つの言葉が並んだ。
人族側のマナ不要。
発声不要。
紋章不要。
教室がざわめいた。
「本当に、何も要らないんですか」
ニナが黒板を見つめたまま尋ねる。
「少なくとも、人族側のマナ、精霊語の発声、紋章による願いの伝達は確認されていません」
マレーネは、人族と魔族を分ける線を黒板へ引いた。
「ただし、魔術そのものがマナを消費しない、という意味ではありません。超常現象を起こす際には魔術でもマナが動きます。契約者自身のマナではなく、契約相手である魔族側から供給されていると考えられています」
「離れた場所にいる魔族から、どうやってマナを受け取るんです?」
マレーネは魔族と人族を表す二つの円を描き、細い線で結んだ。
「契約によって、人族と魔族の間に何らかのつながりが生じる。力はそのつながりを通して人族側へ渡され、契約者は自分の手足を動かすように魔術を使う。現在、最も有力なのは、互いの魂が接続されているという説です」
リュカの右手が、机の下で自分の腿へ触れた。
誰もそちらを見ていない。
セイルだけが気づき、すぐに黒板へ視線を戻した。
「確認されている効果は、大きく二つに分けられます」
マレーネは黒板へ、肉体、現象と記した。
「一つは、筋力や速度を急激に高める。失われた部位を補う。皮膚、骨、爪などを別の形へ変えるといった、肉体の強化と変化です」
イヴォの右腕。
野盗首領の、壊れながら膨れ上がった身体。
三人が実際に見たものが、黒板の言葉と重なる。
「もう一つは、炎や衝撃など、精霊術に似た超常現象を起こすものです。ただし、魔術を属性で分類できるかは分かっていません。契約相手によって借りられる力が違うのか、同じ魔族が複数の力を与えられるのかも、研究途上です」
トビアスが勢いよく手を挙げた。
「自分のマナも、言葉も紋章も要らないなら、精霊術より強くないですか」
「発動の速さだけを比べれば、脅威になります」
「だったら、戦うときはどう止めるんです?」
「発動前に杖や紋章を破壊する方法は通用しません。相手の動きを封じるか、意識を失わせる。肉体が変化している場合は、通常の人族と同じ急所が有効とは限らないため、距離を保って複数人で対処することが推奨されています」
「契約しないよう説得するのは?」
ローディスが尋ねた。
「最も安全で、最も難しい方法です」
マレーネは答えた。
「契約を持ちかけられる者の多くは、精霊術を使えない、傷を治す手段がない、現在の力では望むものを守れないといった事情を抱えています。危険だと告げるだけでは、目の前に示された力を諦めさせられない場合があります」
教室の空気が重くなる。
「魔族は、無償で力を渡すわけではありません。契約者へ人族に対する破壊や殺傷を求めた事例があります。また、得た力によって本人の意思とは無関係に肉体が変質した記録もある」
「契約した人を、元へ戻す方法はないんですか」
ニナが尋ねる。
「確立されていません」
「魂がつながっているなら、相手の魔族を倒せば切れるんでしょうか」
セイルの問いに、マレーネの視線が向いた。
「分かりません」
短い返答だった。
「契約相手と考えられる魔族が討たれた後、魔術を使えなくなった例はあります。ただし、それで魂の接続まで失われたと確認する方法がない。別の影響が残る可能性も否定できません」
イヴォは、最初の声が消えた後も、別の声に呼ばれた。
それを知る三人は、誰も口を開かなかった。
「授業で共有できるのは、ここまでです」
マレーネは黒板の二つの円を消さずに言った。
「魔術は、精霊術を簡単にした技術ではありません。似た現象を起こせても、力を借りる相手も、結ぶものも、支払う代償も違う。目の前で精霊語や紋章を使わなかったという理由だけで、安易に魔術と断定してもいけません」
セイルは白い仮面を思い出した。
精霊語も紋章も使わず、十人の魂を別の身体へ移した学園長。
魔術と断定することはできない。
だが、似ていないと考えることも、もうできなかった。
◇
翌朝、正門前に帝国軍の馬車が六台並んだ。
先頭の馬車から、エレオノーラ・ヴァイスが降りる。
長い銀髪を高く結い、帝国紋章のある鉄色の外套をまとっていた。黒石の杖が石畳を打つ。
その姿を見て、整列していた生徒たちの間に緊張が走った。
「宮廷精霊術師まで来るなんて聞いてないぞ」
トビアスが囁く。
「僕もだよ」
セイルは前を向いたまま答えた。
エレオノーラの参加は、前日に生徒へ伝えられた査察予定には含まれていなかった。
最後に、中央の馬車の扉が開く。
壮年の男が、急ぐ様子もなく地面へ降りた。
黒髪は一筋の乱れもなく後方へ撫でつけられている。細く整えた口髭の下には、薄い笑みがあった。
軍装の肩には金糸の肩章。胸元を横切る飾緒は、男がこの場にいる軍人の誰より高い地位にあることを示している。
天穿山脈の地図へ、金色の駒を置いていた男だった。
オルフェンが玄関前で両腕を広げる。
「ようこそ、帝立アストラ兵学府へ。閣下をお迎えできるとは、朝から仮面を磨いた甲斐がありました」
「普段は磨かないのかね」
「曇り一つない人格をしておりますので」
「仮面の話をしている」
軍政総監が笑う。
オルフェンも明るく笑い返した。
「ヴァイス宮廷精霊術師までご同行とは伺っておりませんでした」
「昨夜、印章管理の監査責任者として加えるよう申請しました」
エレオノーラが答える。
「今回の査察には、模造体競技の術式と竜族の滞在状況も含まれています。精霊術師の目も必要かと」
「勤勉な部下を持てて、私は幸運だ」
軍政総監の口元には、変わらず笑みがある。
目だけは、笑っていなかった。
◇
査察は教室、演習場、医務棟の順に進んだ。
軍政総監は授業の進め方へ口を挟まず、教員の説明を聞き、時折短い質問をした。
模造体を用いた団体対抗競技については、生命術担当のベルタへ安全記録の提出を求めただけだった。
「魂を仮の身体へ移す工程は、再現できるのかね」
軍政総監が尋ねる。
「学園長の術を除けば、できません」
ベルタは正直に答えた。
「私たちが担当したのは、模造体と本来の身体の維持です」
「興味深い」
「教育上の余興ですよ」
オルフェンが軽い調子で割り込む。
「書類の山を増やすほどのものではありません」
「余興で十人の魂を動かしたのか」
「若者同士の議論は、少し派手なくらいがよいでしょう?」
「君は昔から、加減というものを知らない」
その言葉に、オルフェンの仮面が僅かに軍政総監へ向いた。
「昔をご存じとは光栄です」
「学園長ともなれば、経歴くらいは調べている」
軍政総監は、それ以上続けなかった。
最後に案内されたのは、第一屋内演習棟だった。
北方から戻った三人が、中央に並んでいる。
ローディスは大剣を背負い、セイルは新しい杖を持っていた。リュカの腰には、授業用の短剣がある。
頭上の梁にはフィルが留まり、知らない一団を琥珀色の目で見下ろしていた。
「君たちが、北方街道の校外実地課程へ参加した三人か」
「はい」
ローディスが代表して答える。
「街道の調査に加え、竜人の村まで赴いたと聞いている」
「村から協力を求められ、教員と北方支部の許可を得て向かいました」
「そこで異形と戦った」
「はい」
「よい経験になっただろう」
軍政総監は、まずローディスの大剣を見た。
次に、セイルの杖。
最後に、リュカへ視線を止める。
「エアハルト君」
「はい」
リュカは、学園で使う人当たりのよい笑顔を返した。
「記録では、君は精霊との契約を持たず、武技の成績も中位となっている」
「目立たないのが得意なんです」
「それは成績とは呼ばないよ」
軍政総監が一歩近づく。
「だが、北方の報告では、随分と機転が利いたそうだ」
「二人が強いので、僕は空いている場所を探していただけです」
「自分の役割を見つけるのも才能だ」
差し出された右手を、リュカは拒めなかった。
軍政総監の手袋と、リュカの手が触れる。
その瞬間、リュカの両脚に刻まれた紋章が、熱を持った。
両脚から一瞬だけ力が抜け、体勢が揺らぐ。
「どうした?」
軍政総監が尋ねる。
「緊張しました」
リュカは笑顔を崩さなかった。
「軍政総監閣下と握手できるなんて、一生自慢できますから」
「君なら、もっと大きなものを自慢できるようになる」
男の指が離れる。
熱も、それと同時に消えた。
「卒業後は、軍政総監府へ来るといい。目立たず空いた場所へ入れる者は、軍務でも重宝する」
エレオノーラが、リュカの足元へ視線を落とす。
その視線を遮るように、オルフェンが二人の間へ入った。
「一年生の進路を予約なさるには、少々早すぎませんか」
「見込みのある生徒を囲い込むなら、早い方がよい」
「本人の希望をお忘れなく」
「もちろんだ」
軍政総監は、リュカから視線を外した。
「私は、価値あるものを無理に奪う趣味はない」
梁の上で、フィルが低く喉を鳴らした。
軍政総監が見上げるより先に、エレオノーラが黒石の杖を一度鳴らす。
「次の査察場所へ参りましょう。予定から遅れています」
「そうしよう」
一行が演習棟を出ていく。
扉が閉じるまで、リュカは笑顔のままだった。
「脚は」
ローディスが小声で尋ねる。
「平気だよ」
「握手したとき、足元が揺らいだね」
セイルは扉を見たまま言った。
「少し、紋章が熱くなった」
「あの人が何かしたのか」
「分からない」
リュカの笑顔が消える。
「でも、僕の脚は、あの人を知ってるみたいだ」
◇
査察を終えた馬車の中で、軍政総監は右手の手袋を外した。
掌には何もない。
それでも、リュカへ触れた指を、確かめるように親指でなぞる。
「憤怒の器は、あの火事で失われたと思っていたが」
向かいに座る書記官は、意味を尋ねなかった。
男は窓の外へ目を向ける。
兵学府の尖塔が、少しずつ遠ざかっていく。
「生きていたか」




