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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第59話 忘れられた神

 翌日の歴史授業で、マレーネは黒板へ一文字だけ書いた。


 神。


 教室のあちこちから、戸惑ったような声が漏れる。


「今日扱うのは、精霊の存在が明らかになる以前の人族史です」


 マレーネは白墨を置き、生徒たちを見渡した。


「当時の人々も、火が森を焼き、雷が空から落ち、傷が一夜で塞がるような現象を見ていました。しかし、その原因を確かめる方法はなかった」


「精霊語がなかったからですか?」


 ニナが尋ねる。


「正確には、体系化されていなかったからです。一部の人間が精霊らしきものについて語った記録はあります。ただし、他の者には姿も見えず、声も聞こえない。同じ現象を意図して起こすこともできませんでした」


 マレーネは黒板の神という字を丸で囲った。


「そこで人々は、目に見えない強大な何者かが、超常的な現象を起こしていると考えました。その存在を神と呼び、雷や炎を生むだけでなく、世界そのものを作ったのだとする伝承も生まれました」


 トビアスが片手を挙げる。


「でも、実際にやっていたのは精霊なんですよね」


「確認できる現象の多くは、そう説明されています」


「なら、神はいなかった?」


 マレーネはすぐには答えなかった。


「精霊の存在が証明されたことと、神が存在しないと証明されたことは同じではありません」


 教室が静かになる。


「精霊学祖エルヴィン・ノアは、精霊語を体系化しました。さらに原初契約が結ばれたことで、人族は一定の条件を満たせば、同じ願いを精霊へ伝え、同じ種類の現象を起こせるようになった。確かめ、記録し、他者が再現できる知識になったのです」


 神へ祈った結果は、人によって異なる。


 だが、正しい精霊語で契約した精霊へ願い、必要なマナを渡せば、炎は生まれる。水は集まり、風は動く。


「それまで神の仕業とされていた現象へ、精霊という名前と仕組みが与えられました。人々が神を信じなくなっていったのは、自然な流れでしょう」


「名前が変わっただけじゃないの?」


 リュカが頬杖をついたまま言った。


 マレーネの視線が向く。


「どういう意味ですか、エアハルト」


「昔の人は、見えない何かが雷を落とすと思って神と呼んだ。今は、それを雷の精霊と呼んでる。相手のことを全部分かったわけじゃないなら、分からないものにつけた名前が変わっただけにも見えるなって」


「精霊は契約によって応答します。神に対する一方的な祈りとは異なります」


 ニナが反論する。


「うん。だから昔より分かったことは多い。でも、精霊がどうして生まれたのかは?」


 ニナの口が止まった。


「世界がどうしてあるのかは?」


「授業を奪わないように」


 マレーネが釘を刺す。


 リュカは、素直に口を閉じる代わりに笑顔を返した。


「エアハルトの問いは、現在も答えが出ていません」


 マレーネは黒板へ、世界、精霊、人族と書き足した。


「精霊によって超常現象の仕組みを説明できても、世界や精霊そのものを誰が、あるいは何が生み出したのかは分からない。ゆえに現在も神を信じる人々はいます」


「帝国にも?」


 今度はエルザが尋ねた。


「います。個人で祈る者もいれば、古い信仰を残す地域もあります。戦場へ向かう者が、精霊との契約とは別に無事を祈ることもある。信仰が少数になったからといって、消滅したわけではありません」


 ローディスは黒板を見上げた。


「先生は、信じていますか」


 隣のセイルが、僅かに顔を向けた。


 マレーネも、質問をしたローディスを見返す。


「私が教えているのは、歴史です」


「答えになっていません」


「授業に必要な答えではありません」


 教室に小さな笑いが起きる。


 マレーネは白墨で黒板を叩いた。


「神を信じるかどうかは、各人が決めることです。ただし、信じることと、確かめた事実を曲げることは区別しなさい。逆も同じです。証明できないものを、存在しないと決めつけるのも歴史学ではありません」


 鐘が鳴った。


 生徒たちが教本を閉じ始める。


「次回は魔術について扱います。ここ数年の研究で、魔族と契約した人族について新たに共有された情報があります。精霊術との違いを整理しておくように」


 教室のざわめきが、一段大きくなった。


 ローディスは、リュカを見た。


 リュカは黒板の神という字を眺めている。


 魔族の魂を脚に宿した彼が何を考えているのか、笑っていない横顔からは分からなかった。


     ◇


 同じ頃、エヴァは軍政総監府東棟の廊下にいた。


 今日は清掃婦でも配達人でもない。


 黒髪を後頭部で固くまとめ、細い銀縁の眼鏡を掛けた、三十代ほどの女性書記官だった。


 頬には土の薄膜で僅かな丸みを加え、目元には水分を多く含ませて、寝不足の腫れを作っている。腕に抱えた書類の束には、エレオノーラが〈石環派〉を通じて通した印章管理監査の目録が載っていた。


 今回は、偽の通行札ではない。


 正式な監査に、存在しない補助書記官が一人紛れ込んでいる。


「監察局の承認印は、十二日前に確認済みです」


 東棟の管理官が、机越しに答えた。


「印面、柄、保管箱、いずれも異常なし。記録はこちらに」


 差し出された検査簿には、三人の名があった。


 検査官。


 立会人。


 印を運んだ軍務官。


 最後の名を、エヴァは覚えている。


 上層資料室から革鞄を運び、靴に赤褐色の土をつけていた若い男だ。


「この方に、確認したいことがあります」


「もう東棟にはいません」


 管理官は、別の帳面を開いた。


「五日前、北西軍団へ異動しました」


 エヴァは表情を変えなかった。


 彼女が若い軍務官を見たのは、昨日だ。


「出発日は?」


「同日です。午後の輸送隊に加わっています」


「帰任や一時出頭の記録は」


「ありません。北西軍団までは早くても六日。まだ到着報告すら来ない頃でしょう」


 五日前に帝都を発った男が、昨日、軍務院を歩いていた。


 記録が偽りなのか。


 昨日見た男が偽物なのか。


 あるいは、どちらも本人ではないのか。


 エヴァは検査簿の頁をめくった。


 紙の端に、新しい汚れがある。


 赤褐色の土。


 若い軍務官の名の上だけを、指で擦った跡が残っていた。


「この検査簿は、最近どなたかが閲覧しましたか」


「今朝、軍政総監(ぐんせいそうかん)付きの書記官が確認しました」


「理由は」


「兵学府の定期査察に、印章管理の確認を追加するためだそうです」


 エヴァの指が止まった。


「査察は、いつですか」


「明後日です」


 管理官は、何でもない予定を読み上げるように答えた。


「今回は軍政総監閣下ご自身が赴かれます」


     ◇


 監査を終えたエヴァは、東棟の便所へ入った。


 個室の戸を閉じ、袖の中から細い紙を取り出す。


 書いたのは三つだけだった。


 五日前に異動した軍務官が、昨日も帝都にいたこと。


 何者かが今朝、彼の名を検査簿で確認したこと。


 軍政総監本人が、明後日、兵学府を査察すること。


 髪から抜いた鉄串へ紙を巻きつけ、細い筒状に整える。


 窓を僅かに開けると、雨樋の陰に、小指ほどの土人形が張りついていた。


 エヴァは鉄串から紙を抜き、土人形の背へ入れる。


「ヴァイス宮廷精霊術師へ」


 土人形は壁を下り、雨樋の中へ消えた。


 エヴァは戸を開ける前に、鏡の中の書記官を見た。


 頬の形。


 眼鏡。


 歩き方。


 名前。


 人の姿を借りるのは、彼女の仕事だ。


 だが、昨日見た男は、何を借りていた。


     ◇


 その日の夕刻。


 オルフェンの机には、帝国軍務院から届いた正式な査察通知が置かれていた。


 正式な通知には、査察対象が列挙されている。


 兵学府の教育課程。


 模造体を用いた団体対抗競技。


 竜族の伝令役であるフィルの滞在。


 北方の校外実地課程から帰還した生徒三名。


 オルフェンは最後の一行を、手袋に覆われた指で二度叩いた。


 秘書が机の前で待っている。


「査察の準備を始めますか」


「もちろんです。軍政総監閣下が直々にお越しくださる。全校を挙げて、心から歓迎しなければ」


 仮面の奥から、普段どおりの明るい声が返る。


「生徒には明日の朝、通達します」


「ええ。廊下を磨き、窓を拭き、フィルには来客の食事を盗まないよう念入りに教えてください」


「承知しました」


 秘書が退室する。


 扉が閉じたあとも、オルフェンは動かなかった。


 オルフェンは正式な通知を折り、引き出しへ収めた。


「さて」


 誰もいない部屋で、声から笑みが消える。


「今度は、何を取りに来るつもりかな」


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