第58話 顔のない調査員
原本を学園長へ預けてから、三日が過ぎた。
軍務監察局から新しい命令は来ない。
代わりに届いたのは、合同授業の課題だった。
「帝都北部から兵学府まで、負傷者二十人を運ぶ経路を決めなさい。使用できる馬車は三台。橋の一つは破損。土の精霊術師は一人、水の精霊術師は二人。期限は日没まで」
ザイツが黒板へ条件を書き並べる。
生徒たちは五人ずつの組へ分かれ、机へ地図を広げた。
ローディス、セイル、リュカの組には、ニナとトビアスが加わっている。
「北門から大街道を使えば早いです」
ニナが地図の太い線を指した。
「でも、壊れた橋を避けると遠回りになります」
「土の精霊術で橋を直せないのか」
ローディスが尋ねる。
「石を積むだけならできても、負傷者を乗せた馬車を三台続けて通す強度が必要だ。術師一人へ任せるには危険だね」
セイルは橋の脇へ小さな印をつけた。
「なら、ここで荷車へ乗せ替える?」
リュカが細い路地を指す。
「負傷者を二十人も?」
トビアスが顔をしかめた。
「運ぶ側が先に倒れそうだ」
「君が十人くらい背負えばいいよ」
「俺を何だと思ってる」
「活発で筋肉質な人」
ローディスとセイルが、同時にリュカを見た。
命の精霊が好む人間について、以前交わした話を思い出したのだ。
リュカは何もなかったように笑っている。
「残りはローディスが背負うとして」
「勝手に決めるな」
ローディスが言った。
「橋の手前で馬車を止める。水の精霊術師二人に川の流れを弱めてもらい、土の術師が浅い場所を固める。歩けない者だけ担架で渡す」
「馬車は向こう岸へ渡せないよ」
セイルが指摘する。
「別の馬車を用意する」
「条件にない」
「町にあるものを借りる。無償でとは言わない」
セイルが少し考え、地図の余白へ費用と交渉時間を書き加えた。
「悪くない。少なくとも、精霊術師一人に橋と二十人の命を預ける案よりはね」
「僕の案は?」
リュカが尋ねる。
「筋肉が足りない」
トビアスが答えた。
「残念だなあ」
教室の窓から、小さな影が入り込んだ。
フィルが羽ばたきを止めず、ローディスたちの机へ降りる。その口には、食堂で見かける細長い燻製肉があった。
「また取ってきたのか」
ローディスが燻製肉を掴む。
フィルは離さない。
「持ち主へ返すぞ」
低い唸り声が返った。
「授業中です!」
ニナが小声で叱る。
フィルは燻製肉を咥えたまま、地図の上へ座った。
「負傷者の搬送経路が、竜族に占拠されたね」
セイルが言う。
「別の経路を探す?」
「まず持ち主を探せ」
ローディスがフィルを抱き上げる。
教室の前では、ザイツがこめかみを押さえていた。
「ベルグ。提出する地図に、竜は含めるな」
「分かっています」
「エアハルト。笑っていないで窓を閉めろ」
「はい」
軍の命令書も、消えた資料も、今の教室にはない。
三人は日没までに負傷者を運ぶ方法を考え、燻製肉の持ち主を探し、午後にはそれぞれの専攻授業へ戻る。
調査の続きを任されたのは、学生ではなかった。
◇
帝都西部の安宿で、一人の女性が鏡へ向かっていた。
年齢は判然としない。
細い輪郭に、低い鼻、色の薄い唇。灰色の目も、肩まで垂らした茶色い髪も、視線を外せばすぐに思い出せなくなりそうだった。
宵衛で彼女に与えられている名は、エヴァ・レンナー。
本名を知る者は、組織の中にもほとんどいない。
机には、小さな土人形が置かれている。
丸い胴の蓋を開くと、中には三枚の薄紙が入っていた。
軍務院の臨時回収命令。
ディルク名義の移管票。
同じくディルク名義で兵学府へ届いた原本提出命令。
すべて写しだった。
その下には短い指令がある。
――書面を追うな。書面を運んだ人間と、印が動いた経路を追え。
エヴァは三枚を一度だけ読み、蝋燭の火へ入れた。
灰が落ちる前に、内容は頭へ入っている。
彼女は椅子から立ち、精霊語を囁いた。
浅い皿に入れた黄土、白土、黒い鉱石の粉が持ち上がる。土の精霊が粒の大きさを揃え、色ごとに細い帯へ分けた。
水差しから数滴が浮かび、粉と混ざる。
エヴァはできあがった顔料を頬へ塗った。
土の薄膜が頬骨を僅かに高く見せ、鼻筋を太くする。水の精霊術が表面の潤いを調整し、目尻と口元へ細かな皺を作った。
髪には白い鉱粉を馴染ませる。
背を丸め、顎を引く。
鏡の前にいるのは、疲れた五十代の清掃婦になった。
精霊術が変えたのは、顔の僅かな高低と色、肌の質感だけだ。
年齢を作ったのは、重心、瞬きの間、口を開く前に息を漏らす癖だった。
エヴァは袖口を確かめる。
縫い目の中に細い針が六本。
靴底に薄刃が二枚。
髪をまとめた鉄串は、引き抜けば短い錐になる。
どれも、使わずに帰るための武器だった。
◇
軍務院の通用口では、清掃人の交代が一日二度ある。
エヴァは午前の清掃婦が角を曲がるまで待ち、その歩幅と左肩の下がり方を覚えた。
次の角を曲がったときには、同じ歩き方をしていた。
顔は似せていない。
人は、清掃婦の顔より、灰色の前掛けと掃除道具を見る。
裏口の兵士へ通行札を示す。
「昨日もいたか?」
「昨日も、一昨日もいましたよ。若い人は床なんて見ないから、覚えてないでしょうけどねえ」
少し掠れた声で答える。
兵士は通行札と顔を二度見比べ、最後には前掛けを見て通した。
一階の廊下。
中央階段。
上層資料室へ続く北側通路。
エヴァは床を拭きながら、人の流れを見た。
役職の高い者ほど、自分で書面を運ばない。
書記官から配達兵へ。
配達兵から受付へ。
受付から資料係へ。
命令は人の手を渡るたび、誰が最初に書いたのかを失っていく。
昼前、上層資料室から若い軍務官が出てきた。
革鞄を左脇に抱え、空いた右手で何度も襟元を直している。
エヴァは汚れた水を捨てるふりをし、彼の靴を見た。
踵に、赤褐色の泥が乾いている。
軍務院中枢の中庭は白い砂利敷きだ。赤土がつく場所は限られる。
軍政総監府へ続く東棟の改修区画。
そこでは今月、壁土の入れ替えが行われている。
軍務官は中央階段を下り、内部便の集配室へ入った。
数分後、手ぶらで出てくる。
エヴァは床へ残った泥を布で拭った。
布の内側へ土を包み、掃除道具を置く。
追う相手は、紙から人へ変わった。
◇
午後の精霊術授業では、水球を壊さず障害物の間へ通す訓練が行われていた。
セイルの水球が、並べられた十二本の棒を縫う。
右へ。
上へ。
二つに分かれ、別々の隙間を通り、最後に一つへ戻る。
「速さを落としなさい、クローデン」
クララが銀の小杖を向けた。
「後ろの者が、あなたと同じ速度で制御できると思わないこと」
「単独訓練では?」
「今日は単独です。戦場では違います」
「分かりました」
セイルは水球を一回り小さくし、速度を落とした。
隣では、ニナの水球が三本目の棒へ当たり、床へ落ちている。
「火なら、もっと上手くできるんです」
「火で同じ失敗をすれば、棒では済みません」
クララは淡々と答えた。
教室の後方では、契約属性の違う生徒たちが、水の精霊と契約する生徒の制御を記録している。
セイルは次の水球を作りながら、午前中に届いた小型ゴーレムの返答を思い返した。
――軍務院内部の調査は、専任者へ移す。三名は学業を継続。追加指令まで接触を避けよ。
ローディスは不満そうだった。
リュカは「学生らしく勉強できるね」と笑った。
セイルは、正しい判断だと思っている。
軍務院の内部へ入り、印の管理と人の動きを追う仕事は、学生三人が行うものではない。
それでも、誰が引き継いだのかは知らされなかった。
宵衛では、自分の班以外の素性を知らない。
今頃、名前も顔も知らない誰かが、自分たちの持ち帰った記録を追っている。
セイルの水球が、最後の棒を回り込んだ。
形は崩れない。
だが、水面には窓の光とともに、白い仮面が一瞬だけ映った。
学園長へ尋ねたことも、まだ二人には話していない。
◇
若い軍務官は、東棟を出ると帝都中央部の共同浴場へ入った。
エヴァは追わなかった。
清掃婦の姿で男湯へ入れば、顔より先に覚えられる。
裏路地へ回り、顔へ薄く水を走らせる。
皺を作っていた土が軟らかくなった。
濡れた布で拭い、今度は顎を細く、目元を暗く整える。白髪を落とし、髪を帽子へ収めた。
上着を裏返す。
清掃婦は消え、二十代ほどの痩せた配達人が路地から出た。
共同浴場の正面が見える茶店へ入る。
若い軍務官が出てきたのは、一刻後だった。
革鞄は持っていない。
代わりに、軍服の内側へ何かを入れている。
彼は東ではなく、南へ歩き始めた。
三つ目の角で、別の男が後ろについた。
エヴァではない。
黒い外套の男が、軍務官とエヴァの間へ入っている。
尾行を見つけたのか。
それとも、最初から軍務官を監視していたのか。
エヴァは店先の果物へ手を伸ばし、銅貨を払った。
追跡をやめる。
黒外套の男も足を止めた。
距離は二十歩。
互いに相手を見ない。
エヴァは果物を一口齧り、人通りの多い市場へ向かった。
黒外套の男がついてくる。
市場の水桶へ指を触れ、短い精霊語を落とす。
桶から跳ねた水が、前を歩く荷運び人の靴へかかった。
「おい、何をする!」
怒声が上がる。
人が止まり、荷車が道を塞ぐ。
エヴァは露店の布の陰へ入り、土の精霊へ願いを伝えた。
頬の土膜が崩れ、顔の形が戻る。
帽子を脱ぎ、上着を隣の籠へ落とす。
次の瞬間、露店から出たのは、買い物籠を抱えた年齢の分からない女だった。
黒外套の男が配達人を探して市場を見回す。
その脇を、エヴァは歩いて通り過ぎた。
袖の中の針へ触れる必要はなかった。
◇
その夜、帝都南部の使われていない石材倉庫に三人が集まった。
昼のうちに、エレオノーラの私室へ印のない小型ゴーレムが現れていた。運んできたのは、過去に宵衛との連絡で使われた合言葉と、この場所、この時刻、ディルクを伴うよう求める短い書面だけだった。
誰と会うのかは、エレオノーラにも知らされていなかった。
一人はエレオノーラ。
長い銀髪を高く結い、帝国紋章のない灰色の外套をまとっている。人の背丈ほどある黒石の杖だけは隠していなかった。
一人はディルク。
焦茶色の髪に白いものが混じり、額から右眉へ古傷が下りている。外套の下には軍務監察官の制服を着たままだった。
最後の一人は、エヴァだった。
今は変装を落とし、特徴の薄い本来の顔を晒している。
「彼女が、あなたの情報提供者ですか」
ディルクがエレオノーラへ尋ねた。
「正確には、今日から互いに情報を出す相手です」
「信用できるのか」
「あなたよりは」
「比較の基準が低すぎます」
エヴァが言った。
ディルクが彼女を見る。
「名前は」
「今日は、エヴァ・レンナーです」
「本名を聞いている」
「本名を答えるほど、まだ協力していません」
エレオノーラが黒石の杖を床へ立てる。
「互いの素性を暴くために呼んだのではありません。ハーゼ監察官は軍務院の記録を追える。彼女は記録に残らない人の動きを追える。私は、二人が見つけたものを握り潰されない形で上へ通せます」
「あなたの〈石環派〉を信用しろと?」
「私個人を信用なさい。派閥全体を信じろとは言いません」
「違いは」
「私が裏切ったなら、あなた自身で私を告発できます」
「宮廷精霊術師を告発できる証拠が残ればな」
「だから、この方がいるのでしょう」
エレオノーラの視線が、エヴァへ向く。
エヴァは小さな布包みを床へ置いた。
開くと、赤褐色の乾いた土が現れる。
「上層資料室から出た軍務官の靴についていた土です。軍政総監府へ続く東棟の改修区画で使われている壁土と、粒の形と混ぜ物が一致します」
「土だけで、所属までは決められない」
ディルクが言った。
「ええ。だから人も見ました。その軍務官は上層資料室から内部便の集配室へ革鞄を運び、帰りに共同浴場で別の荷を受け取った。その後、何者かに監視されていました」
「荷の中身は」
「見ていません」
「尾行した男は」
「顔を隠していました。歩き方は軍人ではない。私を追ったので、軍務官の側でしょう」
「推測だな」
「だから、事実と分けて話しています」
ディルクは何も言わなかった。
自分が三人の学生へ繰り返した言葉だった。
「ハーゼ監察官は、何を持ってきましたか」
エヴァが尋ねる。
ディルクは外套の内側から二枚の紙を出した。
偽造移管票と、原本提出命令の写し。
「署名は一日で正確になった。二枚目は、前日に俺が残した署名の癖を写している。承認印はどちらも本物だ」
「印の保管記録は?」
「正規記録では、一度も持ち出されていない」
「なら、印を盗んだのではありません」
エヴァは二枚を灯りへ透かした。
「印を使える場所で、命令書を作った」
エレオノーラが杖へ手を添える。
「軍政総監府にも、軍務監察局と同じ承認印がありますか」
「同じものではありません」
ディルクは首を振った。
「だが、監察局の印を検査する権限がある。年に一度、印影と印材の欠損を確認するため、軍政総監府の監査官が保管庫へ入る」
「今年は?」
「十二日前だ」
倉庫の中が静かになる。
六本指の異形と遭遇するより前。
回収要請が軍務院へ届くより前。
「印そのものを持ち出さなくても、型は取れます」
エヴァが布包みの土を指先で押す。
土の表面へ、指紋が鮮明に残った。
「柔らかい土か蝋へ一度押し、金属で複製すればいい」
「検査へ来た者の名簿を出せますか」
エレオノーラが尋ねる。
「出せる。だが、正式に照会すれば相手へ伝わる」
「私が別件の印章管理監査を提案します。監察局だけでなく、宮廷と各軍団の印も対象にする。特定の印を調べているとは見えないでしょう」
「時間がかかる」
「その間に、私が人を追います」
エヴァが言った。
「ハーゼ監察官は、偽造に気づいていない顔を続けてください。ヴァイス宮廷精霊術師は、広い監査の名目を作る。私は、東棟から出入りする者と、今日の軍務官を追う」
「一人でか」
「一人だから、顔を変えられます」
「危険なら連絡を」
エレオノーラが告げる。
「連絡した時点で、危険ではなく失敗です」
「死ねば、それ以上の失敗です」
エヴァは僅かに目を細めた。
「では、死ぬ前に連絡します」
約束になっていない返事だった。
それでも、三人の間に役割はできた。
記録を追う者。
表から調査を通す者。
記録の外で、人を追う者。
エヴァは二枚の写しをディルクへ返した。
「学生たちは、もう使わないでください」
ディルクの目が鋭くなる。
「俺が使ったわけではない」
「でも、使われた。相手は学生が原本を持つと知り、あなたの名前で取りに来た」
エレオノーラが二人の間へ言葉を挟む。
「原本は学園長が保管しています。あの方から力ずくで奪える者は、帝都にもほとんどいません」
「だから、次は原本ではなく、人を狙うかもしれない」
エヴァの薄い顔から、僅かな笑みも消えた。
「こちらが軍政総監府へ近づいたと、相手が気づけば」
倉庫の外で、車輪の音が通り過ぎる。
三人は話を止めた。
音が遠ざかってから、エヴァは灰色の外套を頭まで被った。
「次に会うとき、私は別の顔です」
扉を開ける前に、ディルクが尋ねる。
「どう見分ける」
「見分けなくて結構です」
エヴァは振り返らなかった。
「私から見つけます」




