第57話 出していない命令
朝の鐘が鳴ってから、まだ半刻も経っていなかった。
第一学年の武技専攻は、屋外演習場で二人一組になり、木剣を打ち合わせている。
ローディスが振り下ろした木剣を、向かいの生徒が両手で受けた。乾いた音が響き、相手の足が砂を削って下がる。
「止めるな! 受けた力を横へ逃がせ!」
ヘルマンの声が飛ぶ。
ローディスは木剣を引いた。向かいの生徒が構え直すより先に、演習場の入口から事務員が駆けてくる。
「ローディス・ベルグ。リュカ・エアハルト。稽古を中断してください」
「俺たちですか」
「セイル・クローデンとともに、教員棟へ来るようにとのことです」
周囲の木剣が、少しずつ止まった。
ヘルマンが生徒たちを睨む。
「見物する暇があるなら続けろ。ベルグ、エアハルト。行ってこい」
「はい」
ローディスは木剣を武器棚へ戻した。
隣では、リュカが対戦相手へ頭を下げている。
「僕がいない間に強くならないでね」
「お前が戻るまでに三本取れるようになっておく」
「それは困るなあ」
いつもと変わらない笑顔だった。
昨夜、足に魔族の魂があると明かした人物には見えない。
ローディスは何かを言いかけ、やめた。今ここで確かめることではない。
◇
教員棟の廊下では、セイルが先に待っていた。
新しい杖を左手に持ち、右手で制服の胸元を押さえている。その内側には、薄い木板で挟んだ受領証原本がある。
「今度は何だ」
ローディスが尋ねる。
「原本の提出命令」
「朝の指示と逆じゃない?」
リュカが言った。
「だから、まだ渡していない」
三人の前にある応接室の扉が開いた。
中から現れたのは、昨日の事情聴取で記録を取っていた軍務監察局の書記官だった。三十歳前後の痩せた男性で、短い黒髪を油で撫でつけ、今日も指先まで覆う白い手袋をつけている。
「三人とも揃いましたね。中へ」
室内にはマレーネもいる。
壁際に立ち、軍務監察局の書記官と三人の間へ視線を配っていた。
机の上には、一通の命令書が置かれている。
「改めて伝えます」
書記官は命令書を三人へ向けた。
「天穿山脈で回収された受領証原本を、追加の照合に使用します。セイル・クローデンは、原本を私へ提出してください」
「ディルク監察官は、どこにいますか」
「軍務院上層資料室です。昨日、そこへ移された資料との照合を行っています」
「本人と会わせてください」
「照合は上級機密を扱う区画で行われています。学生を入れることはできません」
「では、渡せません」
書記官の眉が寄る。
「命令書は確認したでしょう」
「確認しました。ディルク監察官の名前と、軍務監察局の印があります」
「ならば、従ってください」
「今朝、同じディルク監察官の名前で、本人と対面確認できない限り原本を渡すなという通知を受けました」
セイルは黒い封蝋の欠片が残る通知を机へ置いた。
書記官は初めて、それを手に取った。
文面を追うにつれて、顔から苛立ちが消えていく。
「この通知は、私も作成に関わりました」
「では、こちらの命令と食い違うことも分かりますね」
「状況が変わったのかもしれません」
「それを、ディルク監察官本人へ確認します」
書記官はすぐに答えなかった。
ローディスが机上の二枚を見比べる。
「どちらも本物なのか」
「少なくとも、保全通知は本物です」
書記官が答えた。
「提出命令は?」
「正式な内部便で届きました。書式も印も正しい。ハーゼ監察官の署名もあります」
「でも、あなたは作っていない」
リュカが命令書を覗き込む。
「朝の通知を作ったあなたが知らないなら、どこで増えたんでしょうね」
「書面から離れてください」
「触ってもいませんよ」
リュカは両手を上げ、素直に一歩下がった。
書記官は命令書を手元へ引き寄せる。
「原本を提出しない場合、証拠隠匿または軍務妨害と判断される可能性があります」
「可能性で生徒を脅すのは感心しないなあ」
扉の外から、明るい声がした。
オルフェンが室内へ入ってくる。
襟の高い黒衣、肌を覆う手袋、白い仮面。両手の指輪に嵌められた宝石が、窓から差す朝日を細かく返した。
「学園長。正式な提出命令です」
「正式な保全通知もあるね。しかも、そちらの方が先に本人へ届いている」
オルフェンは二枚の紙を交互に指す。
「うちの生徒は、どちらへ従えばいいのかな?」
「新しい命令が優先されます」
「では、その新しい命令を出した本人へ確認しよう。実に簡単だ」
「ハーゼ監察官は上級機密区画にいます」
「出てくるまで待てばいい。昼食も夕食も出そう。泊まるなら寝台も用意するよ」
「そこまで学府へ留まることはできません」
「それは残念だ。だが、君の都合で証拠の保全手順を変えることもできない」
陽気な口調だった。
仮面の奥にある表情は見えない。それでも、命令を受け入れるつもりがないことだけは分かった。
「原本は学園長へ預けます」
セイルが言った。
ローディスが振り返る。
「いいのか」
「最初の通知に、ディルク監察官が不在の場合は学園長へ預けろと書いてある」
セイルは制服の内側から木板を取り出した。
「ただし、受領記録をお願いします」
「もちろんとも。用心深くていいね」
オルフェンは机へ近づいたが、受領証には触れなかった。
「ハルトマン先生。原本一枚。封印した木板ごと学園長預かり。時刻と、この場にいる者全員の名前を記録してくれるかな」
「承知しました」
マレーネが新しい紙を取り出す。
セイルは木板の紐を解かず、そのまま机へ置いた。
書記官は止めなかった。
命令に従わせるために来た本人が、今は提出命令を疑う側へ回っている。
「この命令書を、確認のためお預かりできますか」
マレーネが尋ねる。
「原本は持ち帰ります。写しなら残します」
「写しを作る間、席を外さないでください」
「分かっています」
マレーネが二枚の書面を並べ、筆を取った。
ローディスは、その手元を見ながら息を吐く。
「本当に、命令が二つ来た」
「昨日までなら、後から来た方に従っていたね」
リュカが言う。
「昨日まででも、受領記録は求めたよ」
セイルが返す。
「そこは変わらないんだ」
「変える理由がない」
オルフェンが大きく頷いた。
「いいねえ。命令を疑い、記録を求め、それでも授業には遅れない。実に優秀な学生だ」
「もう遅れています」
マレーネが言った。
「それはいけない。手続きが終わったら、急いで戻りなさい」
「呼び出したのは学園側です」
「では遅刻ではなく公欠にしよう。解決だ!」
書記官は、仮面の学園長と無表情なマレーネを見比べた。
「兵学府では、いつもこうなのですか」
「今日は静かな方ですよ」
マレーネは筆を止めずに答えた。
◇
写しと受領記録が完成すると、軍務監察局の書記官は提出命令を持って帰った。
マレーネも三人を授業へ戻すため、先に廊下へ出る。
ローディスとリュカが続こうとしたとき、セイルは室内に残った。
「どうしたのかな、クローデン君」
「一つ、質問があります」
リュカの足へ魔族の魂を移した技術。
それを防ぐために刻まれた、魂の精霊術の紋章。
そして、精霊語も紋章も使わず、代表者たちの魂を模造体へ移した学園長。
「団体対抗競技で、僕たちの魂を移した術についてです」
オルフェンの白い仮面が、僅かに傾く。
「素晴らしい競技だったね。水蒸気爆発には驚いたよ」
「術の名前を聞いています」
「命の精霊術だと説明したはずだ」
「命の精霊術を担当した教員たちは、魂を移す願いを伝えていませんでした。学園長も、精霊語や紋章を使っていない」
「よく見ていたね」
「否定しないんですか」
「僕がすべての術を授業で教える義務はない、というだけだよ」
「人の魂を別の身体へ移す精霊術は、ほかにも存在しますか」
初めて、オルフェンの返答が止まった。
仮面の奥から向けられる視線が、セイルの質問ではなく、その質問をした理由まで探っているように感じられた。
「なぜ、それを知りたい?」
「昨日、自分たちの魂を移された方法が気になっただけです」
「昨日までは気にしていなかった?」
「気にする余裕ができました」
答えを知っている顔をしない。
リュカが秘密を明かしたことも、ここでは言わない。
オルフェンは指輪の一つを、黒い手袋の親指で撫でた。
「存在しないとは言わない」
「では、学園長以外にも使える者がいる?」
「二つ目の質問だね」
「一つまでとは言われていません」
「では、僕が今決めよう。一つまでだ」
軽い調子に戻っていた。
それ以上は答えないということだった。
「原本は、安全ですか」
「三つ目だ」
「これは確認です」
「君は将来、監察官に向いているかもしれないなあ」
オルフェンは机上の木板へ触れず、壁際の金庫を示した。
「ハルトマン先生の記録どおりに預かる。僕から誰かへ渡すときも、同じように記録を残す。それでいいかな?」
「今は」
「信用されるまでが長そうだ」
「信用の有無と、記録を残すことは別です」
昨日、ディルクへ向けた言葉だった。
オルフェンは両手を打ち合わせる。
「実にいい。では、遅刻が公欠で済むうちに戻りなさい」
セイルは一礼し、部屋を出た。
廊下の先では、ローディスとリュカが待っている。
「遅かったね」
リュカが笑って言った。
「原本の保管方法を確認していた」
「それだけ?」
「今はね」
そう答えると、リュカの笑みが僅かに深くなった。
◇
昼を過ぎた頃、軍務監察局の書記官が執務室へ戻った。
ディルクは机に広げた入退室簿の写しから顔を上げる。
「監察官。学府での原本回収について、報告があります」
「原本回収?」
書記官は足を止めた。
「今朝、監察官名義の提出命令が内部便で届きました。私はその命令に従い、クローデンから受領証原本を回収するため学府へ向かいました」
書記官は持ち帰った命令書を机へ置いた。
ディルクは命令書を手に取った。
軍務監察局の書式。
本物の承認印。
自分の名。
そして、自分の筆跡によく似た署名。
「俺は、これを出していない」
書記官の顔が強張る。
「ですが、内部便の差出部署も、執務室番号も監察官のものです。承認印と署名もありました」
「原本は渡したのか」
「いいえ。今朝の保全通知と食い違うため、クローデンが対面確認なしの提出を拒みました。通知の指示どおり、原本は学園長預かりになっています」
「では、上層資料室にいるというのも」
「今朝から、俺はこの部屋を出ていない」
「私は、何を運ばされていたんです」
「俺の名前で作られた命令だ」
ディルクは命令書を裏返した。
内部便の受領印は、今朝の第二便。
差出部署は軍務監察局。
差出人の執務室番号は、ディルクの部屋を示している。
「この命令を受け取ったとき、俺の部屋を確認したか」
「内部便でした。印も署名もあったので」
「責めているわけではない。次は確認しろ」
「はい」
ディルクは昨日作らせた移管票の写しを取り出した。
別紙を上層資料室へ移すために使われた、自分名義の書面。
二枚を並べる。
二つの偽署名は似ている。
だが、同じ書き方ではなかった。
昨日の移管票では、ディルクが右上がりに書く文字が水平になっていた。
今日の提出命令では、その癖まで直されている。
「一晩で、上手くなっている」
「監察官?」
ディルクは、前日に三人へ署名した受領記録を思い出した。
自分の筆跡を、相手の手元へ残した書面。
受領証原本が学園長の金庫へ移ったことを知る者は、今この部屋に二人。学府の応接室に五人。
そして、命令を作った何者か。
「次は、誰の名前で来る」
問いに答える者はいなかった。




