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黒淵のアストラ  作者: 咢
第5章 暗流

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第56話 消された別紙

 事情聴取を受けた夜、三人は旧演習場に集まっていた。


 崩れかけた観覧席の上では、フィルが身体を丸めている。眠っているように見えるが、三人が声を上げるたび、後方へ反った短い角が僅かに動いた。


「報告するのは、どこまで?」


 リュカが尋ねた。


 セイルは膝の上に紙を置き、受領証原本の写しと並べている。


「軍務監察局から事情聴取を受けたこと。ディルクが、回収要請は異形と遭遇する二日前に受理されていたと明かしたこと。受領証原本は写しと一致し、返却されたこと」


「それだけか」


 ローディスが尋ねる。


「僕たちが何を答えたかまで書く必要はない。組織へ報告した内容と矛盾することも話していない」


「僕の中に何があるのか聞かれた、という話は?」


 リュカは笑っていた。


 だが、何でもない質問だと思っていないことは、二人にも分かった。


「書く」


 セイルが答える。


「異形の言葉に心当たりはないと答えたことも含めて」


「そこは書かなくていいよ。嘘だから」


 セイルの筆が止まった。


 ローディスも、リュカを見る。


 いつもの笑みは残っていた。だが、リュカは二人の視線から逃げなかった。


「僕の故郷は、何者かの実験のために滅ぼされた。村の人たちは、実験材料にされたんだ」


「何の実験だ」


 ローディスの問いに、リュカは自分の足へ目を落とした。


「人の身体へ、魔族の魂を移す実験」


 セイルが握ったままの筆から、墨が一滴落ちた。


「君の足にあるのか」


「うん。僕の足には、魔族の魂が移植されている。そいつに僕の魂を侵蝕されないよう、実験のときに魂の精霊術の紋章も刻まれた。今も防壁を維持するために、僕のマナはほとんど使われ続けている」


「だから、風の精霊と契約しているのに、術を使えなかったのか」


「正しくは、使わない方がいい、かな。防壁へ回すマナを減らしたくないから」


 学院外れの集会場に現れた魔族。黒淵近海の飛行する魔物と黒い群体。六本指の異形。


 それらが見ていたのは、リュカではなく、その足に宿る魔族の魂だったのだ。


「村の人たちは」


 ローディスは最後まで言わなかった。


「僕以外は全員死んだよ。僕だけ実験に成功した」


 リュカの笑みが消える。


「目を覚ましたとき、頭の中には怒りしかなかった。村の人たちをあんな目に遭わせたことへの怒りだったはずなのに、途中から、どこまでが僕の感情なのか分からなくなった」


 リュカは自分の足を見たまま、淡々と続ける。


「気づいたときには、研究員を全員殺して、研究所にも火をつけていた。それから行く場所がなくなって、組織に拾われたんだ」


 観覧席の外では、まだ生徒たちの声が聞こえている。


 ローディスは膝の上で拳を握った。セイルは落ちた墨を拭わず、リュカを見ている。


「どうして今まで黙っていた」


「詳しいことを話せば、君たちまで危険になるかもしれない。誰が実験を命じたのか、組織がどこまで知っているのか。僕にも分からないことが多いんだ」


「今の話は、詳しくないのか」


 セイルが尋ねた。


「僕の身体を見れば分かる範囲だけだよ。それより先は、まだ言えない」


 軽い調子へ戻そうとして、戻しきれなかった声だった。


 セイルは報告書へ視線を落とす。


「今の話は書かない。事情聴取が終わったあと、僕たちだけに話したことだからね」


 セイルが報告書の該当箇所を指した。


「うん。組織への報告に必要なのは、僕がディルクに何と答えたかまでだよ」


「助かるよ」


「それで終わりだと思うな」


 ローディスが言った。


「危険が俺たちにも関わるなら、話せる範囲は話せ。何も知らずに巻き込まれる方が危険だ」


「そうだね。そこは、僕が間違えてた」


 リュカは笑わずに答えた。


 魂を別の肉体へ移植する精霊術など、セイルは授業でも書物でも聞いたことがない。


 だが、それに近いものを一度だけ見ていた。


 学園長は、団体対抗競技の前に、代表者たちの魂を模造体へ移した。周囲の教員は命の精霊術だと受け止めていたが、精霊語も紋章も使われていなかった。


 まさか、と浮かんだ考えを、セイルは口にできなかった。


 リュカの実験と学園長を結びつけるものは、魂を移したという一点しかない。今ここで尋ねれば、リュカが伏せた相手を無理に疑わせるだけだった。


「ディルクは、信用できると思うか」


 ローディスが言った。


「原本を返したから?」


「それだけじゃない。ケルナーたちを最初から犯人だと決めていなかった。俺たちの話も、見たことと推測を分けて記録していた」


「正しい仕事をしているようには見えたね」


 リュカが観覧席へ背を預ける。


「正しい人かどうかは、まだ分からないけど」


「違うのか」


「仕事のやり方が正しくても、何を正しいと思っているかは別でしょう?」


 ローディスは少し考えた。


「面倒な言い方だな」


「僕もそう思う」


 セイルが同意した。


「でも、今はディルクを信用するか決める必要はない。彼が見つけた事実と、僕たちの手元に残ったものを確かめればいい」


 薄い木板の間には、ヴォルフ・ケルナーの署名と回収班印がある。


 命令番号。


 箱二つと革袋一つ。


 竜人の村長による封が、受領時点では壊れていなかったこと。


「原本は、どこに置く」


 ローディスが尋ねた。


「持ち歩く」


「眠るときも?」


「制服の内側へ縫いつける。水を浴びるときは、油紙に包む」


「そこまでしなくても、寮の箱へ鍵を掛ければいいんじゃない?」


 リュカが言う。


「軍務監察局の保管庫が安全とは限らない、と監察官本人が言ったんだ。学生寮の木箱が、それより安全だとは思わない」


「セイルが寝返りを打って破く方が先かもしれない」


「だから木板に挟む」


「寝台ごと盗まれたら?」


「君は対策を考えたいのか、僕を眠らせたくないのか、どちらだ」


「両方かな」


 ローディスが二人の間から報告書を取った。


「これでいい。伝令を呼ぶぞ」


 旧演習場の地面へ、決められた順序で小石を並べる。


 三人が観覧席の陰へ下がると、土が小さく盛り上がった。


 現れた小型伝令ゴーレムは、報告書を受け取ると、その場で筒へ収めた。


 返事はない。


 地面へ沈む直前、丸い頭がセイルの胸元へ向いた。


 受領証の在りかを確かめたようにも見えたが、何も告げずに姿を消した。


     ◇


 同じ夜。


 ディルクが軍務監察局へ戻ったとき、庁舎の灯りは半分以上消えていた。


 事情聴取の記録を抱え、二階の執務室へ入る。


 机の上には、朝まで置かれていなかった灰色の封筒があった。


 封蝋はない。


表には、記録庫からの返却通知とだけ記されている。


原資料を庁舎の外へ持ち出すことはできない。学府へ向かう前に記録庫へ戻し、事情聴取には必要箇所の写しだけを持参していた。


ディルクは外套も脱がず、封筒を開いた。


入っていたのは、貸し出した資料の返却完了通知だった。


返却資料は、異形との遭遇より二日前に受理された概括的な回収要請書と、受理日を命令番号へ結びつけた登録票の二枚。


ディルクは明細を読み返した。


一枚、足りない。


 回収当日の朝に追加された、箱二つと革袋一つという正確な荷数を記した別紙がない。


ディルクは廊下へ出た。


「記録庫の当直は誰だ」


階段脇にいた夜番の兵士が背筋を伸ばす。


「書記官が一人残っています」


「呼べ。いや、俺が行く」


 地下の記録庫には、まだ灯りが残っていた。


 壁一面を埋める棚の間で、当直の書記官が帳簿を閉じようとしている。


「ハーゼ監察官。お戻りでしたか」


「俺の資料から、別紙を抜いたか」


ディルクは返却完了通知を机へ置いた。


 書記官の顔から眠気が消える。


「いいえ。返却前に枚数を確認しました」


「何枚だ」


「二枚です」


「貸し出したときは三枚だった」


「記録では、二枚です」


 書記官が帳簿を開いた。


貸出欄には、資料二枚。


 ディルク・ハーゼ。


 日付も、受領時刻も正しい。


「この記録を書いたのは」


「私です」


「俺が借りたとき、別紙を見なかったか。箱二つと革袋一つ。署名も送信元もない紙だ」


 書記官は眉を寄せた。


「覚えていません」


「思い出せ」


「監察官が資料を確認し、その場で貸出欄へ署名しました。枚数も、そのとき私が記入したはずです」


 指し示された署名は、ディルク自身のものだった。


 筆圧も、字の傾きも見覚えがある。


 だが、枚数の数字は、署名より僅かに濃い。


「この二は、いつ書いた」


「資料を数えた後です」


「俺が署名する前か、後か」


「前です」


 ディルクは帳簿を灯りへ近づけた。


 数字の周囲だけ、紙の表面が薄く毛羽立っている。


 一度書いた文字を削り、上から書き直した跡だ。


「最初は三だった」


「そんなはずは」


「拡大鏡を持ってこい」


 書記官が棚から道具を取り出す。


硝子越しに見ると、二の下へ横に削られた墨が残っていた。


三の一部だった。


 書記官の喉が鳴る。


「私は、書き換えていません」


「今は、お前を疑っている時間ではない」


 ディルクは貸出帳を閉じさせなかった。


「この帳簿へ触れられる者は」


「記録庫の書記官、監察官、局長。それから、資料監査の担当者です」


「今日、俺が学府へ出ている間に入った者を全員出せ」


 別の入退室簿が開かれる。


 記録庫へ入ったのは七人。


 書記官が二人。


 資料を返却した監察官が一人。


 定期点検を行った資料監査官が二人。


 そして、軍務院上層の資料室から来た受取人が二人。


「上層資料室は、何を持っていった」


「ハーゼ監察官から移管を申請された、天穿山脈の回収資料です」


 ディルクは顔を上げた。


「俺は申請していない」


 書記官は別の綴りから、一枚の移管票を取り出した。


 宛先は軍務院上層資料室。


 対象は、天穿山脈における回収要請の追加資料一枚。


 理由は、上級機密との照合。


 申請者欄には、ディルク・ハーゼの名がある。


 その横には、軍務監察局で使われる承認印が押されていた。


「この署名は、私のものではない」


 ディルクは紙を机へ戻した。


「だが、印は本物です」


 書記官が震える声で言う。


「印影簿と照合したのか」


「受取人の前で確認しました。欠けの位置まで一致しています」


「移管票は、どこから届いた」


「内部便です。封筒には監察官の執務室番号が」


「運んだ者は」


「通常の配達兵です。中身までは知らないはずです」


 ディルクは移管票を裏返した。


 紙も、書式も、印も本物。


 署名だけが偽物だった。


 だが、署名を検める者が筆跡を知らなければ、正式な移管命令として通る。


「上層資料室へ照会しますか」


「今すぐにはするな」


「しかし、資料が」


「正規の経路で問い合わせれば、正規の回答が返る。資料は受け取っていない。移管票に不備があった。別の部署へ回した。好きな答えを作る時間まで与えることになる」


 ディルクは入退室簿へ目を落とした。


「移管票、貸出帳、入退室簿の該当頁を保全する。今いる者だけで写しを三部作れ。一部は局長へ渡し、一部は俺が持つ。残る一部は別々の封筒へ入れて、監察局内の証拠庫へ置く」


「証拠庫も安全ではないのでは」


「だから三つに分ける」


「上層資料室から問い合わせが来た場合は」


「通常どおり答えろ。別紙の欠落には、まだ気づいていないことにする」


 書記官は緊張した顔で頷いた。


 ディルクは移管票の偽の署名を見下ろした。


 証拠を盗むために、扉を破る必要はなかった。


 正しい紙を使い、正しい印を押し、正しい窓口へ出せばいい。


 命令に従う者が多いほど、紙は誰にも止められず奥へ進む。


     ◇


 翌朝、セイルは教室へ向かう途中で事務員に呼び止められた。


「セイル・クローデン。軍務監察局から、追加の通知です」


「また事情聴取ですか」


「いえ。証拠保全に関する指示とあります」


 受領欄へ署名し、封筒を受け取る。


 今度の封蝋は赤ではなく、黒だった。


 ローディスとリュカを連れ、人のいない階段へ移動する。


「昨日と同じ場所だね」


 リュカが言う。


「落ち着いて読める場所が、ほかにない」


 セイルは封を切った。


 書面には、受領証原本を引き続き保持すること。


 軍務監察局、軍務院、北方支部を問わず、原本の提出を命じられた場合は、その場で渡さず、ディルク本人との対面確認を求めること。


 ディルクが不在の場合は、兵学府の学園長へ預けること。


 それだけが書かれていた。


「軍からの命令でも、渡すなという軍の命令か」


 ローディスが眉を寄せる。


「何かなくなったんだろうね」


 リュカが黒い封蝋を見る。


「昨日までは、持ち続けろと口頭で言っただけだった。わざわざ書面にして、ディルク本人と確認しろと加えた」


 セイルは通知を受領証とは別の場所へしまった。


「僕たちの原本を取りに来る可能性があると思ってる」


「誰が?」


 ローディスが尋ねる。


「分からない」


 セイルは答えた。


「でも、ディルクの名前を使える誰かだ」


 授業開始の鐘が鳴った。


 廊下の向こうから、生徒たちが教室へ急ぐ足音が聞こえる。


 三人は通知を持ったまま、その流れへ戻った。


 軍の命令に従うことを学ぶ兵学府で。


 軍の命令を、そのまま信じるなと命じられていた。


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