第54話 竜のいる日常
兵学府へ戻った翌朝、ローディスは食堂の天井を見上げていた。
梁の上から、琥珀色の目がこちらを見下ろしている。
「降りてこい、フィル」
呼びかけても、小翼竜は動かない。
青緑色の尾を梁へ巻きつけ、前脚の間に丸いパンを抱えている。食堂で出されたものではない。表面に砂糖がまぶされた、売店の菓子パンだった。
「それ、誰のだ」
フィルは答える代わりに、パンへかじりついた。
「僕の」
背後から声がした。
振り返ると、トビアスが空の紙袋を持って立っていた。日に焼けた顔には、怒りよりも困惑が浮かんでいる。
「槍の朝練を終えたら食べようと思って、窓際に置いておいたんだ」
「窓は開いていたのか」
「少しだけ。空気を入れ替えるために」
「フィルには十分だったんだろうな」
ローディスがもう一度見上げる。
半分になった菓子パンを守るように、フィルが翼を僅かに広げた。
「僕の干し肉を盗ったときも、その顔をしていたよ」
朝食の盆を手にしたリュカが、二人の隣へ立つ。
「悪いことをしている自覚はあるみたいだね」
「分かっていて止めないなら、余計に悪いだろう」
「ローディスに似たのかな」
「どこがだ」
「食べ物を前にすると、話を聞かなくなるところ」
否定しようとしたローディスの前へ、セイルが小皿を差し出した。
干した魚が二切れ載っている。
「菓子パンより、こっちの方が食べやすいと思うけど」
フィルの目が、小皿へ動いた。
「盗んだものを返したら渡す」
セイルが条件を付ける。
フィルは梁の上でパンと魚を見比べた。
やがて翼を開くと、ローディスの頭上へパンを落とした。
ローディスが両手で受け止める。
その間にフィルはセイルの手元へ急降下し、魚を二切れともくわえて飛び去った。
「一切れとは言っていなかったね」
リュカが感心したように言う。
「一切れとも、二切れとも言ってない」
セイルは空になった皿を見た。
「次からは一枚ずつ出すよ」
ローディスは手元の菓子パンをトビアスへ返した。
端が大きく欠け、爪の跡まで残っている。
「食べるか?」
「お前なら食べるのか」
「砂糖がついているところは残っている」
「聞いた相手を間違えた」
トビアスは菓子パンを受け取り、しばらく眺めてから欠けていない側を口へ入れた。
「食べるんだね」
リュカが言う。
「銅貨二枚したんだぞ」
「その値段なら、セイルも食べるよ」
「僕を何だと思ってるんだ」
「値札を見てから味を決める人」
梁の上で、フィルが満足そうに喉を鳴らした。
◇
朝の騒ぎは、最初の鐘が鳴る頃には一年生の合同学級へ広まっていた。
教室の窓辺には生徒が集まり、その外側の石縁にはフィルがいる。
ニナは赤茶色の短髪を耳へ掛け、昨夜のうちに書いたらしい紙を広げていた。
「食べていいものと、いけないものを絵で教えたらどうかな」
紙には魚、肉、果物、パンが描かれている。
パンの絵だけには、大きな斜線が引かれていた。
「パンそのものが駄目だと思わない?」
セイルが尋ねる。
「勝手に取るのが駄目だと伝えたいの。食べることまで禁止したら、説明が違うでしょう」
「そこまで絵で伝えられるかな」
「やってみないと分からないよ」
ニナはフィルへ紙を向け、魚の絵を指した。
次に小さな干し魚を見せ、机の上へ置く。
フィルは首を傾げた後、窓縁から机へ飛び移り、魚をくわえた。
「ここまでは通じた」
ニナが嬉しそうに言う。
続いて、パンの絵と斜線を示す。
フィルは紙の端をくわえ、引っ張った。
「食べるなって言われて怒ったんじゃない?」
トビアスが言った。
「紙を食べ物だと思った可能性もある」
肩で切り揃えた黒髪の奥から、エルザが眠たげな目を向ける。
「さすがに紙は食べないでしょう」
ニナが答えた直後、紙の端がフィルの口へ消えた。
「食べたね」
リュカが微笑む。
「今のは、実験に必要な失敗だよ」
ニナは残った紙を取り返した。
「次は、もっと厚い板に描く」
「食べるのを諦める方向ではないんだ」
セイルが言った。
教室の扉が開く。
入ってきたザイツは、教卓へ向かう途中で足を止めた。
白髪交じりの黒髪の下で、生徒の机に立つ小翼竜を見る。次に、端をかじられた紙を持つニナを見た。
「フェルナー。授業前から、新しい教材か」
「違います。フィルに、学府での決まりを教えようとしていました」
「成果は」
「紙も食べると分かりました」
「有益だな。片づけろ」
ザイツが教卓へ立つ。
フィルは追い出される前に窓縁へ戻り、外側で身体を丸めた。
「本日は、校外実地課程の講評を行う」
教室へ戻った生徒たちが席に着く。
黒板には、各派遣先が書き出された。
城壁補修、河川輸送、農村警備、軍馬の管理、北方街道。
「危険な出来事を語る場ではない。自分たちが何を任され、何を見落とし、次にどう直すかを報告しろ」
トビアスが小さく手を挙げる。
「西門で、坂を下った荷車を止めた話は駄目ですか」
「なぜ荷車が動き出したのか、次に同じ事故を起こさないため何を直したのかまで話せるなら構わん。お前が一人で止めたという自慢だけなら、食堂でやれ」
上がりかけたトビアスの肩が下がった。
発表は、帝都西部の軍馬育成場へ派遣された班から始まった。
馬の蹄を洗う順番を誤り、三頭を同時に暴れさせたこと。
餌袋の数だけを確認し、中身の湿りに気づかなかったこと。
話だけを聞けば地味だった。
だが、蹄を傷めた軍馬は伝令を運べず、傷んだ餌は一つの厩舎をまとめて使えなくする。
北方街道で橋や斜面を調べた今なら、ローディスにもその重さが分かった。
「次。北方街道」
ザイツに呼ばれ、三人は教室の前へ出た。
「僕が話すよ」
リュカが小声で言う。
「真面目にやれ」
ローディスが返す。
「僕ほど真面目な人間はいないのに」
「その話を始めたら、授業が終わる」
セイルが制し、作成した街道図を黒板へ留めた。
報告するのは、公的な実地課程の内容だけだ。
橋の亀裂。補給馬車がすれ違えない区間。雨で崩れるおそれのある斜面。地図と実際の距離がずれていた分岐。
竜人の村、六本指の異形、黒い壺については、三人の口から語らない。
「この橋は、次の長雨までに補修が必要です」
ローディスが図の一点を指した。
「石の表面だけでなく、荷重がかかったときに下側の亀裂が開きました。補給馬車を一台ずつ通すよう、北方支部へ提案しています」
「発見したのは誰だ」
ザイツが尋ねる。
「三人で確認しました。最初に異音を聞いたのは俺です」
「なぜ気づいた」
「荷車を押したとき、空の荷車と音が違いました」
ザイツが頷き、セイルへ目を向けた。
「クローデン。精霊術を使った作業は」
「路面の泥を水の精霊術で移しました。ただ、泥だけでなく地面まで削りかけました」
「戦闘用の術を、そのまま作業へ使ったのか」
「はい。範囲を広く取った方が早いと考えました」
「結果は」
「工兵から二度、注意されました。三度目はありません」
教室に小さな笑いが起きる。
「自慢するところか?」
トビアスが尋ねた。
「同じ失敗を三度しなかったことはね」
セイルが答える。
「二度したことは?」
「今、報告した」
ザイツの指示棒が教卓を叩き、二人を黙らせた。
「エアハルト。お前は何をした」
「測量杭を守りました」
「フィルからか」
窓の外で丸まっていた小翼竜が、片目を開けた。
「はい。一本は守れませんでした」
「なぜだ」
「抜くところを観察していたからです」
「次は、抜く前に止めろ」
「肝に銘じます」
リュカは神妙に頷いた。
発表を終えて席へ戻る途中、ニナが小声で尋ねた。
「それだけだったの?」
ローディスは足を止めかけた。
ニナの視線は、北方街道の図ではなく、三人を順に見ている。
「街道を調べただけなら、どうして竜人の村との連絡役が一緒に帰ってきたの?」
窓の外では、フィルが何事もなかったように目を閉じている。
「観察しすぎじゃない?」
リュカが笑う。
「答えられないなら、そう言って」
ニナは追及するような目を向けながらも、声を抑えていた。
「今は話せない」
ローディスが答える。
ニナは一度だけ頷いた。
「分かった。なら、もう聞かない」
疑っていないわけではない。
それでも、答えられない理由があることまでは受け入れたのだろう。
「話せるようになったら、僕が三人分を十倍くらい華々しく語るよ」
リュカが言う。
「十倍にしたら、ほとんど嘘でしょう」
ニナの口元が僅かに緩む。
「半分くらいは本当になるようにするよ」
「減ってるじゃない」
◇
午後の授業が終わる頃、教室の外へ事務員が現れた。
腕に抱えているのは、赤い封蝋を施した三通の書面だった。
「ローディス・ベルグ、セイル・クローデン、リュカ・エアハルト」
名前を呼ばれ、三人が立ち上がる。
「軍務監察局からです。受領を確認してください」
教室に残っていた生徒たちの視線が集まった。
ローディスが三通を受け取り、それぞれへ渡す。
封の表には、軍務監察局の印。
差出人は、ディルク・ハーゼ。
「二人は、この人を知ってる?」
リュカが明るい声で尋ねる。
ローディスは首を横に振った。
「僕も知らない。声が大きいよ」
セイルが止めた。
三人は教室を出て、人のいない階段の踊り場まで移動した。
書面の内容は、ほとんど同じだった。
北方街道における回収命令について、確認したい事項がある。
明日の放課後、兵学府内に用意する面談室へ、一人ずつ出頭すること。
知り得た事実を他の証言者と相談せず、自分の記憶に基づいて答えること。
そして、セイルの書面にだけ一行が加えられていた。
「回収班の受領証原本を持参してください、か」
セイルが読み上げる。
「見せるだけで済むと思うか?」
ローディスが尋ねた。
「分からない。正式な要請だから、持っていかない理由も作れない」
「でも、渡してしまったら僕たちの手元には残らないね」
リュカの声から、普段の軽さが少しだけ消えた。
セイルは旅装から制服へ移す際にも、受領証を肌身から離さなかった。
薄い木板に挟んだ原本は、今も制服の内側にある。
「写しを作る」
セイルが言った。
「今夜のうちに、文面も印も傷の位置も全部残す。原本は持っていく。ただし、預けるよう求められたら理由と受領記録を要求する」
「相手は軍務監察官だぞ」
「だからこそ、記録を拒む理由はないはずだ」
ローディスは頷いた。
リュカは自分の書面を灯りへ透かし、赤い封蝋の影を眺めた。
「敵だと思う?」
「敵だと決めるには早い」
セイルが答える。
「味方だと決めるのもね」
「なら、何だと思えばいい」
ローディスが尋ねる。
リュカは封書を下ろし、いつもの笑顔を浮かべた。
「質問の多い大人、くらいでいいんじゃないかな」
窓の外を、青緑色の小さな影が横切った。
フィルは誰かの手袋をくわえ、追いかける生徒から逃げている。
学府の日常は、昨日までと同じように騒がしい。
その内側へ、軍務監察局の赤い封蝋が入り込んでいた。




