第52話 二つの報告
北方支部の作戦室には、三種類の紙が並べられていた。
ヴォルフ・ケルナーが残した受領証。
山裾の監視小屋から届いた記録の控え。
そして、ローディスたちがこれから書く報告書だ。
「先に言っておく」
北方支部の指揮官が、三人を順に見た。
「証拠を取り戻そうとは考えるな」
「追わなくていいんですか」
ローディスが尋ねた。
「追うのは命令の経路だ。軍務院の印を持つ馬車を学生が追い、街道で止めれば、お前たちの方が罪に問われる」
「追いついたところで、もう別の馬車へ移されているかもしれません」
セイルが受領証へ目を落とした。
「箱を奪い返せても、誰が命令したのかは分からないままです」
「そういうことだ」
指揮官は監視記録の控えを指で叩く。
通過した時刻。馬車の形。馬の毛色。御者を含む人数。進んだ軍用路の方角。
記録は箱より軽い。
だが、箱のように一台の馬車へまとめて持ち去ることはできない。
「北方支部からは、軍務院と軍務監察局へ照会を出す。兵学府にも、派遣中の生徒が正式な命令へ従って荷を引き渡したと報告する」
「学府への評価はどうなりますか」
セイルが尋ねた。
「そこか」
「校外実地課程ですから」
「証拠を奪われて減点、ということはない。受領記録を残した判断も所見へ書いておく」
セイルが僅かに息を吐いた。
「安心した?」
リュカが横から尋ねる。
「成績より、二週間働いた後で再履修になる方が嫌なんだよ」
「そこまで含めて成績を気にしていると思うけどね」
「二人とも、話を戻せ」
ローディスが止めた。
指揮官はこめかみを押さえたが、注意はしなかった。
「報告書には、見た事実と推測を分けて書け。壺も、留め具も、回収命令もだ。帝国軍が病を持ち込んだと断定する文言は認めん」
「断定できる証拠はありません」
ローディスが答える。
「だからこそ、書き方を誤るな。竜人の村へ渡る可能性がある文書でもある」
「村へも送るんですか」
「正式な回答は鑑定結果が出てからだ。ただし、証拠を誰が受け取ったかは、すでに向こうも知っているのだろう」
指揮官の視線が、窓枠のフィルへ移った。
フィルは前脚を揃え、自分には関係がないような顔で座っている。革鞄の口からは、小さく折られた紙の端が覗いていた。
「戻ってきたときから入っていた」
カイルが鞄から紙を抜き、ローディスへ渡した。
ドルガの字は太く、短かった。
――報告は受け取った。
――留め具は村で保管する。
――受領者の名も記録した。
「仕事が早いね」
リュカが言った。
フィルが得意げに胸を張る。
「フィルのことだよ」
言い添えると、小さな胸がさらに前へ出た。
「その竜は、支部に置くのか」
指揮官が尋ねる。
「置く、という言い方はやめろ」
カイルの声が低くなった。
「フィルがいる場所は、フィルが決める」
「では聞き方を変える。フィルは今夜、どこで休むつもりだ」
カイルが竜語で問いかける。
フィルは室内を見回し、ローディスの背負い袋へ飛び移った。
「お前たちといるそうだ」
「俺の荷物を寝床にするとは言っていないだろう」
ローディスが袋を引き寄せる。
中で保存食の包みが鳴った。
フィルの琥珀色の目が、音のした場所を追う。
「寝床ではなく、食堂を選んだみたいだね」
リュカが笑った。
◇
その日の夕刻、三人は支部の記録室で報告書を書いていた。
カイルは別室で、移動許可の帰着確認と証言記録を受けている。フィルは机の端に伏せ、ローディスから受け取った干し肉を前脚で押さえていた。
「最初から順に書くぞ」
ローディスが筆を取る。
「竜人の村で、六本指の異形と、村の外から来た者らしい痕跡について説明を受けた」
「『らしい』までだね。確認できたのは靴の跡と、五本指の手袋です」
セイルが訂正する。
「足跡と手袋だけでは、人族とも竜人とも断定できない。そこは前にも分けたでしょう」
「そうだった」
ローディスは書き直した。
「野営地で、帝国軍物資のものに似た留め具を発見。ただし、帝国軍から流出した品か、似せて作られたものかは未確認」
「実物は村、寸法と刻印の写しは僕が持っている」
セイルが自分の資料を机へ置く。
「黒い壺から出たものについては?」
ローディスが尋ねる。
「触れた生命へ入り込もうとしたこと。氷で壺ごと封じたこと。竜族の火炎で焼かれたこと。確認できたのはそこまで」
「谷の黒い根と似ていたことは書かないの?」
リュカが尋ねた。
「この報告書には、谷の黒い根との共通点だけを書く。同じものだとは断定しない」
セイルは、黒い筋が生命へ入り込もうとしたことと、高熱で焼かれたことを書き加えた。
「異形がリュカへ向けた言葉と、死後に重なった声は?」
ローディスが尋ねた。
「別の声については書くよ。リュカへ『その中に』と言いかけたことも、見たまま残す。ただ、何を感じ取ったのかは説明できない」
「僕自身にも分からないからね」
リュカは笑って答えた。
「分からないものを、分かったように書かない方がいい」
「なら、言いかけた言葉だけを残す」
ローディスが報告書へ書き足した。
完成した報告書には受領証の写しが添えられ、指揮官の確認を受けて封じられた。
◇
夜。
三人へ割り当てられた宿泊室で、セイルは新しい紙を机へ広げた。
こちらは、表の記録へ残せない任務を知る相手へ渡す報告書だ。
「同じ出来事を、二度書くのか」
ローディスが尋ねる。
「書き分けないと、どちらかへ余計な秘密が混ざる」
セイルは黒淵周辺で採取した黒い植物との比較から書き始めた。
両者に見られる共通点。
高熱に弱いこと。
複数の生命を一つの群体へ取り込もうとすること。
リュカの内側にある何かを感知したような反応を示したこと。
六本指の異形が死んだ後、別の声が重なり、淡い金色の糸状の光が抜けたこと。
三人が二枚目の報告書を書き終えた頃、閉じた窓が小さく叩かれた。
リュカが外を確かめてから窓を開ける。
掌ほどの土人形が窓枠を越え、室内へ転がり込んだ。
印のない小型伝令ゴーレムだ。
「壁を登ってきたのか」
ローディスが尋ねる。
伝令ゴーレムは答えず、背負った筒から薄い金属板を取り出した。
「報告を持ち帰るために来たみたいだね」
リュカが窓を閉める。
セイルは二枚目の報告書をさらに折り、受領証の内容を写した紙と一緒に筒へ収めた。受領証そのものは渡さない。
「原本は僕が持ちます」
伝令ゴーレムは一度だけ頷き、金属板を三人の前へ押し出した。
表面には短い文字が刻まれている。
――原本を保持せよ。
――証拠の追跡、回収班への接触を禁ずる。
――校外実地課程を継続し、予定の経路で帰還せよ。
「僕たちが報告する前から、もう知ってる」
リュカが金属板を裏返す。
裏面には、もう一行だけあった。
――追加の指示があるまで、独自に行動しないこと。
「念を押されたね」
リュカはいつもの笑顔で言った。
「追うなと言われた直後だからな」
ローディスが答える。
小型伝令ゴーレムは報告書の入った筒を背負うと、開け直した窓から夜の外壁へ消えた。
◇
二日後。
帝都の軍務監察局で、ディルク・ハーゼは机に置かれた紙を見下ろしていた。
短い焦茶色の髪には白いものが混じり始め、額から右眉へ下りる古傷が灯火の陰を作っている。
北方支部から正式な経路で届いた照会書には、受領証の文面と回収班印が写されていた。
支部は命令を発していない。
控えも受け取っていない。
その二点が、照会を求める理由として明記されている。
「また、本物の印か」
ディルクが呟く。
以前は、正規の命令書へ、後から別の指示が隠されていた。
今回は、北方支部を補助先に指定した命令が、その支部へ知らされないまま実行されている。
形だけを見れば、どちらも軍の命令だった。
だから現場の兵は従い、命じられた側も拒めない。
「偽の印で命令を作るのではなく、本物の印を、記録に残らない経路へ通している」
ディルクは受領証の写しを持ち上げた。
「今度は、どこから抜いた」
問いに答える者はいない。
ディルクは新しい照会用紙を取り出し、軍務院の人員記録を扱う部署と、命令番号を管理する部署を宛先に記した。
求めるのは、回収班の名簿、ヴォルフ・ケルナーの所属記録、そして該当する命令番号の原簿だ。
書き上げた二通を封じ、机の端に置く。
ディルクは二つの事件の記録を、机の上へ並べる。
命令に従った者ではなく。
従うしかない命令を作った者へ、今度こそ辿り着くために。




