↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒淵のアストラ  作者: 咢
第4章 連環

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/90

第49話 山に残る手

 六本指の異形から流れ出した黒い血が、白い岩の窪みに溜まっていた。


 グレンガルドの火に焼かれ、壺から伸びていた黒い筋は動きを止めている。焦げた端が風に崩れ、灰となって河原を転がった。


 エルナは岩へ片膝をついたまま、自分の襟へ触れた。


 六本の爪が食い込んだ革には、細い裂け目が並んでいる。そのすぐ先には、異形の舌の下から飛び出した針が落ちていた。


「傷は?」


 ローディスが尋ねる。


「ないわ」


 エルナは襟を指で広げ、首筋を確かめた。


「爪も針も届いていない」


「そうか」


 ローディスは息を吐き、大剣についた黒い血を振り落とした。


「助かったわ」


 短い言葉だった。


 ローディスが顔を上げる。


「俺一人で助けたわけじゃない」


「首を斬ったのはあなたでしょう」


「そこまで追い込んだのは全員だ」


 エルナは僅かに眉を寄せた。


「礼を受け取るのが下手なの?」


「そういうつもりではない」


「なら、受け取って」


 ローディスは少しだけ間を置いた。


「分かった」


 その返事を聞いてから、エルナは立ち上がった。


「今のは、ローディスにしては上出来だったね」


 リュカが異形の右手を覗き込みながら言った。


「何の話だ」


「礼を受け取るまでの速さ」


「お前は手を調べていたんじゃないのか」


「調べながら聞いてたよ」


 リュカは六本の指へ触れず、その爪先を見比べた。


 黒い爪の間には、白い粉が詰まっている。河原の岩を掻いたときについたものだ。


「こいつが紙を書いたようには見えないね」


「指が多いから?」


 エルナが尋ねる。


「それだけじゃない。爪を伸ばしたままでは、あの細い木炭を持ちにくい。持てたとしても、野営地に残っていた字とは合わないと思う」


 セイルが異形の手を横から見た。


「見取り図と見張りの記録を書いた者は、別にいる」


「五本指の手袋を残した者か」


 カイルの声が低くなる。


「可能性は高いね」


 セイルは断定せずに答えた。


「異形は、強い命と山の道を測ると言った。村の見取り図も、そのために必要だったと考えればつながる。でも、誰が何のために結果を集めていたのかは分からない」


「聞き出す前に、口を塞がれた」


 カイルが異形の頭を見る。


 死後に開いた口は、もう動いていない。


「あの声は、こいつを遠くから見ていたのかしら」


 エルナが周囲の岩壁へ視線を走らせた。


「見ていたなら、私たちのことも知られた」


「少なくとも、異形が見聞きしたことを受け取る手段はあったのかもしれない」


 セイルは黒い眼から光が抜けた場所を見上げた。


「ただ、あの金色のものが命令を運んだのか、別の働きをしていたのかまでは分からないよ」


「分からないことばかりだね」


 リュカが笑う。


「だから証拠を持ち帰るんだろう」


 ローディスは岩へ落ちた二本の針を指した。


「壺の破片と、あれも包もう。素手では触るな」


「今度はあなたが慎重なのね」


 エルナが言う。


「セイルと一緒にいると、嫌でも覚える」


「ずいぶんな言い方だね」


 セイルが顔を上げた。


「言葉の綾だ」


「そういうことにしておくよ」


 セイルは予備の布を取り出し、針を一本ずつ包んだ。


     ◇


 グレンガルドは崖の上から河原を見下ろしていた。


 巨体では岩壁の間へ降りられない。首を伸ばし、異形と砕けた壺を見定めている。


「その器は、谷にあったものと同じか」


「形はよく似ています」


 セイルが答えた。


「でも、谷で見つけたものは焼かれた後でした。土の配合まで同じかは、ここでは確かめられません」


「ならば、持ち帰れ」


 グレンガルドの視線が、異形の身体へ移る。


「それは焼く」


「身体も証拠になります」


 ローディスが言った。


「山の外へ運ぶのか」


「すべては無理です。村で調べられるだけ調べて、必要な一部だけを持ち帰りたい」


 グレンガルドの喉から、低い響きが漏れた。


 人語ではない。

 竜語の音が岩壁を伝い、足元から河原全体を震わせる。


 遠くの山から、別の低い響きが返った。


「他の竜へ、六本指を一体見つけたと伝えた。空から見える範囲に、同じものはいない」


「見つけたのは、一体だけということか」


 カイルが尋ねる。


「今、見えるものはな」


 グレンガルドは言葉を区切った。


「山へ根を運んだ者が一体だけとは限らぬ。五本指の者も残っている」


 野営地にあった手袋。

 山外の文字で書かれた見取り図。

 帝国軍の物資に似た留め具。


 六本指の異形を倒しても、それらを残した者は見つかっていない。


「竜族は、空からの捜索を続ける」


 グレンガルドの青銅色の眼が、五人を順に見た。


「地に残る跡は、ここに残る竜人が追う。山の外へ戻る者は、そこで跡を追え」


 カイルが顔を上げた。


「俺も明日、帝国へ戻る。向こうで分かったことは村へ伝える」


 エルナが腰の角笛へ手を置いた。


「山で何か見つけたら、また知らせるわ」


「俺たちも、山外の者を特定したら伝えます」


 ローディスが答える。


 グレンガルドは四人をしばらく見つめてから、片方の翼を広げた。


「角笛が鳴れば、近くの竜が聞く。今日のようにな」


 それだけを言い残し、巨大な身体が崖の向こうへ沈む。


 次の瞬間、翼が風を打った。


 青銅色の竜は岩壁の上へ舞い上がり、白い山の方角へ飛び去った。


     ◇


 五人が村へ戻ったとき、日は西の峰へ触れかけていた。


 異形の身体は河原で焼き、頭部と右手、針、壺の破片だけを厚い獣皮で分けて包んだ。野営地から回収した紙と手袋も、黒い物質へ触れないよう別の袋へ収めている。


 村長の家には、ドルガと数人の竜人が待っていた。


 床へ証拠が並べられる。


 六本の指を見た一人が低く唸り、別の一人は黒い壺から距離を取った。


 ドルガは最後まで口を挟まず、エルナの報告を聞いた。


 野営地。

 村の見取り図。

 六本指の異形。

 別の声。

 そして、五本指の協力者がまだ残っていること。


「黒いものを運んだ一体は倒した」


 ドルガが言う。


「だが、これで終わりではないな」


「ええ」


 エルナが答えた。


「山の道を調べていた目的も、手を貸した山外の者も分かっていない」


「村の見張りを増やす。水場は朝夕に確認し、黒いものを見つけても触れさせるな」


 ドルガは集まった竜人たちへ指示を出した。


 皆が家を出た後、彼はローディスたちへ向き直った。


「依頼は果たされた。お前たちは、村へ近づいていた六本指を見つけ、黒いものを止めた」


「背後にいる者は逃したままです」


 ローディスが言う。


「初めから、すべてを一度に捕らえられるとは思っていない」


 ドルガは娘の裂けた襟へ目を向けた。


「エルナも戻った」


「一人では戻れなかったわ」


 エルナが答える。


「この三人と、カイルがいたから」


 カイルは何も言わなかった。


 ドルガの視線が、彼へ移る。


「明日、帝国へ戻るのだな」


「許可された日までにな」


「逃げることもできる」


「そのために戻ってきたんじゃない」


 カイルの返事は短かった。


 ドルガは頷き、今度は三人を見た。


「山の外で五本指の者を追うなら、こちらで得たものを渡す。お前たちも、知ったことを伝えろ」


「僕たちだけで明かせないことはあるよ」


 セイルが先に断った。


「ただ、村を危険から遠ざけるために必要なことは伝える」


「それでいい」


 ドルガは片方だけ残った角を傾けた。


「初めから、互いにすべてを見せるとは言っていない」


 信じきったわけではない。


 それでも、初めてこの家へ入ったときとは違う。


 隠しているものがあると知ったうえで、次の知らせを渡す相手として認められた。


「今夜は休め」


 ドルガが言った。


「明日、証拠を持って山を下りろ」


「今夜の食事は出ますか」


 ローディスが尋ねる。


 ドルガが初めて、僅かに目を細めた。


「娘を連れ帰った者を、空腹のまま帰したと竜に知られたくはない」


「よかったね。ローディスは、山を下りる前に保存食まで食べそうだったから」


 リュカが笑う。


「そこまでは食べない」


「そこまでは、ということは、少しは考えたんだね」


 セイルが言った。


「考えていない」


 家の外から、肉を焼く匂いが流れ込んできた。


 セイルがそちらへ顔を向ける。


「先に行かないと、ローディスが三人分食べるよ」


「食べないと言っている」


 ローディスが先に入口へ向かった。


 リュカも笑いながら続く。


 その背後で、エルナが床に残った五本指の手袋を見下ろした。


 山へ伸びていた手は、一つ断った。


 だが、山の外から伸びたもう一つの手は、まだ残っている。


     ◇


 同じ頃、帝都。


 帝国軍務院(ていこくぐんむいん)の上層階にある一室で、一人の男が北方の地図を眺めていた。


 壮年に見える男だった。


 長い机の向こうに深く腰掛け、背筋を伸ばそうともしていない。それでも、金糸の肩章と胸元を横切る飾緒が、その場で誰より高い地位にあることを示していた。


 黒髪は一筋の乱れもなく後方へ撫でつけられている。細く整えた口髭の下で、薄い唇だけが僅かに笑っていた。


 机の上には、天穿山脈の地図が広げられている。


 竜人の村。

 黒い根が持ち込まれた谷。

 六本指の異形が倒れた河原。


 本来なら軍務院へ届いていないはずの場所に、小さな金色の駒が置かれていた。


「強い命と山の道を測る、か」


 男は異形が残した言葉を、ゆっくりと繰り返した。


「命じた言葉を、そのまま吐くだけでは芸がない」


 金色の駒を指先で弾く。


 駒は河原から竜人の村へ滑り、そこで倒れた。


「だが、測るべきものは測れた」


 竜人の村から河原までの道。

 角笛が鳴ってから、竜が現れるまでの時間。

 黒い根へ対処した人族と竜人の数。


 男の指が、地図の上を順になぞっていく。


「谷を守る竜。罪を負ってなお戻る竜人。長槍を持つ村長の娘。氷を操る術師。大剣を持つ少年。そして――」


 最後の一人を口にする前に、指が止まった。


 男の笑みが、僅かに深くなる。


「あれは、もう少し近くで測る必要がある」


 扉の外から、控えめな音がした。


「閣下、次の会議のお時間です」


「今行く」


 男は地図を巻いた。


 金色の駒だけを掌へ収め、何事もなかったように席を立つ。


「山の道は分かった。次は、帝国へ戻る道を見よう」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。