第49話 山に残る手
六本指の異形から流れ出した黒い血が、白い岩の窪みに溜まっていた。
グレンガルドの火に焼かれ、壺から伸びていた黒い筋は動きを止めている。焦げた端が風に崩れ、灰となって河原を転がった。
エルナは岩へ片膝をついたまま、自分の襟へ触れた。
六本の爪が食い込んだ革には、細い裂け目が並んでいる。そのすぐ先には、異形の舌の下から飛び出した針が落ちていた。
「傷は?」
ローディスが尋ねる。
「ないわ」
エルナは襟を指で広げ、首筋を確かめた。
「爪も針も届いていない」
「そうか」
ローディスは息を吐き、大剣についた黒い血を振り落とした。
「助かったわ」
短い言葉だった。
ローディスが顔を上げる。
「俺一人で助けたわけじゃない」
「首を斬ったのはあなたでしょう」
「そこまで追い込んだのは全員だ」
エルナは僅かに眉を寄せた。
「礼を受け取るのが下手なの?」
「そういうつもりではない」
「なら、受け取って」
ローディスは少しだけ間を置いた。
「分かった」
その返事を聞いてから、エルナは立ち上がった。
「今のは、ローディスにしては上出来だったね」
リュカが異形の右手を覗き込みながら言った。
「何の話だ」
「礼を受け取るまでの速さ」
「お前は手を調べていたんじゃないのか」
「調べながら聞いてたよ」
リュカは六本の指へ触れず、その爪先を見比べた。
黒い爪の間には、白い粉が詰まっている。河原の岩を掻いたときについたものだ。
「こいつが紙を書いたようには見えないね」
「指が多いから?」
エルナが尋ねる。
「それだけじゃない。爪を伸ばしたままでは、あの細い木炭を持ちにくい。持てたとしても、野営地に残っていた字とは合わないと思う」
セイルが異形の手を横から見た。
「見取り図と見張りの記録を書いた者は、別にいる」
「五本指の手袋を残した者か」
カイルの声が低くなる。
「可能性は高いね」
セイルは断定せずに答えた。
「異形は、強い命と山の道を測ると言った。村の見取り図も、そのために必要だったと考えればつながる。でも、誰が何のために結果を集めていたのかは分からない」
「聞き出す前に、口を塞がれた」
カイルが異形の頭を見る。
死後に開いた口は、もう動いていない。
「あの声は、こいつを遠くから見ていたのかしら」
エルナが周囲の岩壁へ視線を走らせた。
「見ていたなら、私たちのことも知られた」
「少なくとも、異形が見聞きしたことを受け取る手段はあったのかもしれない」
セイルは黒い眼から光が抜けた場所を見上げた。
「ただ、あの金色のものが命令を運んだのか、別の働きをしていたのかまでは分からないよ」
「分からないことばかりだね」
リュカが笑う。
「だから証拠を持ち帰るんだろう」
ローディスは岩へ落ちた二本の針を指した。
「壺の破片と、あれも包もう。素手では触るな」
「今度はあなたが慎重なのね」
エルナが言う。
「セイルと一緒にいると、嫌でも覚える」
「ずいぶんな言い方だね」
セイルが顔を上げた。
「言葉の綾だ」
「そういうことにしておくよ」
セイルは予備の布を取り出し、針を一本ずつ包んだ。
◇
グレンガルドは崖の上から河原を見下ろしていた。
巨体では岩壁の間へ降りられない。首を伸ばし、異形と砕けた壺を見定めている。
「その器は、谷にあったものと同じか」
「形はよく似ています」
セイルが答えた。
「でも、谷で見つけたものは焼かれた後でした。土の配合まで同じかは、ここでは確かめられません」
「ならば、持ち帰れ」
グレンガルドの視線が、異形の身体へ移る。
「それは焼く」
「身体も証拠になります」
ローディスが言った。
「山の外へ運ぶのか」
「すべては無理です。村で調べられるだけ調べて、必要な一部だけを持ち帰りたい」
グレンガルドの喉から、低い響きが漏れた。
人語ではない。
竜語の音が岩壁を伝い、足元から河原全体を震わせる。
遠くの山から、別の低い響きが返った。
「他の竜へ、六本指を一体見つけたと伝えた。空から見える範囲に、同じものはいない」
「見つけたのは、一体だけということか」
カイルが尋ねる。
「今、見えるものはな」
グレンガルドは言葉を区切った。
「山へ根を運んだ者が一体だけとは限らぬ。五本指の者も残っている」
野営地にあった手袋。
山外の文字で書かれた見取り図。
帝国軍の物資に似た留め具。
六本指の異形を倒しても、それらを残した者は見つかっていない。
「竜族は、空からの捜索を続ける」
グレンガルドの青銅色の眼が、五人を順に見た。
「地に残る跡は、ここに残る竜人が追う。山の外へ戻る者は、そこで跡を追え」
カイルが顔を上げた。
「俺も明日、帝国へ戻る。向こうで分かったことは村へ伝える」
エルナが腰の角笛へ手を置いた。
「山で何か見つけたら、また知らせるわ」
「俺たちも、山外の者を特定したら伝えます」
ローディスが答える。
グレンガルドは四人をしばらく見つめてから、片方の翼を広げた。
「角笛が鳴れば、近くの竜が聞く。今日のようにな」
それだけを言い残し、巨大な身体が崖の向こうへ沈む。
次の瞬間、翼が風を打った。
青銅色の竜は岩壁の上へ舞い上がり、白い山の方角へ飛び去った。
◇
五人が村へ戻ったとき、日は西の峰へ触れかけていた。
異形の身体は河原で焼き、頭部と右手、針、壺の破片だけを厚い獣皮で分けて包んだ。野営地から回収した紙と手袋も、黒い物質へ触れないよう別の袋へ収めている。
村長の家には、ドルガと数人の竜人が待っていた。
床へ証拠が並べられる。
六本の指を見た一人が低く唸り、別の一人は黒い壺から距離を取った。
ドルガは最後まで口を挟まず、エルナの報告を聞いた。
野営地。
村の見取り図。
六本指の異形。
別の声。
そして、五本指の協力者がまだ残っていること。
「黒いものを運んだ一体は倒した」
ドルガが言う。
「だが、これで終わりではないな」
「ええ」
エルナが答えた。
「山の道を調べていた目的も、手を貸した山外の者も分かっていない」
「村の見張りを増やす。水場は朝夕に確認し、黒いものを見つけても触れさせるな」
ドルガは集まった竜人たちへ指示を出した。
皆が家を出た後、彼はローディスたちへ向き直った。
「依頼は果たされた。お前たちは、村へ近づいていた六本指を見つけ、黒いものを止めた」
「背後にいる者は逃したままです」
ローディスが言う。
「初めから、すべてを一度に捕らえられるとは思っていない」
ドルガは娘の裂けた襟へ目を向けた。
「エルナも戻った」
「一人では戻れなかったわ」
エルナが答える。
「この三人と、カイルがいたから」
カイルは何も言わなかった。
ドルガの視線が、彼へ移る。
「明日、帝国へ戻るのだな」
「許可された日までにな」
「逃げることもできる」
「そのために戻ってきたんじゃない」
カイルの返事は短かった。
ドルガは頷き、今度は三人を見た。
「山の外で五本指の者を追うなら、こちらで得たものを渡す。お前たちも、知ったことを伝えろ」
「僕たちだけで明かせないことはあるよ」
セイルが先に断った。
「ただ、村を危険から遠ざけるために必要なことは伝える」
「それでいい」
ドルガは片方だけ残った角を傾けた。
「初めから、互いにすべてを見せるとは言っていない」
信じきったわけではない。
それでも、初めてこの家へ入ったときとは違う。
隠しているものがあると知ったうえで、次の知らせを渡す相手として認められた。
「今夜は休め」
ドルガが言った。
「明日、証拠を持って山を下りろ」
「今夜の食事は出ますか」
ローディスが尋ねる。
ドルガが初めて、僅かに目を細めた。
「娘を連れ帰った者を、空腹のまま帰したと竜に知られたくはない」
「よかったね。ローディスは、山を下りる前に保存食まで食べそうだったから」
リュカが笑う。
「そこまでは食べない」
「そこまでは、ということは、少しは考えたんだね」
セイルが言った。
「考えていない」
家の外から、肉を焼く匂いが流れ込んできた。
セイルがそちらへ顔を向ける。
「先に行かないと、ローディスが三人分食べるよ」
「食べないと言っている」
ローディスが先に入口へ向かった。
リュカも笑いながら続く。
その背後で、エルナが床に残った五本指の手袋を見下ろした。
山へ伸びていた手は、一つ断った。
だが、山の外から伸びたもう一つの手は、まだ残っている。
◇
同じ頃、帝都。
帝国軍務院の上層階にある一室で、一人の男が北方の地図を眺めていた。
壮年に見える男だった。
長い机の向こうに深く腰掛け、背筋を伸ばそうともしていない。それでも、金糸の肩章と胸元を横切る飾緒が、その場で誰より高い地位にあることを示していた。
黒髪は一筋の乱れもなく後方へ撫でつけられている。細く整えた口髭の下で、薄い唇だけが僅かに笑っていた。
机の上には、天穿山脈の地図が広げられている。
竜人の村。
黒い根が持ち込まれた谷。
六本指の異形が倒れた河原。
本来なら軍務院へ届いていないはずの場所に、小さな金色の駒が置かれていた。
「強い命と山の道を測る、か」
男は異形が残した言葉を、ゆっくりと繰り返した。
「命じた言葉を、そのまま吐くだけでは芸がない」
金色の駒を指先で弾く。
駒は河原から竜人の村へ滑り、そこで倒れた。
「だが、測るべきものは測れた」
竜人の村から河原までの道。
角笛が鳴ってから、竜が現れるまでの時間。
黒い根へ対処した人族と竜人の数。
男の指が、地図の上を順になぞっていく。
「谷を守る竜。罪を負ってなお戻る竜人。長槍を持つ村長の娘。氷を操る術師。大剣を持つ少年。そして――」
最後の一人を口にする前に、指が止まった。
男の笑みが、僅かに深くなる。
「あれは、もう少し近くで測る必要がある」
扉の外から、控えめな音がした。
「閣下、次の会議のお時間です」
「今行く」
男は地図を巻いた。
金色の駒だけを掌へ収め、何事もなかったように席を立つ。
「山の道は分かった。次は、帝国へ戻る道を見よう」




