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黒淵のアストラ  作者: 咢
第4章 連環

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第48話 重なる声

 氷の球に入った亀裂が、黒い壺の周囲へ広がっていく。


「持たない!」


 セイルは杖を氷の球へ向けたまま叫んだ。


 河原に残る水を持ち上げ、亀裂の上へ重ねる。水を凍らせるたび、別の場所で氷が割れた。


 壺の中で、黒い筋が太くなっている。


 エルナが腰の角笛を引き抜いた。

 短く息を吹き込む。


 低く太い音が河原を抜け、岩壁に反響しながら山の上へ昇っていった。


「竜族を呼んだのか!」


 ローディスが尋ねる。


「近くにいれば来る!」


 エルナは角笛を腰へ戻し、長槍を構え直した。


「こいつを殺せば、止まるのか!」


 カイルが異形の首を締め上げた。


「分からない!」


 セイルは即答した。


「谷の根は、核を壊した後に止まった。でも、これが同じものかは確かめてない!」


 異形の六本の指が、カイルの腕へ食い込む。


 折れた左腕では力が足りない。

 それでも指を離さず、爪で鱗の表面を擦った。


「話せ」


 カイルが異形の耳元で言う。


「誰の命令で動いている」


 異形の口が緩く開いた。


「俺は……」


 擦れた声が出る。


「根を、育てる……山の命を食わせて……」


「何のためだ」


 ローディスは大剣を構えたまま尋ねた。


「強い命と……山の道を、測る……」


 異形の黒い眼が、五人の間をさまよった。


「測った結果を誰へ伝える。村の見取り図を描いたのも、そいつか」


 カイルが重ねて尋ねた。


「次の——」


 その声に、別の声が重なった。


 擦れた異形の声とは違う。

 低く、穏やかで、まるで命令書を読み上げるような声だった。


「証拠を残すな」


 異形の身体が大きく跳ねた。


 右脚の傷が開き、黒い血が溢れる。

 痛みを感じていないように、異形は両脚で地面を蹴った。


 カイルの身体が背負われ、後ろへ運ばれる。


「止まれ!」


 エルナの長槍が異形の右脚を払った。


 すでに深く裂けていた傷へ、刃が重なる。

 右脚が膝の下から切断された。


 異形は倒れない。

 残った左足だけで踏み切り、壺の方向へ跳んだ。


 カイルが首を押さえたまま、一緒に宙へ浮く。


「離せ!」


 ローディスが叫ぶ。


「離したら壺へ行く!」


 異形の右手が、氷の球へ伸びる。


 届かない。

 しかし、指先から金属の針が一本抜き出された。


 舌の下に隠していたものと同じ針だ。


 異形が腕を振りかぶる。


 リュカが、その手首へ飛びついた。


 両手で六本の指を押さえ、身体ごと下へ引く。


 投げられる直前に腕がずれ、針は氷の球の横を通り過ぎ、岩へ弾けた。


 三人の重さがもつれ、河原へ落ちる。


 カイルは着地する直前に異形の首を離し、背中の翼を広げた。風を受け、リュカごと異形を横へ押し出す。同時に、リュカの外套の背を掴んで僅かに引き上げた。


 異形の身体だけが岩へ叩きつけられた。


 リュカは手を離し、地面を一度転がって立ち上がる。


「痛いなあ」


「岩へ叩きつけられるよりはましだ」


 カイルが返す。


「それはそうだね。助かったよ」


「礼は後だ」


「二人とも、壺が割れる!」


 セイルの声が飛ぶ。


 氷の球が、内側から砕けた。


 黒い筋が一斉に外へ伸びる。

 しかし、五人の方向へは来ない。


 すべてが、岩へ叩きつけられた異形へ向かっていた。


「下がって!」


 セイルは杖の先を、異形と黒い筋の間へ向けた。


 発声式を使う時間はない。

 持ち手の紋章へ、二本の指を同時に重ねる。


 水が黒い筋の群れへ広がり、火の精霊が熱を退けた。


 異形へ届く寸前で、黒い筋がまとめて凍りつく。


 凍った筋が、河原の岩へ落ちて割れた。


 それでも、一本だけが水の外側を迂回していた。


 人の腕ほどまで太った黒い筋が、岩の間を縫って異形へ迫る。


 河原の光が陰った。


 大きな影が五人の頭上を横切る。

 次の瞬間、青銅色の巨大な爪が崖の縁から伸び、黒い筋を岩へ押しつけた。


 上方から、火炎が一筋だけ吐き出される。


 火は爪の先だけを舐め、黒い筋を焼き切った。

 黒い煙が立ち上り、異形へ届く直前で散る。


 岩壁の上へ、二本の角と青銅色の頭が現れた。


 グレンガルドだった。


「地上の敵を見ろ。根は私が焼く」


 人語が、河原へ重く落ちた。


「お願いします!」


 セイルはグレンガルドへ根を任せ、杖を異形へ向け直した。


「ローディス!」


 リュカが呼ぶ。


 ローディスはすでに走っていた。


 エルナが異形の右腕を長槍で岩へ縫い留める。

 カイルが残った左脚を踏み抜いた。

 リュカは異形の口元を警戒しながら、ローディスへ場所を譲った。


 ローディスは大剣を異形の首筋へ当てる。


「このまま縛る。話せるなら、まだ聞けることがある」


 異形から力が抜けた。

 黒い顔が岩へ沈み、開いていた口も閉じる。


 その瞬間、折れたはずの左腕が岩の上を這った。


 六本の指がエルナの襟へ食い込み、異形の方へ引き倒す。


「エルナ!」


 カイルが手を伸ばす。

 だが、異形の左脚を押さえた足を退ければ、拘束が一つ外れる。


 長槍で右腕を縫い留めていたエルナは、片手を地面についた。異形の顔が、すぐ目の前に迫る。


 異形の口が開いた。


 舌の下で、二本目の針が光った。


 リュカが踏み込むより先に、ローディスは首筋へ当てていた大剣を振り抜いた。


 刃が、六本指の異形の首を断ち切った。


 エルナの顔へ届く寸前で、針が止まる。

 襟へ食い込んでいた指が緩み、カイルがエルナの肩を掴んで引き離した。


 黒い血が、白い岩へ広がる。


 異形の頭が地面へ落ちた。

 黒い眼は開いたままだった。


 その口が、もう一度だけ動いた。


「役目は、終わった」


 それは、異形の声ではなかった。


 次の瞬間、黒い眼の奥から、淡い金色の光が抽けた。


 光は細い糸となって空中へ伸び、何もない場所で途切れた。


 その場の誰も、すぐには声を出さなかった。


「今のは、何だ」


 カイルが尋ねる。


「こいつ自身の言葉ではないと思う」


 ローディスが答えた。


「聞いたことがあるの?」


 エルナの視線が、三人へ向く。


「声が重なるのは、初めてじゃない」


 セイルは、そこまでだけ答えた。


「でも、今までと同じ声かは分からない」


 リュカは、後半の声に覚えがなかった。


 ただ、命令を受けた直後の異形は、自分の脚が断ち切られても壺だけを目指した。


 何かに命じられ、その命令に逆らえなかった。


 そのことだけは、その場の誰にも分かった。


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