第44話 村長の依頼
獣皮の下に残された二つの足跡を、セイルは杖の先で示した。
「六本指の跡は、渓谷で見たものと同じに見える」
太い指が六本。
先端には、土を深く抉る爪の跡がある。
隣にある靴跡は、踵と爪先がはっきり分かれ、底には滑り止めの鋲が打たれていた。
「こっちの靴は?」
エルナが尋ねる。
「帝国の街道を歩く者がよく使う形だよ。兵士も、荷運び人も、山へ入る商人も履く。これだけでは持ち主を絞れない」
セイルの答えに、エルナが眉を寄せた。
「役に立たないのね」
「分からないものを、分かったと言うよりは役に立つ」
「セイル」
ローディスが短く制した。
「間違ったことは言ってないよ」
「言い方の話だ」
「回りくどい言い方をされる方が嫌いよ」
エルナは気分を害した様子もなく、靴跡の横へしゃがんだ。
「他に分かることは?」
ローディスも片膝をつく。
靴跡は、爪先より踵の方が深い。左右で比べると、右足の外側が僅かに崩れていた。
「右足の外側だけ、深く沈んでいる」
ローディスが言うと、エルナは頷いた。
「見つけたときに確認したわ。荷物を背負い、右へ重さが偏っていた可能性がある」
「身体そのものが重かった可能性もある?」
セイルが尋ねた。
「そう。だから、ここから先を追うのは私たちの役目よ」
エルナは靴跡を崩さないように立ち上がった。
「あなたたちを呼んだのは、山で足跡を読む方法を教わるためじゃない。この形の靴や、落ちていた道具が帝国のどこで使われるのかを知るため。それに、跡が山の外へ続いた後は、私たちだけでは追いにくい」
「竜や竜人が帝国の町を歩けば、探している相手より先に騒ぎになるからね」
セイルは杖を引いた。
リュカは二人の横を通り、獣皮の端から外へ出た。
地面はすぐに硬い岩へ変わっている。
「山外の靴は、あそこから来たみたいだね」
土に残った靴跡は、岩場の南端から始まっていた。
村へ向かって十二歩。
そこで途切れる。
六本指の跡は、少し離れた土から始まり、反対の北西へ七歩だけ残っていた。
こちらも岩場へ出たところで消えている。
「同じ場所にいたなら、間が空きすぎている」
リュカが二つの起点を見比べた。
「二人で並んで歩いた跡じゃない。それぞれ別の場所から土へ入って、別の方向へ抜けてる」
「同じ時刻にいたかも分からない」
カイルが言った。
「匂いは残っていなかったの?」
リュカがエルナへ尋ねる。
「見つけた日の朝には雨が降った。土は獣皮で守れたけれど、岩に残った匂いは流れている」
「獣皮を張ったのはエルナ?」
「私と父よ。誰にも踏ませないために、村へ続く道も閉じた」
「それで、今まで残っていたんだな」
ローディスが言う。
「いい判断だった」
エルナは一度だけ彼を見た。
「当然のことをしただけよ」
それでも、先ほどまでより声の棘が僅かに薄れていた。
◇
村の中央にある最も大きな家は、岩柱そのものをくり抜いて作られていた。
入口に扉はない。
代わりに、竜語の線が刻まれた二本の石柱が立っている。エルナが片方へ手を触れると、上の足場から二人の見張りが顔を出した。
「招いた三人を連れてきた。カイルも一緒よ」
見張りの一人が、カイルへ険しい目を向ける。
「そいつまで中へ入れるのか」
「父が決める」
エルナは足を止めなかった。
内部は、外から見たより広い。
岩壁に沿って長椅子が並び、中央には焚き火の跡がある。天井の穴から差す光が、薄い煙とともに床へ落ちていた。
奥の平たい岩へ、一人の男が腰を下ろしている。
五十代ほどに見える、ローディスよりさらに肩幅の広い男だった。
髪は鉄灰色で、首の後ろまで無造作に伸びている。左の額から後方へ黒い角が一本生え、右側には根元から折れた痕だけが残っていた。顎から首、太い両腕を濃緑色の鱗が覆っている。
翼はない。
腰にも手元にも武器は見えないが、組んだ腕だけで岩を砕けそうだった。
「父さん」
エルナが呼ぶ。
男は最初に娘を見て、次に三人、最後にカイルへ視線を移した。
「久しいな、カイル」
「その話をしに来たんじゃない」
「分かっている。お前がしたことも、谷へ戻ったことも、今ここにいる理由も聞いている」
男は立ち上がった。
「私はドルガ。この村を預かっている」
ローディスたちは、それぞれ名乗った。
ドルガは三人の顔と武器を順に見たが、年齢については何も言わなかった。
「谷の黒いものを見たと聞いた」
「見ました」
ローディスが答える。
「水源から病人の身体へ入り、熱と咳を起こしていたと考えています。岩の中にあった核を壊した後、病人の熱は下がり始めました」
「考えている、か」
「確かめきれてはいません」
「帝国から届いた紙には、もっと多くの言葉があった」
「紙に書かれたことが、すべて確かだとは限りません」
ドルガの片方だけ残った角が、僅かに傾く。
「報告を持ち帰った側の者が、そう言うのか」
「俺たちが見たことと、そこから考えたことは分けるべきです」
ローディスは目を逸らさなかった。
「見たのは、黒い根と、声を出す鹿と、岩の中の核です。核を壊した後に病人の熱が下がった。そこまでは事実です」
「原因をすべて知ったわけではない?」
「はい」
ドルガはセイルへ目を移した。
「お前はどう考える」
「核と、病人の身体へ入ったものがつながっていた可能性が高いと思います」
セイルが答える。
「それと、谷のものによく似た黒い物質を、別の場所でも見たことがあります」
ドルガの目が細くなる。
「どこだ」
「場所と、そこで何をしていたかは話せません」
「こちらには、見たことをすべて話せと言ったでしょう」
エルナの声が硬くなる。
「谷で見たことは、すべて話すよ。でも、別の場所で知ったことには、僕たちだけで明かせない事情がある」
「信用していないから?」
エルナが尋ねた。
「それも否定はしない。君たちも、血授の儀を僕たちへ見せないだろう」
セイルはエルナからドルガへ視線を戻した。
「ただし、危険を避けるために必要な性質は話せます。そちらの黒い物質は、複数の死骸をつなぎ、残っていた動きや声を再現しました。中心となる大きな塊から、黒い筋を伸ばしていました」
「生き物なのか」
ドルガが尋ねる。
「調べた者は、この世界の植物が変異したものだと考えています。ただ、谷の根とまったく同じものかは断定できません」
「同じなら、また死者を動かす?」
ドルガが重ねて尋ねた。
「可能性はあります。だから、同じ黒いものをもう一度見つけても、核を壊せば必ず終わるとは限りません。前と同じものか、もっと大きな本体とつながっていないかを確かめる必要があります」
「慎重だな」
「間違えて村を病気にするよりは」
次に、ドルガはリュカを見た。
「お前は?」
「二人が難しいところを説明してくれたので、僕は簡単なところを」
リュカは穏やかに笑った。
「あれは、自分で陶器を作って山へ来たわけじゃない。六本指の何かか、その仲間が運んだ。だから僕たちは、病気だけじゃなく、運んだ相手を見つけに来ました」
「見つけて、どうする」
「話せるなら、誰に頼まれたか聞く。襲ってくるなら、止める」
「殺すことになっても?」
リュカの笑みが、ほんの少し薄れた。
「生かして止められないなら」
広間が静かになる。
ドルガは三人をしばらく見た後、岩の横に置かれていた布包みを持ち上げた。
中から、片手に収まる黒い鉄片が現れる。
「靴跡の近くで見つけた」
セイルが受け取り、表面を確かめる。
片側は曲がり、二つの穴が開いている。穴の縁には、切れた革紐が僅かに残っていた。
「留め具?」
エルナが尋ねる。
「たぶん、鞄か背負い袋のものです」
セイルは鉄片を裏返した。
「帝国で作られたものか」
ドルガが尋ねた。
「形は珍しくありません。ただ、この刻印は……」
煤を指で拭うと、潰れかけた小さな印が現れた。
三本の横線を、一本の縦線が貫いている。
「軍の物資につける印に似ています」
ローディスが身を乗り出した。
「帝国軍のものなのか」
「似ているだけです。軍から払い下げられた道具にも残るし、同じ形を真似た工房もあります」
セイルは断定を避けた。
「でも、山の中で偶然落ちていたと考えるには、場所が悪いね」
リュカが言う。
ドルガは布包みごと鉄片をセイルへ渡した。
「それも調べてほしい」
「村の外へ持ち出しても?」
「この山で調べられるなら、持ち出す必要はない」
「道具も記録も足りません」
「ならば、写しを取れ。実物は、私の許しなく山の外へ出すな」
セイルは鉄片を布へ戻した。
「分かりました」
ドルガが広間の全員を見回す。
「六本指の跡は、谷だけでなく、この村の近くでも見つかった。山外の靴跡は、反対に村へ向かっていた。どちらも、我々の知らないところで山へ入っている」
低い声が、岩の壁へ響く。
「追い、正体を確かめ、再び黒いものを持ち込もうとしているなら止めてくれ。それが、この村からお前たちへの依頼だ」
「竜族は、今も探しているのか」
ローディスが尋ねた。
「グレンガルドたちが、空から山脈と谷を探している」
ドルガは答えた。
「だが、岩の庇や樹林の下は空からは見えない。巨体では入れない裂け目もある。地上の跡は我々が追い、見つけたときは竜族も呼ぶ」
エルナが腰に下げた短い角笛を指で叩いた。
「この音なら、山の上まで届くわ」
「報酬は?」
セイルが尋ねた。
エルナの琥珀色の目が、呆れたように細くなる。
「村が危険かもしれない話を聞いて、最初にそれ?」
「危険だから確認しています。命を懸ける条件を曖昧にしたくない」
ドルガが喉の奥で笑った。
「山外の銀でよければ払う。だが、正体を突き止めたなら、銀だけで終わらせるつもりはない」
「何をくれるんですか」
「働きを見て決める」
「一番困る答えだ」
セイルが小さく息を吐いた。
「明朝、跡を追う」
エルナが告げる。
「私が先頭。カイルは最後。三人はその間を歩いて、足跡には触れないで」
「俺が最後である理由は」
カイルが低く尋ねた。
「飛べないあなたが勝手に先へ行かないようにするためよ」
「飛べないんじゃない。禁じられているだけだ」
「今は同じでしょう」
カイルの翼が苛立たしげに軋んだ。
「山の中で、俺たちは何をする」
ローディスがエルナへ尋ねた。
「黒いものが見つかったら、前に見たものと同じか確かめる。六本指の何かが現れたら、捕らえるか倒すのを手伝う」
「跡が帝国領へ続いたら?」
セイルが尋ねる。
「そこからは、あなたたちが先頭よ。私たちでは、帝国の町へ紛れている相手を探せない」
「それなら分かりやすいね」
リュカが笑った。
「山では案内されて、山の外では案内する。お互い、得意な方を受け持とう」
エルナは三人を順に見てから、短く頷いた。
山外から入った靴跡。
山外へ向かった六本の指。
二つの跡がどこへ続くのかを確かめるため、五人は同じ村で夜を迎えた。




