第43話 山の境
帝都を出て、二日目の夕刻。
北方支部の石壁が見える頃には、幌馬車の中で交わされる言葉も尽きていた。
ローディスは揺れる荷台でも背筋を伸ばし、窓布の隙間から街道を見ている。セイルは杖を抱えたまま眠り、リュカは向かいに座るカイルの翼を眺めていた。
「痛くならないの?」
リュカが尋ねる。
「何がだ」
「ずっと畳んだままの翼」
「なる」
「広げればいいのに」
「馬車を壊していいならな」
カイルの灰色の翼は、長椅子と荷箱の間へ押し込まれている。少し動かすたび、皮膜が木の縁へ擦れた。
「飛ぶ許可は出なかったけど、翼を伸ばすなとは書いてなかったよ」
「帝国兵の前で広げれば、飛ぶつもりだと騒がれる」
「信用されてないね」
「お前たちと同じだ」
リュカは笑った。
「僕たちは信用されてないから顔を隠すわけじゃないよ」
「正体を隠して近づかれる相手が、そう思ってくれるかは別だけどね」
目を閉じていたセイルが口を挟んだ。
「起きてたの?」
「君たちの会話が、眠るには少しだけ不毛だった」
馬車が速度を落とした。
北方支部の門前には、派遣されてきた兵学府の生徒を確認する兵士が並んでいる。
カイルが首から下げた許可証を外へ出すと、兵士は封印と本人の顔を何度も見比べた。それから翼へ目を移し、後続の兵士を呼ぶ。
「確認に時間がかかってるだけだよ」
セイルが小声で言った。
「睨まない方が早く終わる」
「あれが確認する目か」
「少なくとも、歓迎する目ではないね」
やがて許可証が返され、馬車は門をくぐった。
◇
北方支部で、三人は他の生徒たちと別れた。
同じ馬車列で到着した生徒たちは、宿舎と担当部署を告げられていく。ローディスたちだけは、街道調査用の地図と物資を受け取ると、支部北側の小門へ案内された。
門の外には、荷台の低い一頭立ての馬車が待っていた。
御者台には、北方支部から輸送役として付けられた男が座っていた。男は四人の顔を見ようともせず、積み荷を指す。
「北の監視小屋まで運ぶ。そこから先は徒歩だ」
「支部から誰か同行するんですか」
ローディスが尋ねた。
「しない。竜人の村は、帝国兵を招いていない」
男はそれだけ答え、手綱を鳴らした。
北方支部の壁が背後へ消える。
カイルが御者台の後ろから振り返った。
「村でも、その格好で通すのか」
「正式な校外実地課程だからね」
リュカが旅装の下にある制服の襟を指した。
「招かれた側が、素性を隠して入る方がおかしいでしょう」
セイルが言う。
「村の者は、帝国から来ると知っている。それでも、歓迎されるとは思うな」
「顔を隠したら、もっと歓迎されなくなるよ」
「違いない」
カイルは前へ向き直った。
車輪の音だけが、北へ延びる道に続いた。
◇
翌日の昼過ぎ、馬車は山裾の監視小屋へ着いた。
そこから先に、帝国の街道はない。
岩と針葉樹の間を縫う細い道が、白い頂を持つ山々へ向かっている。道の両側には、一定の間隔で平たい石が立てられていた。
どの石にも、人族の文字は刻まれていない。
深く抉られた爪痕と、波打つような線だけがある。
「境を示しているのか」
ローディスが石の前で足を止めた。
「竜語だ」
カイルが答える。
「ここから先は、天穿山脈に住む者の許しなく入るなと書いてある」
「読めるんだね」
リュカが石へ一歩近づきながら言った。
「村で育てば覚える」
カイルの返答に、三人の動きが一瞬止まった。
彼はこれまで、出身の集落を答えなかった。
今の一言も、招かれた村が故郷だと認めたわけではない。それでも、山の外で覚えた言葉ではないことだけは分かった。
セイルも隣の石へ刻まれた線を見上げた。
「僕たちは許されている、と考えていい?」
「招待状が偽物でなければな」
「今になって不安になることを言わないでくれ」
「確かめる者が来る」
カイルが山道の先を見た。
木々の間で、小石が一つ転がった。
ローディスが大剣の柄へ手を伸ばしかける。
「触るな」
カイルの声に、手を止めた。
次の瞬間、一人の女が斜面から飛び下りた。
高い岩から落ちたはずの身体は、膝を僅かに曲げただけで地面へ収まる。
年は二十歳前後に見えた。背はセイルより僅かに低いが、肩から腰まで引き締まっている。赤褐色の髪を太い一本の編み髪にし、琥珀色の目が四人を鋭く見定めていた。
こめかみから頬の端と、剥き出しの両前腕には、磨いた銅のような鱗が並ぶ。翼はない。代わりに、指先の爪は血授を受けていない者より黒く長かった。
厚手の獣皮を重ねた衣服の背には、女の身長ほどもある片刃の長槍が負われている。槍というより、柄を長くした大鉈に近い。
女は最初にカイルを見た。
「本当に来たのね、〈灰翼〉」
「その名で呼ぶな」
「帝国の土地では、そう呼ばれていたのでしょう」
「カイルだ」
「罪を犯す前から知っているわ」
女の声は冷たかった。
だが、武器へ手をかける様子はない。
「俺の話をするために待っていたのか」
「違う。あなたが余計なことをしないよう、見張るためよ」
女はカイルから視線を外し、三人へ向き直った。
「谷で黒いものを見つけ、陶器を帝国の町へ運んだ三人ね」
「そうだ」
ローディスが答える。
「ローディス・ベルグです。こちらはセイル・クローデンと、リュカ・エアハルト」
「家名まではいらない。ここでは、誰の子かより何をする者かを見る」
女は長槍の石突きを地面へ下ろした。
「私はエルナ。村長の娘として、あなたたちを村まで案内する。その後の調査にも同行する」
「案内と監視の両方?」
リュカが尋ねた。
「話が早くて助かるわ」
「歓迎されていないことは、カイルから聞いたよ」
「なら、村で驚かずに済む」
エルナの目が、三人の武器を順に追った。
大剣。
杖。
短剣。
「村の中では、私が許すまで抜かないで」
「襲われても?」
セイルが尋ねる。
「村の者に襲われるようなことをしなければいい」
「何をすれば襲われる?」
セイルが続けて尋ねた。
「竜へ武器を向ける。山のものを盗む。許可なく家へ入る。血授の儀を見ようとする」
カイルから聞いた禁則に、一つ増えた。
「血授の儀は、外の者に見せないの?」
セイルが確認する。
「見せない。理由も聞かないで」
エルナは山道へ向き直った。
「日が落ちる前に村へ入る。歩きながら話して」
「何を?」
ローディスが尋ねる。
「谷で見たものを、最初から全部」
「報告書は届いていないのか」
ローディスが続けた。
「届いている。帝国の役人が整えた紙ならね」
エルナが振り返る。
「私は、あの場にいた者の言葉を聞きたい」
その言い方は、グレンガルドに似ていた。
四人は、石の標を越えた。
◇
山道を一刻ほど登ると、岩壁の向こうに集落が見えた。
帝国の町のような城壁はない。
巨大な岩柱の間へ太い木を渡し、その上と岩肌の窪みに家々が築かれている。地上の道だけでなく、頭上にも橋と足場が何段も延びていた。
翼を持つ竜人は高い足場へ直接降り、翼を持たない者は岩へ沿った階段を行き来している。鱗の色も、角の形も、身体へ現れた竜の特徴も一人ずつ異なっていた。
三人が姿を見せると、いくつもの視線が集まった。
好奇心より、警戒の方が強い。
とりわけカイルへ向けられる目には、怒りと戸惑いが混じっている。
「先に村長へ会うのか」
ローディスがエルナへ尋ねた。
「その前に、見せたいものがある」
エルナは集落の中央へ進まず、岩壁沿いの細い道へ曲がった。
道の先には、雨を避けるように獣皮が張られている。
その下の柔らかい土へ、二種類の足跡が残されていた。
一つは、六本に分かれた太い指。
もう一つは、山外で使われる形の靴底。
「渓谷だけではなかったのか」
セイルの声が低くなる。
「三日前、村の外で見つけた」
エルナは山外の靴跡を指した。
「こっちは村へ向かっていた」
次に、六本指の跡を示す。
「そして、こっちは村から離れていた」
ローディスが二つの跡を見比べる。
「二つの跡は、同じ頃についたものなのか」
「分からない。どちらも雨の当たらない場所に残っていて、崩れ方にもほとんど差がない。だから、あなたたちを呼んだ」
エルナは琥珀色の目で三人を見た。
「山外の者の足跡が、なぜ私たちの村を目指していたのか。山の外を知るあなたたちにも調べてもらうために」
山の外へ向かう六本の指。
山の内へ向かう、山外の靴。
二つの足跡は、同じ場所ですれ違っていた。




