第42話 北行きの条件
休養日が明けた朝。
教室へ入ってきたマレーネは、教本より先に一枚の大きな紙を黒板へ貼った。
「六日後から、第一学年の校外実地課程に入ります」
教室の空気が、一斉に浮き立った。
校外実地課程は、兵学府の生徒が帝都内外の軍施設や街道、治療所などへ赴き、二週間にわたって実務を学ぶ期間だ。派遣先によって経験できる内容が大きく異なるため、毎年、発表の日には期待と不満が同じだけ飛び交う。
「静かに」
マレーネが一言告げると、ざわめきはすぐに小さくなった。
「派遣先と班分けを掲示します。今回の評価は、現地担当者の所見と、帰還後に提出する報告書で決まります。遊びに行く者は、帰ってから相応の点数を受け取ることになるでしょう」
「遊んだ分だけ点が増えるなら、僕は頑張れます」
トビアスが真顔で言った。
「減点を集める努力なら認めます」
教室に笑いが起こる。
生徒たちが順番に黒板の前へ集まり、自分の名前を探し始めた。
ニナは帝都南部の治療所。
トビアスとエルザは、帝都西門の守備隊。
ローディス、セイル、リュカの三人は――北方街道の実地調査。
同じ北方支部へ向かう生徒もいたが、そちらには補給庫や門衛補助など、支部内での担当まで記されている。三人の欄だけは、北方支部を経由した後の行き先が「街道周辺」としか書かれていなかった。
「また三人一緒なんだ」
ニナが、並んだ名前を見上げる。
「仲がいいから、離すと泣くと思われたのかな」
リュカが答えた。
「誰が泣くんだ」
ローディスが眉を寄せる。
「僕は泣かないよ。旅費さえ出れば」
セイルは派遣先の横へ記された注意書きを読んでいた。
「北方支部を経由し、街道周辺の地勢と物資輸送経路を確認する。ずいぶん遠いね」
「前にも行った場所でしょう?」
ニナが尋ねる。
「支部まではね。その先へ行くかは書いてない」
セイルが答えると、背後からマレーネの声が飛んだ。
「クローデン、ベルグ、エアハルト。三人は授業後、学園長室へ行きなさい」
教室にいた何人かが、三人を振り返った。
「何をしたの?」
ニナが声を潜める。
「まだ何もしていないよ」
リュカは笑顔で答えた。
「これから何かさせられるだけで」
◇
学園長室の扉を開けると、机の向こうから宝石のついた手が大きく振られた。
「よく来たね、北方調査班の諸君!」
オルフェン・グランツは、今日も肌を一切見せていなかった。
大柄な身体を襟の高い黒衣で包み、両手には黒い手袋。顔を覆う白い仮面には表情がなく、指輪や胸飾りだけが窓から差す光を色とりどりに返している。
「廊下まで聞こえます」
セイルが扉を閉めた。
「元気な学園長がいると知ってもらえる。結構なことじゃないか」
「呼ばれた理由を聞いてもいいですか」
ローディスが尋ねる。
「もちろん。君たちの派遣先は、今朝になって変更した」
「やっぱり」
リュカが小さく言った。
オルフェンの仮面が、そちらへ向く。
「何か予想していたのかな、エアハルト君」
「北方支部へ行く他の生徒には、支部での担当まで書かれていました。僕たちだけ、その先が曖昧だったので」
「鋭い。褒美に、帰りの馬車でもう一枚毛布を使う権利をあげよう」
「行きにも欲しいです」
リュカが間を置かずに求めた。
「欲張りだねえ」
ローディスは二人のやり取りを見てから、机へ向き直った。
「変更の理由は、以前の谷の調査ですか」
「そうだ。北方支部から、現場を知る者を実地調査へ回してほしいと要請があった。君たちには支部で説明を受けた後、さらに北へ向かってもらう」
「ハルトマン先生は同行しないんですか」
セイルが尋ねた。
「今回は別の班を担当する。君たちには、現地で案内人がつくよ」
学園長は机の上へ三枚の書類を並べた。
兵学府の校外実地課程として北方へ派遣すること。
現地では北方支部の指示と、立ち入りを認めた集落の掟に従うこと。
帰還後、調査内容を報告書へまとめること。
六本指も、黒い根も、竜人の村も書かれていない。
「表向きは街道と地勢の調査。行き先の詳細は、学府内でも必要な者だけが知る」
「必要な者には、どこまで話しているんですか」
セイルが書類から目を上げる。
「北方で追加の調査がある。それだけだ。以前の谷で君たちが何を見たかも、必要以上には話していないよ」
「安心しました」
セイルが書類へ目を戻す。
「信用がないねえ。私はこれでも、機密を扱う立場なんだよ」
オルフェンは胸元へ手を当て、大げさに肩を落とした。
その仕草に、仮面の奥の表情は伴わない。
「出発は六日後。北方支部までは他の派遣者と同じ馬車列で向かう。そこから先は、現地で指示を受けなさい」
「学園長」
ローディスが書類を手に取る前に尋ねた。
「調査で、六本指の何かを見つけた場合は」
「追う前に、相手と周囲を見なさい」
陽気だった声から、軽さが消えた。
「君たちは、それが何者かも、何人いるかも知らない。山外の者らしき靴跡が本当に関係しているかさえ分かっていない。見つけたものを、見つけた形のまま持ち帰ることを優先するんだ」
「捕らえるな、ということですか」
「捕らえられると判断できるまではね」
ローディスは短く頷き、書類を受け取った。
◇
その夜、旧演習場へ現れた小型伝令ゴーレムは、学園長室でもらったものとは別の書面を運んできた。
任務の目的は三つ。
竜人の村で見つかった痕跡の確認。
六本指の存在と、そのそばに残された山外の者らしき靴跡に関する情報収集。
竜族・竜人との今後の連絡経路の確立。
「学府の課題より、こっちの方が多いね」
リュカが紙を横から覗く。
「報告書に書けないことも増えたな」
ローディスが言った。
「二つ分働くなら、報酬には期待してもいいよね」
セイルはその問いへ答えるように、続きを読み上げた。
「基本報酬は一人銀貨二十枚。交通費と滞在費は別。対象を特定した場合は追加報酬を協議する」
「協議」
リュカが嫌そうに繰り返す。
「金額を書かないときに便利な言葉だね」
「少なくとも、情報交換の銀貨六枚よりは増えた」
セイルは満足した様子もなく紙を畳んだ。
「カイルの許可は?」
ローディスが尋ねる。
伝令ゴーレムが、背負っていた筒をもう一度振る。
中から二枚目の紙が落ちた。
――帝都外への一時移動を許可。
――指定経路からの離脱、許可なき飛行および武器の所持を禁ずる。
――ただし、同行者または第三者の生命を守るため、他に手段がない場合を除く。
「飛んでいいのか、悪いのか、どっちだ」
ローディスが紙を見つめる。
「基本は駄目。誰かが死にそうなら、その理由を後で説明しろ、ということだよ」
セイルが答えた。
「説明する相手が生きていればいいけどね」
リュカが言うと、伝令ゴーレムが短い腕で彼の靴を叩いた。
「僕が決めた条件じゃないよ」
ゴーレムはもう一度叩いた。
◇
六日後の早朝。
帝都北門の外には、兵学府の校外実地課程へ向かう幌馬車が並んでいた。
制服姿の生徒たちが教員に点呼を受け、それぞれの派遣先へ分かれていく。
ローディスたち三人は制服の上から旅装を着込み、荷物を馬車へ積んだ。
三人は、最後まで兵学府の生徒として校外実地課程へ参加する。
その表の立場を保ったまま、北方支部から先では宵衛の目的も果たすことになる。
馬車の陰には、カイルが立っていた。
飾り気のない褐色の旅衣をまとい、灰色の翼を背中へ固く畳んでいる。腰に武器はなく、首から下げた革袋には、移動許可を示す帝国の封印が押されていた。
「遅い」
「集合時刻より前だ」
ローディスが空を見上げる。
「鐘もまだ鳴っていない」
ローディスが続けた。
「待つ側には遅い」
「ずっと牢にいたから、外で待つのが楽しいんじゃない?」
リュカが笑う。
「置いていくぞ」
カイルが荷台へ向かう。
「置いていくって、カイルは御者じゃないよね」
リュカがその背中へ言った。
カイルは返事の代わりに、荷台へ乗り込んだ。
翼の分だけ場所を取り、長椅子の半分が埋まる。
セイルが向かいへ座り、膝の間へ杖を立てた。
「一つ確認しておく。村へ着く前に、僕たちがしてはいけないことを教えて」
「竜へ武器を向けるな。山のものを勝手に持ち出すな。案内人の許可なく村を歩くな」
「他には?」
セイルが重ねて尋ねる。
「自分たちの国の決まりが通じると思うな」
ローディスが荷台へ上がり、最後にリュカが続いた。
「ずいぶん歓迎されている気分になってきたよ」
「歓迎はされていない」
カイルが即座に答える。
「お前たちは、入ることを許されただけだ」
北門の鐘が鳴った。
御者が手綱を振るい、幌馬車が動き始める。
石造りの帝都が、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていく。
行く先には、帝国の法だけでは届かない山がある。
六本指の跡と、山外の靴跡。
誰が並んで歩いたのかを確かめるため、四人は北へ向かった。




