第4話 力の値段
報告書を読み終えてから、四半刻も経っていなかった。
三つの黒い影が、帝都の屋根を南へ走る。
三人とも、足首まで届く黒いローブをまとい、深く被った頭巾と覆面で肌を隠していた。大剣や杖も黒布で包み、帝立アストラ兵学府の学生だと分かる物は一つも身につけていない。
宵衛の任務を、表の顔へ結びつけてはならない。
眼下の大通りを、帝国衛兵の一隊が駆けていく。
遠くで警鐘が鳴っていた。
野盗首領が収容所を破ったのは、伝令ゴーレムが報告を届ける少し前。街路ではすでに衛兵が捜索を始めている。
三人は彼らより先に逃亡者を捕らえなければならない。同時に、衛兵からも姿を見られてはならなかった。
「南へ向かったという情報だけで、見つけられるのか?」
屋根を跳び移りながら、ローディスが尋ねる。
「収容所を出て最初に壊したのが南門側の外壁。そこから先は、衛兵に任せるしかないね」
セイルは火の精霊へ短く呼びかけ、杖の先に蝋燭ほどの炎を灯した。明かりを手で覆い、屋根瓦に残った新しい傷を照らす。
「ただし、普通の逃亡者なら、だけど」
瓦は何枚も踏み砕かれ、屋根の端に大きな窪みが残っていた。
次の建物までは、人間が跳べる距離ではない。
「五日前は、木の根につまずいていた男だぞ」
「今は屋根を二つ飛び越えてる」
リュカは窪みの向きを確かめ、さらに南へ視線を向けた。
「力を隠す気がない。逃げてるというより、試してるんだ」
警鐘に重なり、遠くから鈍い破壊音が響いた。
一度。
二度。
三度目には、人の悲鳴が混じる。
三人は同時に顔を上げた。
「荷揚げ場だ」
リュカが屋根を蹴る。
小さな身体が、二人を置き去りにして闇を駆けた。
「速すぎる!」
ローディスとセイルが追う。
しかし、距離は縮まらない。
やがて三人は、古い荷揚げ場へたどり着いた。
川沿いに並ぶ倉庫の多くは扉を閉ざしている。昼間は荷車と人足でごった返す場所も、異変の起きた一棟を除けば水の音しか聞こえない。
「あそこだ」
ローディスが、一棟の倉庫を指した。
分厚い木戸が内側へ折れている。
その奥から、誰かの呻き声と、荷箱の砕ける音が聞こえた。
三人は目を合わせた。
リュカが二本の指を立てる。
ローディスは大剣を抜き、正面へ。
セイルは杖を構え、左へ。
リュカの姿が、右手の闇へ溶ける。
倉庫へ踏み込むと、積み上げられた麻袋の間に二人の荷役人が倒れていた。
夜番をしていたのだろう。仕事着のまま腕を押さえ、怯えた目で大男を見上げている。
その前に、大男が立っていた。
野盗団の首領。
だが、五日前とは姿が違った。
肩と腕は倍近く膨れ上がり、皮膚の下で太い血管が脈打っている。鉄枷を引きずった足首から流れた血が、床に赤い水溜まりを作っていた。
それでも、男は笑っていた。
「お前たち……どうしてここに」
ローディスは大剣の切っ先を下げたまま問う。
「その二人を襲ったのか」
「俺をここから追い出そうとした」
「ここは、その二人の仕事場だ」
「力のない奴が、俺に命令するな!」
怒声と同時に、男の足元が砕けた。
消えた。
そう見えた直後、ローディスの大剣へ拳が叩き込まれる。
金属音が倉庫を揺らした。
ローディスの両足が床を滑り、靴底が長い跡を刻む。
「重いな」
痺れた腕を振り、ローディスは笑った。
「だが、受けられる」
「ローディス、正面から受けるな!」
リュカの声が飛ぶ。
しかし、ローディスは大剣を構え直した。
一度受けられた。ならば、次も受け止められる。
鍛えてきた自分の力が、そう告げていた。
「まだ俺を馬鹿にするか!」
男が二発目を放つ。
ローディスは刀身の腹で受け止めた。
甲高い音が鳴る。
大剣の中央に亀裂が走った。
「な――」
三発目の拳が、同じ場所へ叩き込まれる。
分厚い刀身が二つに折れた。
折れた切っ先が回転しながら飛び、倉庫の床へ突き刺さる。
拳はそのままローディスの胸へ届いた。咄嗟に柄と鍔で防いだものの、衝撃までは殺せない。
身体が宙へ浮き、麻袋の山へ叩き込まれた。
「ローディス!」
セイルの声に、焦りが混じった。
男が追撃へ向かうより早く、杖を突き出す。
「水よ、集え。凍てつく枷となれ!」
大量の水が男の両脚へ絡みついた。
凍りつき、膝下を床ごと覆う。
「浅い!」
リュカが叫んだ。
「固める場所が低すぎる。そいつに踏ん張る場所を与えてる!」
「これだけ厚ければ壊せない!」
セイルはさらにマナを注ぎ込んだ。
氷が幾重にも重なり、男の足元で大きな塊となる。
だが、厚さは強さだけを意味しなかった。
床へ固定された両脚が、上半身の力を振るうための土台になる。
男は腰をひねり、氷の枷をつけたまま床を殴った。
衝撃が氷の内側から走る。
巨大な氷塊が、一撃で爆ぜた。
鋭い破片が倉庫中へ飛び散る。
セイルは水壁を広げて防ぐ。厚い拘束を作った直後で、術の立ち上がりが遅い。
数本の氷片が水壁を抜け、頬と杖をかすめた。
視界が白く染まった、その向こうから男の腕が突き出される。
回避が間に合わない。
「伏せろ!」
麻袋から起き上がったローディスが、セイルの肩へ飛びついた。
二人はもつれるように床を転がる。
男の拳は背後の柱へ突き刺さった。
太い柱が中央から折れ、天井が大きく軋んだ。
「それだ」
血走った目が、セイルを捉える。
「俺には、そんな言葉は分からなかった。いくら学んでも、精霊は返事をしなかった。マナが足りない、生まれが悪い、諦めろ――何度言われたと思う?」
男は柱から潰れた拳を引き抜いた。
「だが、あの方は違った。言葉も、紋章も、マナもいらない。欲しいと答えるだけでよかった!」
発声も、紋章もない。
拳を握れば、壁を砕く。
地を蹴れば、人の目から消える。
精霊術のように、力を使う瞬間を読む手掛かりがどこにもない。
「二人とも、下がって」
静かな声だった。
リュカが男の正面へ歩み出る。
ローディスは折れた大剣の柄を握ったまま、息を呑んだ。
リュカの足取りには、焦りがない。
セイルのように大きな術を準備することも、ローディスのように力を競うこともしない。
ただ一度、男の肩、腰、足の向きを見た。
「力は増えた。でも、戦い方は五日前と同じだ」
「何だと?」
「大振りで、力任せで、怒ると右しか見えなくなる」
男の顔が歪む。
地を蹴り、右の拳を振りかぶった。
リュカは半歩だけ左へ動く。
拳が頬の横を通り過ぎた。
風圧が頭巾を揺らす。触れてはいない。
リュカの爪先が、踏み込んできた男の足首を軽く払う。
速すぎる身体に、元の技量が追いついていない。男は自分の勢いを制御できず、床へ片手をついた。
リュカは追撃しない。
「もう一度」
手招きする。
「殺す!」
男は床を蹴り、今度は両腕を広げて掴みかかった。
リュカの身体が沈む。
腕の下をくぐり、背後へ抜ける。
膝裏へ踵を当て、力の向きをわずかに変えた。
男は積み荷へ頭から突っ込んだ。
「速さも力も、使えなければ隙が増えるだけだよ」
五日前と同じだった。
いや、五日前より差が大きい。
首領は人ではあり得ない力を得た。だが、リュカには一度も触れられない。
ローディスは折れた大剣を見た。
自分は力へ力で挑み、武器ごと打ち負けた。
セイルは正面から封じようとして、大量のマナを失った。
リュカだけが、最初から敵の弱点を見ていた。
男が積み荷を弾き飛ばして立ち上がる。
その顔に、もう笑みはなかった。
「五日前も、その足で俺を倒したな」
「覚えてたんだ」
リュカは静かに答えた。
「今の俺は、あの時とは違う!」
「力はね。でも、君自身は何も変わってない」
笑みが、男の顔から消えた。
「その腕、もう折れてるよ」
リュカの指摘に、男は自分の右腕を見た。
柱を殴った拳は潰れ、折れた骨が皮膚を内側から押し上げている。両脚の筋肉も裂け、血が噴き出していた。
得た力に、人間の肉体が耐えられていない。
「だから何だ」
男は曲がった腕を、左手で乱暴に引いた。
骨が鳴る。
「痛くない。力がある。俺を見下した奴らを殺せる。それで十分だ」
「それは、君が望んでるの?」
リュカが問う。
「それとも、頭の中の誰かが望んでる?」
男の身体が止まった。
「黙れ」
「何て言われた? 僕たちを殺せば、もっと力をやる?」
「黙れ!」
「さっきから、君は話してる途中で何度も黙る。返事を聞いてるんだろ」
男の瞳が、何もない宙へ揺れた。
誰にも聞こえない声が、その魂へ直接届いている。
次の瞬間、男の表情から怒りが抜け落ちた。
「殺せ」
低い声だった。
「何?」
「頭の中から出ていかない。寝ても、目を閉じても、ずっといる。殺せ、壊せって……俺が考えるより先に、欲しいものを言ってくる」
男は頭を抱えた。
潰れた右手でこめかみを掻き、爪が皮膚を裂く。
「力が欲しかっただけだ。こんな声は欲しくなかった!」
「なら、もう戦うな」
ローディスは折れた大剣の柄を下ろした。
「俺たちと戻れ。声を止める方法を探す」
「遅い」
男の顔が、恐怖に歪んだ。
「止まったら、俺を内側から潰すって――」
全身の血管が黒く浮き上がった。
男が絶叫する。
裂けていた筋肉が、さらに大きく膨張した。骨が軋み、皮膚が耐え切れずに割れていく。
魔術が、持ち主の意思を置き去りにして力を注ぎ込む。
「来る!」
男が地を蹴った。
狙いはローディスではない。
倒れている荷役人たちだった。
契約相手が、人族を傷つけろと命じている。
リュカの姿が消える。
男の拳が振り下ろされるより早く、その懐へ入った。
一撃目の蹴りが、左膝を横から砕く。
巨体が傾く。
二撃目が、右の股関節を打ち抜く。
男の身体が一回転し、床へ叩きつけられた。
「セイル!」
「もうやってる!」
セイルが残るマナを絞り出す。床に広がっていた水が、男の四肢を包む。
凍結。
砕かれた脚ごと、分厚い氷が床へ縫いつける。
ローディスは折れた大剣の柄を床へ放り、男の背中へ馬乗りになった。両腕を取り、肩が外れないぎりぎりまで引き上げる。
「終わりだ」
男はなおも暴れた。
氷が軋む。
ローディスの腕が震える。
それでも三人の拘束は崩れない。
やがて、男の身体から唐突に力が抜けた。
膨れ上がっていた筋肉が萎み、黒い血管が皮膚の下へ消えていく。
「切られた」
男が呟いた。
「何が?」
「声が……いなくなった」
安堵したように息を吐き、そのまま意識を失う。
セイルは男の首筋へ指を当てた。
「生きてる。ただ、この身体では長く持たない」
右腕と両脚。裂けた筋肉。砕けた拳。
魔術が消えたあとに残ったのは、力へ耐えられず壊れた人間の身体だけだった。
「契約相手が、つながりを切ったのかな」
リュカは答えず、気を失った男を見下ろした。
利用できる間だけ力を与え、捕らえられれば捨てる。
マナも、知識も、鍛錬もいらない。
必要なのは、欲しいと答えることだけ。
「簡単すぎる」
セイルが、吐き捨てるように言った。
「こんな契約が誰にでもできるなら、同じ奴が何人いるか分からない」
倉庫の外から、鋭い呼笛が聞こえた。
一つではない。警鐘と破壊音を追ってきた帝国衛兵が、すぐ近くまで迫っている。
「考えるのはあとだ。セイル、二人を見て」
リュカは倒れている荷役人を指した。
セイルは杖を支えに立ち上がり、二人の負傷を確かめる。
「一人は腕の骨折。もう一人は頭を打ってるけど、意識はある。今すぐ命に関わる傷じゃない」
冷たい水を布へ含ませ、腫れた箇所へ当てる。治療の精霊術ではないが、衛兵が来るまでの応急処置にはなる。
「助けが来る。僕たちの顔を見ていないことにして、ここで待っていて」
覆面の少年に言われ、荷役人たちは何度も頷いた。
「ローディス、首領を運べる?」
「問題ない」
ローディスは床に放っていた折れた大剣の柄を拾って腰へ差し、首領の巨体を肩へ担ぎ上げた。胸と背中が痛んだが、足は動く。
「切っ先を忘れてるよ」
ローディスは床に落ちた大剣の切っ先を拾った。
鍛え上げた刀身は中央から完全に折れ、元へ戻せそうにない。
黒布で包み、首領を担いでいない側の腕へ抱える。
倉庫の正面で、複数の足音が止まった。
「裏口へ」
リュカを先頭に、三人は川側の扉から夜の闇へ滑り出た。
直後、倉庫の正面扉が開く音がした。
◇
衛兵の呼笛が遠ざかるまで屋根を渡り、三人は人気のない鐘楼の陰で足を止めた。
気を失った首領を壁際へ下ろす。
そこでようやく、ローディスは黒布に包んだ大剣の残骸へ目を落とした。
「報酬を受け取った日に、武器を失うとはな」
「銀貨九枚で新しい大剣が買えると思わないことだね」
「足りないのか?」
「今までと同じ程度の品なら買える。今までより丈夫な物が欲しいなら、話は別だ」
セイルは折れた断面を覗き込み、指で軽く弾いた。
「それに、次も正面から拳を受けるつもりなら、武器より先に頭を新調したほうがいい」
「その反省はしている」
「本当に?」
リュカが疑わしそうに首を傾げた。
「武器のほうは、兵学府御用達の店へ持っていくしかないね」
リュカの言葉に、セイルがわずかに嫌そうな顔をした。
「あの店か。折れた理由を聞かれるぞ」
「拳で折られたと正直に言う」
「余計に面倒なことになると思うよ」
「なぜだ?」
「行けば分かるさ。兵学府の生徒と教員は、どうせ皆あそこへ行く」
セイルは折れた刀身を黒布で包み、ローディスへ押し返した。
「首領を引き渡したら、明日の放課後だ」
ローディスは倉庫の外へ目を向けた。
眠る帝都には、数え切れないほどの家々が並んでいる。
その一つ一つに、力を欲しがる人間がいるかもしれない。
誰にも聞こえない声が、今この瞬間にも問いかけているかもしれない。
――力が欲しいか、と。




