第3話 紋章なき力
精霊術が人族にもたらした恩恵と災禍について、三枚以上で論じなさい。
課題を出されてから五日目の朝。
ローディスは帝立アストラ兵学府の書庫で、まっさらな三枚目の紙と向き合っていた。
「災禍のほうは書けた」
向かいに座るセイルが、眠そうに目を上げる。
「何を書いたんだい」
「精霊術によって戦争が激しくなった」
「それは授業で聞いた」
「精霊術によって課題が三枚に増えた」
「それは君にしか訪れていない災禍だな」
横から紙を覗き込んだリュカが、困ったように笑った。
「ローディス。冗談を書く余白があるなら、恩恵の例をもう一つ増やそうよ」
「腹が満たされる、身体を洗える、暖かく眠れる。もう三つも書いたぞ」
「全部、君の生活じゃないか」
「生活への恩恵なのだから正しいだろう」
「間違ってはいないのが厄介だね」
セイルはため息をつき、自分の課題へ戻った。彼の机には、すでに文字で埋まった四枚の紙がある。
「一枚、売ってくれ」
「銀貨一枚」
セイルが間髪を入れずに答えた。
「昨日は構成だけで銀貨一枚だっただろう」
「締め切り当日の価格だ」
「友情は日ごとに値上がりするのか」
「需要があるからね」
「静かにして」
本棚の向こうから声がした。
赤茶色の短い髪が、積み上げた本の上から覗いている。ニナ・フェルナーだった。
五冊の本を両腕に抱え、よろめきながら三人の机まで歩いてくる。
ローディスは立ち上がり、そのうち四冊を受け取った。
「助かる。でも、力を持つ者が取引相手の価格へ介入するのは、恩恵と災禍のどちらに書けばいいのかしら」
「無償だから恩恵だ」
ローディスが答える。
「なるほど。ローディス、今の一文を課題に使うといい」
セイルが真顔で言った。
「お前から買わずに済みそうだ」
「余計なことを」
ニナは三人の机へ本を広げた。どれも古く、革表紙の角が丸く擦り切れている。
「精霊学祖について調べていたのか?」
「ええ。マレーネ先生が、晩年の史料は少ないと言っていたでしょう。気になって」
開かれた本には、杖を手に各地を巡るエルヴィン・ノアの姿が描かれていた。
精霊語を教えるエルヴィン。
精霊王との原初契約を人々へ伝えるエルヴィン。
人の王に招かれ、宮殿へ向かうエルヴィン。
その次の頁から、彼の名はどこにもなかった。
「死んだんじゃないのか?」
「普通はそう考えるわよね。でも、没年も墓も、最期を見届けた人の記録もないの。どの本も、ある時期から急にエルヴィンのことを書かなくなる」
「古い話だ。記録がなくなることくらいあるだろう」
セイルが頁をめくりながら言う。
「それはそうだけど……原初契約を結んだ人よ? 昨日の食事の献立まで記録したがりそうな人が、当時にも一人くらいいたと思わない?」
「今日の昼食なら俺が記録してもいいぞ」
「ローディスには聞いてない」
ニナは唇を尖らせ、本を閉じた。
革表紙から乾いた埃が舞う。
「まるで、ある日突然、世界からいなくなったみたい」
その言葉だけが、妙に長くローディスの耳へ残った。
◇
同じ日の午後、マレーネは屋外実習場の石床に二つの大きな文字を書いた。
発声式と、紋章式。
この日の実習は、精霊術専攻だけを集めた授業ではない。一年生が所属する合同学級で行われる、精霊術の共通基礎だった。
兵学府では、武技を主に学ぶ生徒も精霊術の仕組みを履修する。味方の術へ巻き込まれず、発動までの時間を守り、紋章の異常へ気づくためだ。反対に、精霊術師も武器を持つ者が何を見て、どのように間合いを作るのかを学ぶ。
一年生は合同授業で双方の基礎を身につけながら、別の時間には専攻別の精霊術授業と武技授業へ分かれる。そして合同実技の日には、異なる専攻の生徒が同じ組を作った。
「午前中に提出された課題は、今夜すべて読みます」
並んだ学生たちの中で、ローディスだけがそっと目を逸らした。
「精霊術の恩恵を昼食の品数で数えた者には、個別の指導が必要でしょう」
セイルが肩を震わせる。
「笑うな」
「まだ君とは言われていないよ」
「私語をした二人には、まとめて指導しましょうか」
二人は同時に口を閉じた。
「本日の実習では、紋章式の基礎を確認します。契約者は一人ずつ石板へ紋章を描き、指定された現象を起こすこと。非契約者および待機中の者は、組になった術者の安全確認を担当しなさい」
学生たちへ、手のひら二つ分ほどの黒い石板が配られる。
表面へ白い顔料で精霊語の線を描き、中心へ触れてマナを流す。単純な紋章なら、失敗しても石板の外へ影響は出にくい。
「あくまで出にくい、です。絶対に出ないとは言っていません。線を省かない。勝手に足さない。分からなければ発動前に質問する。以上を守りなさい」
ローディスはニナと組み、革張りの訓練盾を持って隣に立った。
「なぜ俺が盾役なんだ」
「昨日、竜型ゴーレムの攻撃を受け止めていたからじゃない?」
「あれより危険なのか、この板は」
「急に不安になることを言わないで」
ニナが契約しているのは火の精霊だった。
課題は、石板の上に指先ほどの炎を灯し、十を数える間だけ保つこと。
隣の組では、セイルが水の紋章を完成させていた。マナを流すと、石板の中央へ澄んだ水球が浮かぶ。揺れもせず、形も崩れない。
「相変わらず腹が立つくらい上手ね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「セイル・クローデン。指定されたのは拳大の水球です」
巡回してきたマレーネが言った。
「寸分違わず拳大ですが」
「隣のエアハルトに見せつけるため、必要のない回転を加えていますね」
水球の中では、小さな渦が優雅に回っていた。
「応用の自主練習です」
「余分なマナの消費です。止めなさい」
セイルの隣で、リュカは風の紋章と向き合っていた。
石板の中央には一枚の羽根が置かれている。起こすべき風は、羽根を板の端まで動かす程度のものだ。
リュカが紋章へ指を置く。
白い線が、かすかに緑の光を帯びた。
羽根は震えたが、ほとんど動かない。
「惜しいね」
リュカは、周囲の学生に聞こえる声で笑った。
「もう少しマナを出せればいいんだけど」
「精霊語の組み方は間違っていません」
マレーネが石板を覗き込む。
「現象を維持するマナが不足しています。無理に流さず、今日は線の正確さを優先しなさい」
「はい、先生」
リュカは素直に指を離した。
マナが少ない、精霊術の苦手な学生。
誰もがそう見て、すぐ自分の石板へ関心を戻す。
ローディスとセイルだけは、何も言わなかった。
昨夜まで、リュカの足が何人の敵を地面へ沈めてきたか知っているからだ。
「できた」
ニナの声に、ローディスは振り返った。
石板には、円の中心から八本の線が伸びた火の紋章が描かれている。
「先生に確認してもらったほうがいいんじゃないか」
「基礎紋章よ。教本と同じに描けているわ」
「線が一本、長くないか?」
「これは炎を十数える間、保つための線。長さは持続時間を――」
ニナの指が、紋章の中心へ触れた。
白い線に赤い光が走る。
指先ほどの炎が灯った。
「ほら。成功――」
炎が横へ伸びた。
細長い火の帯となり、石板の縁を越える。
ニナが息を呑んだ。
持続を示すはずの線は、わずかに隣の記号へ触れていた。二つの意味がつながり、精霊へ別の願いとして伝わっている。
十を数える間、燃え続ける炎ではない。
十の方向へ、広がり続ける炎。
「石板から手を離せ!」
ローディスは盾を構え、ニナの前へ出た。
火の帯が扇状に分かれ、正面から押し寄せる。革の表面が焼け、焦げた臭いが立った。
盾の両側から回り込んだ炎が、隣の学生たちへ迫る。
セイルが杖を向けるより早く。
リュカの右足が、石床を踏み砕いた。
身体が前へ出かける。
だが、その一歩で止まった。
ここは夜の森ではない。
教員も、同級生も見ている。
「水よ、集え。壁となれ!」
セイルが精霊語を発した。
発声式の願いに応え、空中へ水が集まる。薄い水壁が学生たちの前に立ち上がり、回り込んだ炎を呑み込んだ。
白い蒸気が爆ぜる。
「フェルナー、マナを切りなさい!」
マレーネの声が響いた。
ニナが石板から指を離す。
赤い光が消え、火の帯は水の中で次々と潰えた。
実習場を静寂が覆う。
ローディスは焦げた盾を下ろし、後ろを振り返った。
「怪我は?」
「な、ない。ありがとう」
ニナの顔は青ざめていた。
「クローデン。即時の対応は見事でした。ベルグもです」
マレーネは石板を拾い、誤って接した二本の線を指で示した。
「精霊は、伝えられた願いを実行しただけです。術者の考えていたことを推測し、都合よく直してはくれません。紋章式では、一本の誤りが願いそのものを変える。全員、今の失敗を覚えておきなさい」
ニナは唇を噛み、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
「謝罪より、次に同じ誤りをしないことです。フェルナーは紋章を最初から描き直しなさい。今度は発動前に私を呼ぶこと」
「はい」
学生たちが実習へ戻っていく。
マレーネは一歩進み、足元で靴を止めた。
石床の一枚に、放射状の亀裂が走っている。
中心にあるのは、小さな靴の跡だった。
彼女は顔を上げた。
少し離れた場所で、リュカが羽根を動かそうと何度も紋章へマナを流している。
羽根は、相変わらず頼りなく震えるだけだった。
マレーネは何も言わなかった。
◇
夜。
三人は制服を脱ぎ、黒い外套と覆面を身につけていた。
帝都の外れ。とうに店を畳んだ染物屋の裏手に、外からは物置にしか見えない小部屋がある。
部屋には机が一つと、椅子が三つ。
壁にも扉にも印はなく、ここを誰が用意したのかを示すものは何もない。
ローディスたちが知っている宵衛の人間は、互いの素性を知る三人だけだった。
ほかにいくつのチームがあるのか。
誰が命令を出しているのか。
捕らえた者たちが、その後どこへ連れていかれるのか。
ローディスもセイルも知らない。任務に必要な情報だけが与えられ、それ以上を尋ねない。それが宵衛の決まりだった。
「五日待った」
椅子に座るなり、セイルが言った。
「来なかったら?」とリュカ。
「机を持って帰る」
「備品を報酬にするな」
ローディスが止めたところで、壁の向こうから硬いものが歩く音が聞こえた。
こつ、こつ、こつ。
小さな扉が開く。
入ってきたのは、ローディスの膝ほどの高さしかない土人形だった。
丸い胴体に短い手足。顔には目も口もなく、組織を示す印もない。背中に四角い箱を負い、鍵だけがひとりでに開いた。
小型ゴーレムは机まで歩くと、箱から革袋を一つ取り出した。
じゃらり、と金属が鳴る。
セイルの目から眠気が消えた。
「銀貨二十七枚」
数え終えるまでに、ほとんど時間はかからなかった。
「一人九枚。正しい」
「疑っていたのか?」
「確認と疑念は別物だよ」
ゴーレムは返事をしない。
代わりに、背中の箱から封蝋された細い筒をもう一つ取り出した。
リュカが受け取り、封を割る。
中に入っていたのは、一枚の報告書だった。
読み進めるうちに、リュカの目が細くなる。
「簡単な野盗討伐で終わりじゃなかったらしい」
「何があった?」
リュカは報告書を机へ広げた。
――捕縛した野盗団の首領が、収容所の鉄枷を素手で破壊。
――看守二名を負傷させ、逃亡。
――収容時の検査では、精霊との契約なし。精霊術を行使できるだけのマナも認められず。
――逃亡時、精霊語の発声および紋章の使用なし。
「あの男が?」
ローディスは、森で対峙した大男を思い出した。
力はあった。だが、鉄を素手で引きちぎるほどではない。もしそんな力を持っていたなら、リュカに足を払われたまま怯えてはいなかったはずだ。
「捕まったあとで力を得た、ということか」
「精霊術ではないね」
セイルが報告書の一行を指で叩いた。
「精霊語も紋章もなく、そもそもマナがない。それで鉄枷を壊す超常現象を起こした」
「魔術だよ」
リュカの声から、昼間の柔らかさが消えていた。
報告書には続きがあった。
同じ房に入れられていた囚人は、逃亡の直前、首領が誰もいない暗がりへ向かって話していたと証言している。
声は一つしか聞こえなかった。
それでも首領は、誰かから問いかけられているように何度も頷いていた。
最後に、こう答えたという。
――力が欲しい。俺を馬鹿にした奴らを、全員殺せる力が。
「声も聞こえない。姿もない。契約の言葉すら必要ない」
セイルの表情から、報酬を受け取った喜びが消えていた。
「それで力だけを渡せる相手がいるのか」
「いる」
リュカは短く答えた。
「人の欲しがる言葉を、耳より近いところへ囁ける奴が」
報告書の末尾には、新たな任務が記されていた。
――逃亡者を追跡し、その力を与えた者を特定せよ。
小型ゴーレムは任務が受領されたことを確かめるように一度だけ頭を下げ、無言のまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残された三人の間で、報告書の最後の一文だけが、夜の闇より黒く見えた。




