第2話 精霊との約束
翌朝、ローディスは鐘の音で目を覚ました。
一度目の鐘ではない。
二度目でもない。
授業開始まで四半刻しかないことを告げる、三度目の鐘だった。
「まずい」
寝台から跳ね起きた瞬間、昨夜酷使した身体が軋んだ。
野盗八人を西門まで運び、引き渡しの手続きを終え、兵学府の寮へ戻ったのは日付が変わる頃だった。夜食には間に合わなかったので、厨房から堅パンを譲ってもらい、食べ終えたところまでは覚えている。
制服へ着替え、大剣を置き、教本だけを抱えて廊下を駆ける。
教室へ滑り込むと、最後列の席からリュカが小さく手を振った。
「おはよう、ローディス。よく眠れた?」
「足りん」
「奇遇だね。僕もだよ」
その割に、リュカはいつもと変わらぬ涼しい顔をしている。
隣の席では、セイルが机へ頬杖をついていた。目の下に薄い隈がある。
「報酬が出るのは五日後だそうだ」
「朝一番に話すことがそれか」
「大事なことだろう」
「おはようくらい言ったら?」
「報酬が出たらね」
ローディスが席へ着くのと、教室の扉が開くのは同時だった。
マレーネ・ハルトマン教員が、分厚い本を片手に入ってくる。
三十代半ばほどの女性で、灰色の髪を隙なく結い上げ、細い銀縁の眼鏡をかけている。精霊史と精霊術理論の担当であり、授業中の私語を聞き逃したことがないという、風の精霊より優れた耳の持ち主だった。
「ベルグ」
教卓へ本を置く前に名を呼ばれた。
「はい」
「あと三呼吸遅ければ欠席扱いでした」
「間に合ってよかったです」
「その前向きさを、余裕ある登校へ応用しなさい」
教室に小さな笑いが広がる。
マレーネが眼鏡の位置を直すと、音はぴたりと止んだ。
「今日は精霊と契約の歴史、そして精霊術の応用について扱います」
教卓脇の黒板に、白墨で九つの円が描かれる。
火、水、土、金、木、風、雷、光、命。
「これは、現在までに人族との契約が確認されている属性です」
マレーネは、九つの円を順に白墨で示した。
「火は熱と燃焼、水は液体、土は大地や石、金は金属、木は植物、風は空気の流れ、雷は放電、光は光そのもの、命は生物の肉体へ働きかけます。ただし、これは人族が契約を成立させ、区別できた範囲にすぎません。精霊の属性が、この九つですべてだと証明されたわけではありません」
「精霊は、この世界の至るところに存在します。炎が燃えるから火の精霊が生まれるのか。火の精霊がいるから炎が燃えるのか。この問いには、今も明確な答えがありません」
マレーネは九つの円を大きな一つの円で囲った。
「通常の人族に、精霊の姿は見えず、その声も聞こえません。意思は希薄ですが、意思がないわけではない。そして、確認されている九属性に限らず、あらゆる精霊を統べる唯一の存在が精霊王です」
前列で手が上がった。
赤茶色の髪を短く切った少女、ニナ・フェルナーだ。座学の成績は上位だが、分からないことがあると最後まで食い下がるため、授業が延びる原因としても上位に数えられている。
「先生。精霊が見えなくて、声も聞こえないなら、昔の人はどうやって存在を知ったんですか?」
「よい質問です。始まりには、一人だけ例外がいたからです」
マレーネは黒板の中央へ一人の名を書いた。
――エルヴィン・ノア。
「後世において、精霊学祖と呼ばれる人物です」
人族がいくつもの国家へ分かれるより、はるか昔。
エルヴィンは、生まれながらにしてあらゆる属性の精霊を目視し、その言葉を聞くことができたという。
火に群がる声。川を押し流す声。土の下で眠る声。金属に響く声。草木に巡る声。空を渡る声。雷鳴に弾ける声。陽光に踊る声。そして、生き物の内側に寄り添う声。
誰にも見えず、誰にも聞こえない存在と語る彼を、人々は最初、嘘つきか狂人だと考えた。
「まあ、そうなるよね」
リュカが小声で言った。
「俺なら信じるぞ」
「君はもう精霊を知っているからだよ」セイルが目を閉じたまま返す。「何も知らずに、焚き火が話しかけてきたと言われてみろ。水を飲ませて寝かせる」
「その私語の続きを、前へ出て皆に聞かせますか?」
マレーネの声が飛んできた。
「遠慮します」とセイル。
「では目を開けなさい」
「もっとも、それは当時の話です。長い年月を経た現在、エルヴィン・ノアの血は各地へ広がっています。その末裔の中には、意識を傾けることで精霊の姿を捉え、声を聞ける者が少なからず存在します」
「その人たちは、精霊語を習わなくても話せるんですか?」
ニナが尋ねた。
「いいえ。声が聞こえることと、その意味を理解することは別です。精霊語を学ばなければ、呼びかけられていると分かっても、何を告げられているのかまでは理解できません。また、この資質を持つ者も、意識を向けていない間は通常の人族と変わりません」
マレーネは黒板に書いたエルヴィンの名を指した。
「エルヴィンの功績は、精霊の声を聞いたことだけではありません。各地を巡って同じ音を何度も確かめ、その意味を人族の言葉へ置き換えた。そうして初めて、他の人族も学べる言語として精霊語を体系化したのです」
やがて彼は通常の精霊たちを通じて精霊王へ呼びかけ、その御前へ至った。
「そこでエルヴィンは、精霊王と人族全体との間に、ある取り決めを結びます。これを現在、原初契約と呼びます」
マレーネは黒板へ二つの条文を書いた。
一つ。
人族は、精霊語を用いることで、個人と各属性の精霊との間に契約を試みることができる。
二つ。
精霊から承認を得た者は、以後、自らのマナを対価として、その精霊の力を借りることができる。
「大切なのは、契約を試みる権利と、契約の成立は別だということです。精霊語を正しく話せても、断られることはある。契約後も、命令して従わせるわけではありません」
教室の後方で、ローディスはそっとセイルへ顔を寄せた。
「精霊にも好みがあるのか」
「あるよ。君だって誰とでも友達になるわけじゃないだろう」
「俺は頼まれれば、たいていなるぞ」
「君を精霊一般の見本にするのは無理があるな」
「クローデン」
「先生の耳は本当に精霊以上だ」
「廊下で続きを話したいようですね」
「以後、慎みます」
マレーネはため息をつき、教卓の上へ透明な杯を置いた。中には何も入っていない。
「契約者が願いを伝え、マナを渡し、精霊が自然へ干渉する。これが精霊術の基本です」
マレーネは、先ほど書いた二つの条文の下へ、さらに二つの言葉を並べた。
――発声式。
――紋章式。
「契約後、実際に精霊術を発動する方法は二つあります。今から見せるのが、精霊語を声に出し、契約精霊へ願いを直接伝える発声式です」
彼女が短い精霊語を発した。
空だった杯の底に水滴が生まれる。水滴は次々と集まり、やがて杯の半分まで満ちた。
「そして、もう一つ」
マレーネは白墨を持ち、教卓の上へ小さな円と幾何学的な線を描いた。線の一つ一つが、先ほど彼女の口から発せられた精霊語の音と意味に対応している。
最後の線が閉じ、紋章となった瞬間、淡い赤色の光が走った。
杯の水から、細い湯気が立ち昇る。
「精霊語を紋章の形へ置き換え、そこへマナを通して願いを伝える。これが紋章式です。声を発するか、紋章によって伝えるか。方法は違っても、超常現象を起こすのは術者ではなく、願いを受け取った精霊です」
ニナが机の上で紋章の形を指になぞった。
「紋章なら、精霊語を話せなくても使えますか?」
「いいえ。形だけを写しても、それがどのような願いを示すか理解していなければ、精霊へ正しく伝わりません。発声式にも紋章式にも、精霊語の習得が必要です」
「契約していない人が、紋章だけ描いた場合は?」
「誰もその願いを受け取りません。契約は扉を開くもの。発声と紋章は、開いた扉の向こうへ言葉を届ける方法だと考えなさい」
マレーネは水の入った杯を持ち上げた。
「水を集める。これが基礎術。では、応用とは何でしょう。フェルナー」
「集めた水を刃や盾の形に変えることです」
「正解です。それも応用の一つ。形、量、速さ、範囲、持続時間。基本となる自然干渉へ複数の条件を与えるほど、精密な精霊語と多くのマナが必要になります」
ニナが再び手を上げた。
「昨日、セイルが作った空中の氷床は?」
教室中の視線が後方へ集まった。
セイルは露骨に嫌そうな顔をした。
「いい例です。本人に説明してもらいましょう」
「拒否権は?」
「精霊との契約にはあります。授業にはありません」
笑い声に追われ、セイルは立ち上がった。
「水の精霊に空気中の水を集めてもらい、火の精霊にそこから熱を退かせる。凍ったあと、板状に保つ。あとはローディスが踏み抜かない厚さと場所を計算して、必要な瞬間に作るだけです」
「だけって……」
ニナが呆れた声を漏らす。
「複数の精霊への依頼を並行し、別々の自然干渉を一つの結果へ結びつける。複合応用の模範例です。ただし――」
マレーネは水の杯を掲げた。
「同じ水と火の契約者でも、全員が氷を作れるとは限りません。契約した精霊の性質、術者のマナ量、精霊語の習熟、現象への理解。そのすべてが術の限界を決めます」
「つまり、契約できれば何でもできるわけじゃない?」とニナ。
「そのとおり。精霊術は奇跡ではなく、対話と技術です」
マレーネは杯を教卓へ戻した。
「さて。エルヴィンは精霊語と原初契約を人族へ広めました。それまで懐疑の目を向けられていた精霊は、誰もが同じ手順で契約を試み、条件を満たせば同じ現象を起こせる存在として証明されたのです」
精霊の力は、暮らしを変えた。
水のない土地へ水を運び、火を安定して起こし、固い地面を耕し、金属を加工し、作物の成長を助け、風で船を進め、雷を操り、光で夜道を照らし、命の精霊によって傷の治りを助けた。
人族は飢えや寒さを退け、より広い土地へ住み、数を増やした。
「この成果により、人族は精霊と対話し、世界の調和へ関与し得る種族だと認められました。それが後に、人の王が精霊王、竜王との三王定衡会へ参加するきっかけとなります」
マレーネは九つの円の横へ、三つの王冠を描いた。
「では、めでたしめでたしですね」
セイルが言った。
皮肉な声音だった。
「そう思いますか、クローデン」
「いいえ。先生が残り半刻もあるのに授業を終えるはずがない」
マレーネは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
三つの王冠の下へ、何本もの境界線を引く。
「精霊術によって人族の生活力は飛躍的に高まりました。同時に、戦闘力もです」
火は暖炉だけでなく、人を焼いた。
水は畑を潤すだけでなく、城壁を押し流した。
土は家を築くだけでなく、敵兵を埋めた。
風は帆を進めるだけでなく、矢より鋭く肉を裂いた。
豊かになった人族は増え、広がり、異なる土地と考えを持つ集団へ分かれた。集団はやがて国を名乗り、土地と水と資源を巡って争い始めた。
繁栄は、分裂を生んだ。
分裂は、戦争を生んだ。
「三王定衡会から人の王が失われた理由については、次の授業で扱います。ただ、一つだけ覚えておきなさい」
教室は静まり返っていた。
「精霊術が人族を争わせたのではありません。精霊術をどう使うか、人族が選んだのです」
ローディスは自分の手を見た。
昨日、その手で大剣を振るい、土の竜を砕いた。夜には同じ力で野盗を殴り倒した。
守るための力と、傷つけるための力。
握る手は、どちらも同じだった。
「先生」
ニナが、今度は手を上げずに口を開いた。
「エルヴィンは、後悔したんでしょうか」
マレーネはすぐには答えなかった。
「記録には残っていません。彼の晩年について確かな史料は少ない。ただし、彼が最後まで精霊語を教えることをやめなかったのは事実です」
「では、後悔していなかった?」
「それを判断するのは、歴史家ではなく、彼を物語にする者の仕事でしょう」
終業の鐘が鳴った。
マレーネは黒板へ向き直ると、エルヴィンの名の下に一文を書き加えた。
――力は、選択を増やす。
「次回までの課題です。精霊術が人族にもたらしたものを、恩恵と災禍の両面から論じなさい。三枚以上」
静寂が、今度は別の意味で教室を満たした。
「先生」
ローディスは思わず手を上げた。
「何です、ベルグ」
「三枚というのは、紙三枚ですか」
「ほかに何があると思ったのです」
「三行であれば、歴史に感謝できたのですが」
教室が爆笑に包まれた。
「四枚に増やされたいようですね」
「三枚で精一杯、感謝します」
ローディスが頭を下げる横で、セイルは早くも白紙を差し出してきた。
「銀貨一枚で構成を考えよう」
「友人から金を取るのか」
「友人価格だ」
「僕なら半枚でいいよ」
リュカが微笑んだ。
「紙を半分に破るのは駄目だからな」
「ローディス。まず課題の意味から一緒に考えようか」
いつもの三人の声が、教室のざわめきへ溶けていく。
黒板の上では、九つの円と三つの王冠が、白い境界線によって分かたれていた。




