第1話 昼の優等生、夜の狩人
世界は、精霊に満ちている。
火、水、土、金、木、風、雷、光、命。
現在までに人族との契約が確認されているだけでも、精霊には九つの属性がある。彼らは人の目には映らずとも、炎の揺らぎに、水の流れに、大地や金属、草木に、空を渡る風や雷光に、そして生き物の内側に息づいている。
生まれつき多くのマナを宿す人間は、そんな精霊と契約し、力を借りることができた。それが精霊術だ。
そして今、人族は精霊術と剣を手に、〈黒淵〉の彼方から現れた魔族と戦っている。
ゆえにヴァルグレン帝国の兵士を育てる帝立アストラ兵学府では、机上の点数と同じくらい――時には、それ以上に――戦う力がものを言った。
「最終組、前へ!」
教官の声が、石造りの演習場に響き渡る。
ローディス・ベルグは背負っていた大剣を抜き、肩の上へ担いだ。十七歳にして成人兵にも見劣りしない長身と、制服越しにも分かる厚い肩を持つ少年だ。短く刈った焦茶色の髪の下には、飾り気のない実直そうな顔がある。分厚い刀身が陽光を鈍く返した。
隣ではセイル・クローデンが、いかにも面倒そうな顔で杖を回していた。ローディスと同じ十七歳で背丈も近いが、こちらは肩も指も細い。淡い灰褐色の髪が端正な顔へかかり、気怠げに細めた青灰色の目が演習場を眺めている。
「昼食前に終わらせたいね」
「同感だ。腹が減った」
「君の同感は、たいてい食事か筋肉にしか向かないな」
軽口を交わしながら、二人は演習場の中央へ進む。
向かいに立つのは、土と岩で造られた巨大な竜だった。
本物の竜ではない。教官たちが土の精霊術で組み上げた実戦訓練用ゴーレムである。それでも、四本の脚で見下ろす姿は二階建ての建物ほどもあり、石の牙も、柱のような尾も、当たれば学生の骨など簡単に砕くだろう。
これは一年生が受ける基礎実技の総合査定だった。
一年の授業では、武器の扱い、回避、精霊術の発動、仲間との連携を個別に学ぶ。査定では、それらを予告されない状況で組み合わせられるかを試される。
竜の姿をしていても、本物の竜の力を再現しているわけではない。動作と攻撃範囲は一年生向けに制限され、周囲の教官がゴーレムと受験者の双方を監視している。巨大な姿と多方向からの攻撃で平静を失わず、二人で核まで辿り着けるか。それが試験の目的だった。
胸の奥には赤い核が埋め込まれている。制限時間内にそれを破壊すれば合格。二人のうちどちらかが行動不能と判定されれば失格だ。
「始め!」
竜の顎が開いた。
咆哮の代わりに石礫が吐き出される。
ローディスは大剣の腹を盾にした。拳大の石が立て続けにぶつかり、腕まで痺れる。視界の端では、セイルが滑るように横へ移動していた。その足元を薄い氷が伸びている。
「右脚!」
声と同時に、竜の右前脚の下が白く凍った。
踏み出した巨体がわずかに傾く。
ローディスは駆け込んだ。大剣を横薙ぎに振り抜き、岩の関節を砕く。だが、竜は倒れない。残る三脚で踏ん張ると、長い尾を鞭のように旋回させた。
「ローディス、上だ!」
避けるには遅い。
ならば、前へ出る。
ローディスは地を蹴り、迫る尾へ自ら跳び乗った。激しい揺れに靴底が滑る。大剣を突き立てて身体を支え、そのまま尾から背へと駆け上がった。
竜が翼を広げる。
岩同士が噛み合う音を立て、巨体が浮いた。
「ゴーレムが飛ぶなんて聞いてないぞ!」
「実戦の竜は飛ぶんだ。親切な試験だろう?」
「なら、先に教えてくれ!」
「僕も今知った!」
竜が身体を大きくひねった。
ローディスの大剣が抜け、足が背を離れる。眼下で、演習場の床が急速に遠ざかった。
落ちる。
そう思った瞬間、右足が硬いものを踏んだ。
何もない空中に、透き通った氷の板が浮いている。
「三歩だ、ローディス!」
地上でセイルが杖を掲げていた。額には汗が浮かび、杖の先から白い冷気が立ち上っている。
空中にもう一枚、さらにもう一枚。階段のように氷床が生まれる。
ローディスは笑った。
「十分だ!」
一枚目を蹴る。
氷が割れるより早く二枚目へ。二枚目から三枚目へ。竜の頭上まで駆け上がり、最後の床を全力で踏み切った。
落下の勢いを乗せ、大剣を両手で振り下ろす。
刀身は竜の首元を砕き、そのまま胸へ深々と食い込んだ。
赤い核に亀裂が走る。
次の瞬間、巨竜は無数の土塊となって演習場へ崩れ落ちた。
土煙の中、ローディスは膝をついて着地する。遅れて、真っ二つになった核が足元へ転がった。
一拍の静寂。
「合格!」
教官の宣言に、見学していた学生たちから歓声が上がった。
「ローディス!」
誰より大きな声を上げたのは、観客の列から飛び出してきた小柄な少年だった。
リュカ・エアハルト。十六歳。華奢な身体に柔らかな亜麻色の髪、淡い緑の大きな目を持ち、学院の制服を着ていなければ少女と見間違われてもおかしくない顔立ちをしている。
その整った顔を感激に輝かせて両腕を広げると、ローディスの手を取ってぶんぶんと振った。
「すごい、すごすぎるよ! 空を駆け、大地の竜を一撃で葬るなんて! 千年後には今日が帝国の祝日になってるかもしれない!」
「それは大げさだ」
「セイルも! 空中に氷の道を作るなんて、もはや精霊術の歴史が今日を境に二つに分かれたよ! セイル以前とセイル以後だ!」
「分けなくていい。研究者が迷惑する」
セイルは冷たく返したが、口元はわずかに緩んでいた。
「二人なら本物の竜だって倒せそうだね。いやあ、僕は幸運だなあ。こんな英雄二人と友達だなんて」
「お前も次の実技では同じ台詞を言わせてみろ」
ローディスが肩を叩くと、リュカは困ったように笑った。
「僕は短剣を落とさずに終えるところからかな」
細い腕。小さな身体。実技の成績も、目立ってよくはない。
少なくとも、この場にいる学生たちは皆、そう思っている。
リュカは周囲をさりげなく見回した。二人を祝う学生、砕けたゴーレムを片づけ始める教官。誰の耳もこちらへ向いていないことを確かめる。
その笑みが消えた。
「今夜、任務が入った」
声も変わる。浮ついた響きが一片もない。
「西門の外。街道を荒らしてる野盗が八人。日が沈んだら、いつもの場所に集合」
「報酬は?」とセイル。
「生け捕りなら一人につき銀貨三枚。首領は倍」
「全員、生け捕りにしよう」
セイルが即座に言った。
「急にやる気になったな」
「僕は常に勤勉だよ。正当な対価が示されている限りは」
ローディスは大剣を背へ戻した。
「八人か。夕食までには戻れるな」
「夕食のあとだよ」
「では、夜食までだ」
リュカは呆れたように息を吐いた。その顔にはもう、先ほどまでの愛想のいい落第生はいなかった。
◇
月が雲へ隠れるのを待ち、三つの影が森を走った。
昼の制服はない。黒い外套の下に武器を隠し、顔には目元だけを覗かせる布を巻いている。
彼らは帝立アストラ兵学府の学生である。
同時に、世に知られていない組織――宵衛の一員でもあった。
街道脇の廃屋には、報告どおり八人の野盗がいた。奪った荷箱を囲み、酒を飲んでいる。見張りは一人。弓を持ってはいるが、半分眠っていた。
茂みの中で、リュカが指を三本立てる。
三、二、一。
セイルの杖が地面へ触れた。
音もなく這った氷が、見張りの足元を覆う。男は悲鳴を上げる暇もなく転倒した。
「何だ!」
廃屋から男たちが飛び出す。
ローディスは外套を脱ぎ捨て、正面から突っ込んだ。
大剣は抜かない。鞘に収めたまま横へ振り、先頭の男を二人まとめて薙ぎ倒す。横から斧が迫ると、柄で受け、頭突きを返した。
「三人」
セイルが淡々と数える。
杖の先から細い氷が弾け、別の男の手首へ絡みついた。剣が地面に落ちる。その足元まで凍らせ、動きを封じる。
「四人」
「化け物どもめ!」
首領らしき大男が怒鳴った。
その背後で、二人の野盗が森へ逃げ出す。
リュカが地面を蹴った。
小さな身体が、視界から消える。
次に姿を現したときには、一人目の懐へ潜り込んでいた。低い蹴りが膝裏を刈り、男が宙へ浮く。倒れるのを待たず、リュカは幹を蹴って方向を変えた。
二人目が振り返る。
その顎へ、踵が突き上がった。
二人の野盗がほとんど同時に地面へ沈む。
「六人」
昼間、短剣を落とさずに終えるところからだと笑っていた少年の動きではなかった。
大男の顔から血の気が引く。
「ま、待て。金ならやる」
「それはもともと、あなたたちの金じゃない」
リュカが歩み寄る。声音は静かだった。
首領は隠し持っていた短剣を抜き、その胸へ突き出した。
リュカは半歩だけ身をずらした。手首を取り、ひねり上げ、足を払う。巨体が仰向けに倒れたところへ踵を落とし――鼻先すれすれで止めた。
「生け捕りは、銀貨が倍なんだって」
その横を、最後の一人が駆け抜けた。
ローディスは足を引っかけて転ばせると、背中へ片膝を置いた。
「八人」
戦いが始まってから、わずかな時間しか経っていなかった。
セイルが氷で野盗たちの手を拘束して回る。ローディスは奪われた荷を確認し、リュカは森の闇へ目を凝らした。
「報告どおり、ただの野盗みたいだ」
「魔族との契約者ではなかったか」
「うん。今回はね」
リュカはようやく踵を下ろし、首領の腕を背へ回して縛った。
「簡単な仕事でよかったよ。二人とも、昼にあれだけ派手に暴れたあとだし」
「派手に暴れたのはローディスだ。僕は繊細な術を使った」
「その繊細な術で七人凍っているぞ」
「壊さず捕らえた。実に繊細だ」
ローディスは笑い、縛り上げた野盗を一人担ぎ上げた。
「帰るぞ。夜食が待っている」
「報酬の受け取りが先だ」
セイルが訂正する。
「尋問と引き渡しも先だよ」
リュカがさらに付け足した。
三人はそれぞれの理由で帰路を急いだ。
昼には、帝国の未来を担う学生。
夜には、名も顔も持たぬ狩人。
それが彼らの日常だった。




