第35話 どちらが強い
長期休暇が明けて二日目。
帝立アストラ兵学府、一年生の合同学級。
「部隊が退却中、精霊術師へ敵が迫った。前衛は負傷し、残る戦力は一人ずつ。近接戦闘を専門とする兵士と、精霊術師。どちらを護衛へ残すべきか」
教卓に立つ男が、黒板へ二つの駒を置いた。
戦術基礎を担当するヴィルヘルム・ザイツ教員は、五十代半ばの痩せた男だった。白髪交じりの黒髪を短く整え、制服の左袖だけが肘の下から平らに畳まれている。かつて帝国軍で左腕を失い、今は細い指示棒でいくつもの戦場を黒板に作る人物だ。
「条件が足りません」
真っ先に手を挙げたのはニナだった。
「敵の数と距離、精霊術師の属性、残っているマナ、護衛対象の負傷状態が分かりません」
「そのとおり。では、敵は武器を持った人族が三人。距離は百歩。精霊術師は水属性と契約し、マナは半分。護衛対象は自力で歩けるものとする」
黒板へ条件が書き足される。
「精霊術師を残すべきです」
ニナが答えた。
「百歩あれば、空気中の水を集めて足を止められます。倒せなくても、退却する時間は稼げます」
「三人を止められる量が集まるまで、待ってくれるならな」
トビアスが口を挟んだ。
「百歩も離れているなら、間に合うでしょう」
「道が乾いていて、風まで強かったら?」
「条件を勝手に増やさないで」
「戦場なら増える。俺なら槍兵を残す」
「なぜ槍に限定するの?」
「剣より間合いが長いからだ」
「自分が槍を使うからでしょう」
「それもある」
教室に笑いが起きた。
ザイツは止めず、指示棒の先を別の生徒へ向けた。
「ベルグ」
「近接兵です」
ローディスは答えた。
「理由は」
「精霊術師が術へ集中する時間を作れます」
「質問と違うよ」
隣でセイルが言った。
「残せるのは一人だ。君の答えだと、もう一人精霊術師が必要になる」
「なら、精霊術師を逃がすために近接兵を残す」
「自分が残る前提じゃないか」
「得意な方を選んだだけだ」
「トビアスと同じことを、少し立派に言ったね」
今度は笑いが大きくなった。
「クローデン。お前ならどちらを残す」
「精霊術師です」
セイルは迷わなかった。
「百歩の距離を保てるなら、三人を相手にする必要はありません。道を凍らせる、視界を遮る、足元を崩す。護衛対象と一緒に逃げればいい」
「敵に精霊術師がいた場合は」
「先に杖を壊します」
ヘルマンの授業で聞いた答えに、数人が頷いた。
「では、敵がすでに十歩まで近づいている場合は」
「……近接兵です」
答えるまで、僅かに間があった。
セイルの脳裏には、紋章板へ指を掛けるより早く懐へ入ってきたリュカの姿が浮かんでいた。
「十歩もあれば術を使えるだろ」
教室の後方から声が上がった。
「発声式なら一語目を言っている間に斬られる」
「紋章式がある」
「杖を構えるより剣の方が速い」
「だから近づかれる前に倒すんだ」
あちこちで声が重なる。
それまで頬杖をついていたリュカが、楽しそうに顔を上げた。
「いやあ、すごいね。百歩先から敵を封じる精霊術師と、十歩以内なら術を使う暇も与えない武技の達人。帝国が世界最強になる日も近いよ」
「お前はどちらだ、エアハルト」
ザイツに問われ、リュカは困った顔を作った。
「どちらも怖いので、間に立たないようにします」
「戦場では、立つ場所を選べないこともある」
「では、強そうな方の後ろへ立ちます」
「その強そうな方を聞いている」
「難しい質問ですね」
答える気がない。
ザイツは指示棒で教卓を一度叩いた。
「お前たちが今争っているのは、こちらが与えた条件の中で、どちらが役に立つかだ。精霊術師と武技兵のどちらが常に強いかではない」
教室が静まる。
「地形、距離、人数、装備、属性、残存マナ、守る対象。条件が一つ変われば答えも変わる。戦術とは、自分に都合のよい条件で強さを比べることではない」
指示棒が、黒板の二つの駒をまとめて囲んだ。
「異なる兵を、同じ目的へ動かすために学ぶものだ」
終業の鐘が鳴る。
「本日はここまで。午後は専攻別実技だ。精霊術専攻は東演習場、武技専攻は西演習場へ移動しろ」
生徒たちが立ち上がった。
授業は終わった。
論争は終わらなかった。
◇
兵学府の授業は、全員が同じ教室で学ぶ合同授業と、適性に応じて分かれる二つの実技授業から成る。
精霊術授業では、発声式と紋章式、属性ごとの制御、複数の術者による連携を学ぶ。
武技授業では、剣、槍、格闘を中心に、弓を含む武器ごとの扱いと接近戦を学ぶ。
ローディスとリュカは西へ。
セイルとニナは東へ。
トビアスとエルザも武技専攻だが、槍と弓の分班へ向かう。
二つの演習場を隔てるのは、腰ほどの石壁だけだった。
普段なら、隣の授業を気にする者はいない。
今日に限っては、違った。
「前へ出ろ、ベルグ」
ヘルマン・クルーガーが木剣を肩へ担いだ。
背は低いが、横幅はローディスにも劣らない。制服の袖から出た前腕は太く、右眉から頬へ走る古傷が、目を細めると一緒に歪んだ。
「構えた相手を、三手以内に崩せ」
ローディスの前には、二年生の男子生徒が立っていた。
長い赤毛を革紐で束ねた、ローディスより半頭ほど背の高い青年だ。片手剣と小盾を構え、半身を隠している。
「二年、アルノー・ケストナーだ」
「一年、ローディス・ベルグです」
「知ってる。ゴーレム竜の胸を割った一年だろ」
アルノーは白い歯を見せた。
「力だけで盾を割るなよ。備品だ」
「気をつけます」
「始め!」
ローディスが踏み込む。
一撃目。
大剣を模した重い木剣が、小盾の中央へ吸い込まれた。
アルノーは正面から受けず、盾を斜めにして流す。
二撃目。
返した刃を片手剣が受けた。
三撃目。
ローディスは木剣を振らなかった。
一歩踏み込み、肩で盾を押す。
アルノーの重心が後ろへ動いた瞬間、足を掛けた。
長身が背中から砂地へ落ちる。
ローディスの木剣は、その喉元で止まっていた。
「三手だ」
ヘルマンが告げる。
西演習場から歓声が上がった。
アルノーは砂の上で瞬きをしたあと、声を上げて笑った。
「盾は無事だな。俺の背中は知らんが」
ローディスが手を差し出す。
「大丈夫ですか」
「聞く前に引き起こせ」
腕を掴み、立たせる。
そのとき、石壁の向こうから水音が響いた。
東演習場で、宙に浮いた六つの水球が一斉に形を変える。
先端を丸めた水の矢。
六本すべてが異なる軌道を描き、並べられた六体の標的へ同時に当たった。
胸に描かれた円だけが、青く濡れる。
術を放ったのは、三年生の女子生徒だった。
フリーダ・ライヒ。背筋を真っ直ぐ伸ばした長身に、濃紺の髪を腰まで編み下ろしている。切れ長の琥珀色の目は六つの標的ではなく、石壁のこちら側を見ていた。
「三手も必要ありませんね」
澄んだ声が、二つの演習場へ届く。
「届く距離なら、一度で終わります」
東演習場から拍手が起きた。
「止まっている的ならな」
アルノーが制服の砂を払いながら返した。
「動いても当てられます」
「盾で防げる」
「六方向すべてを?」
「近づけば撃たせない」
「近づければ、でしょう」
腰壁を挟んで、生徒たちが向き合う。
ヘルマンは太い腕を組んだ。
「隣の授業へ口を出す余裕があるなら、ライヒの標的を走らせろ。ケストナー、お前はもう一度ベルグと組め」
「先生は、どちらが強いと思いますか」
誰かが尋ねた。
「質問が雑だ」
ヘルマンは即答した。
「目の前に精霊術師が立っているなら、杖を折って殴ればいい」
西側から笑いと歓声が上がる。
「そこまで近づける腕があるなら、ですが」
東演習場の教員が言った。
クララ・ヴェント。
三十歳ほどの細身の女性で、淡い水色の髪を顎の高さで切り揃えている。右目を覆う片眼鏡には紋章の細線が刻まれ、その脇で銀の小杖を指先に挟んでいた。
「精霊術師が近接戦闘を学んでいないと思わないことです」
「武技兵が精霊術への対処を学んでいないとも思うな」
二人の教員が腰壁越しに視線を合わせる。
リュカがローディスの隣へ寄った。
「先生たちまで始めたね」
「ザイツ教員の話を聞いていなかったのか」
「聞いたうえで、自分なら勝てると思ってるんじゃない?」
リュカは実に楽しそうだった。
◇
昼を過ぎる頃には、話は二つの演習場だけのものではなくなっていた。
一年生が食堂へ持ち込んだ。
二年生が過去の合同演習を持ち出した。
三年生は、軍部隊への短期配属で見た実例を語った。
食堂の長机は、いつの間にか精霊術側と武技側に分かれていた。
「去年の城壁演習では、土の精霊術師が門を塞いで勝った」
「その術師を守ったのは盾兵だ」
「護衛が必要な時点で、単独では弱いってことだろ」
「武器も鎧も鍛冶師が作らなければ、武技兵は素手じゃない」
「素手でも戦える」
「火を浴びても?」
話題は、もはや朝の設問から遠く離れていた。
ローディスは武技側の机に座っていた。
向かい側にはセイルがいる。
二人の間には、湯気の立つ豆の煮込みと、越えがたい陣営の境があった。
「セイル」
「何だい」
「お前は、俺より自分の方が強いと思っているのか」
「条件による」
「今、この食堂なら」
セイルは周囲を見た。
「杖は部屋に置いてきた。君の大剣もない」
「なら、素手だ」
「食事中に殴り合うつもり?」
「比べるだけだ」
「素手なら君だよ。それを認める代わりに、互いの武器を持って百歩離れようか」
「百歩先から始めれば、お前だろう」
「理解が早くて助かる」
「では、五十歩なら」
「その中間とは限らない」
ローディスは難しい顔で煮込みを食べた。
隣ではリュカが、どちらの机にも属さないよう椅子を境目へ置いている。
「僕は感動しているよ」
椀を両手で持ち、深く頷く。
「ローディスは十歩以内なら誰にも術を使わせない。セイルは百歩先から近づくことすら許さない。この二人が組めば、十歩から百歩まで完全無敵だ」
「十歩より近いところと、百歩より遠いところは?」
エルザが尋ねた。
「そこは今後の課題かな」
「隙が多いね」
「伸びしろと言ってほしい」
リュカが微笑む。
「エアハルトは、どちら側なんだ」
アルノーが尋ねた。
「応援する側です」
「戦えない方か」
「傷ついた」
胸を押さえるリュカの横で、ローディスとセイルは同時に食事の手を止めた。
だが、リュカが先に二人の膝を机の下で蹴る。
軽い接触だった。
余計なことを言うな、という合図だけは十分に伝わった。
「決めればいいんじゃないですか」
フリーダが言った。
精霊術側の長机が静まる。
「何をです?」
ニナが尋ねる。
「どちらが強いのか。精霊術と武技、それぞれ代表を出して戦えば、少なくとも口だけではなくなります」
「面白い」
アルノーが立ち上がった。
「負けた側は一月、勝った側の演習場を掃除する」
「個人戦では、属性や相性で終わります」
「なら団体戦だ」
「壊した備品も負けた側が払う?」
セイルが尋ねた。
「なぜ最初にそこを気にする」
ローディスが言う。
食堂の扉が開いた。
「それは、私もぜひ見てみたいですね!」
よく通る声が、三百人近い生徒のざわめきを越えた。
オルフェン・グランツ学園長が、扉の前で両腕を広げていた。
襟の高い黒衣が首元までを覆い、両手には黒い手袋。顔は表情のない仮面に隠され、肌はどこにも見えない。手袋の上には赤、青、緑、乳白色の宝石を嵌めた指輪が並び、昼の食堂には似つかわしくないほど煌びやかだった。
「学園長」
近くにいた生徒たちが立ち上がる。
「食事中です。座って、よく噛んでください。強さを比べる前に豆を喉へ詰まらせては、医務室の笑い話になります」
緊張しかけた空気が緩む。
オルフェンは長机の間を歩いた。
「精霊術師と、それ以外。どちらが強いか」
「武技です」
「精霊術です」
左右から声が上がる。
「なるほど。素晴らしい自信だ。教師まで参加していると聞きましたが」
食堂の入口では、追いついてきたヘルマンとクララが互いに視線を逸らしていた。
「では、実際に確かめましょう」
食堂が静まり返る。
「ただし、普通に戦わせれば怪我人が出ます。力を示す前に腕を失っては、ザイツ教員に叱られてしまう」
「私を理由にしないでいただきたい」
いつの間にかザイツも扉の脇へ立っていた。
「そこで、怪我をしても困らない身体を用意します」
誰も、すぐには意味を理解できなかった。
リュカだけが、仮面の奥を見た。
オルフェンの顔は見えない。
それでも、楽しんでいることだけは分かった。
「精霊術側と武技側から、それぞれ五名。学年は問いません。全校生徒の投票で、代表者を選びなさい」
ざわめきが戻る。
今度は先ほどまでより、はるかに大きかった。
「両陣営から五名ずつ。相手を全員退場させた側が勝利する、団体対抗競技を行います!」
オルフェンは、宝石だらけの両手を高く掲げた。
「これなら、どちらが強いか。きっと分かりやすい答えが出るでしょう?」




