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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第34話 いつもの席へ

 共同戦線から戻った翌日の夜。


 リュカは一人で、扉に印のない石造りの建物へ入った。


 空の倉庫を抜ける。


 床板の下に隠された階段を下りる。


 地下の小部屋には、今夜も灯りがなかった。


 階段から差し込む光は、部屋の中央へ届く前に闇へ沈んでいる。


 その奥から、声だけがした。


「来たか、リュカ」


 リュカは暗がりの手前で止まった。


「報告書は届いているでしょう?」


「届いているよ。先行調査隊の生存者三名を救助。死亡者三名の遺体も回収。護衛対象と試料を帝都まで無事に送り届けた」


「なら、僕は帰っていい?」


「紙には、君の顔が書かれていない」


「顔を見ても、報告は増えないよ」


「そうかな」


 暗がりの声は穏やかだった。


 姿は見えない。


 椅子に座っているのか、立っているのかも分からない。


「黒い群体は、君へ何と言った?」


 リュカの笑みが薄くなる。


「報告書に書いたとおりだよ」


「君の言葉で聞きたい」


 少しの沈黙。


「最初は、船を襲った魔物だった。何かを言いかけて、海へ落ちた」


 リュカは壁へ背を預けた。


「岩礁では、黒いものが人の声を使って話した。『お前の中にいる』『こちらのものが中にいる』。最後は、『こちらのものを返せ』」


「根の多くが、君へ向かった」


「見ていたみたいに言うね」


「報告書に書いてあった」


「僕の顔がなくても、十分詳しいじゃない」


 声の主は答えなかった。


「身体に変化は?」


「ない」


「痛み、熱、声が聞こえる、眠っている間の記憶が途切れる」


「どれもないよ」


「本当に?」


 リュカは右足の踵を、床へ軽く当てた。


「走れる。蹴れる。紋章も壊れていない。帰ってから、勝手に動いたこともない」


「そうか」


 短い返事だった。


 安堵したのか、まだ警戒しているのか。声だけでは読み取れない。


「あれは、僕の中にあるものを知っていたの?」


「知っていた、とは限らない」


「でも、感じてはいた」


「その可能性は高い」


 曖昧な答えに、リュカの目が細くなる。


「あの任務に僕を選んだのは、それを確かめるため?」


「違う」


 返答は速かった。


「護衛対象が三人組を必要とし、現地では戦闘が予想された。長期休暇中に動けるチームの中から、帰還率と連携を見て君たちを選んだ」


「僕を餌にするつもりはなかった?」


「知っていて君を試料の前へ出したなら、先に伝えている」


「組織の長なら、必要な犠牲だと言うこともできるでしょう」


「言うことはできる」


 暗がりの声が、僅かに低くなる。


「だが、しない。君を拾ったときに、君の身体を誰かの都合で使わせないと決めた」


 リュカは答えなかった。


 暗い部屋の中で、右足だけが床を二度叩く。


「ローディスとセイルは?」


「何も気づいていないよ」


「君が群体に狙われたことには気づいている」


「それ以上は話していない」


「二人を巻き込んだと思っているのかい?」


 今度は、リュカが黙る番だった。


 死骸をつないだ根の大半が、自分へ向きを変えた。


 セイルは、その根を凍らせた。


 ローディスは、試料を抱えた助手とリュカの間へ何度も立った。


「僕がいなければ、あれは二人を追わなかったかもしれない」


「君がいなければ、二人が岩礁から戻れなかった可能性もある」


「同じ話じゃない」


「同じ任務の話だよ」


 声の主は静かに続けた。


「危険を連れてきた者と、危険から守った者を、都合よく別々にはできない。今回の君は、その両方だった」


「慰めている?」


「報告を整理している」


「下手だね」


「君ほどではないさ」


 リュカの口元に、少しだけ笑みが戻った。


「黒いものについては調べる。君の身体との関係もね。ただし、次に同じ反応があれば、二人へ隠したまま戦うのは難しくなる」


「分かってる」


「本当に?」


「今度は僕が言う番だね」


 リュカは壁から背を離した。


「報告は終わり?」


「もう一つ。追加報酬の交渉は見事だったそうだ」


「それはセイルの功績だよ。僕は十五枚ずつ分けただけ」


「通常の依頼報酬も、確認が済み次第ゴーレムへ持たせる」


「それを最初に言えば、セイルも来たのに」


「彼は僕の素性を知らない」


「知ってるよ」


 リュカは扉へ向かった。


「冗談」


 暗がりから返事はない。


 扉へ手を掛けたところで、声に呼び止められた。


「リュカ」


「何?」


「三人で戻ってくれて、よかった」


 リュカは振り返らなかった。


「当然でしょう」


 扉を閉める。


 部屋には、再び何も見通せない暗闇だけが残った。


     ◇


 数日後。


 長期休暇が終わり、帝立アストラ兵学府の教室へ朝の鐘が響いた。


 ローディスが席へ着くと、机の上には新しい時間割が置かれていた。


 座学。


 剣術。


 精霊術実習。


 昼を挟み、最後は体力訓練。


「休暇明けの予定じゃない」


 セイルが隣から覗き込む。


「普段より多いな」


「休暇で鈍った身体を戻すため、だって」


 前の席からニナが振り返った。


 赤茶色の短髪は、休暇前より少しだけ短くなっている。


「鈍っていない人まで?」


「教員は、休暇中に何をしていたかまでは知らないもの」


 ニナの目が、三人の顔を順に見た。


「ところで、三人とも休暇中はどこにいたの?」


「帝都の外だ」


 ローディスは正直に答えた。


「それは見れば分かるよ」


 トビアスが横から割り込んでくる。


 日に焼けた腕を見せつけるように袖を捲っていた。


「休暇の初日から三人揃って見かけなかった。帰ってきたと思ったら、ローディスの外套は破れてるし、セイルの新しい杖には傷が増えてる」


「よく見てるね」


 リュカが感心したように言う。


「暇だったからな」


「悲しい休暇だ」


「俺は槍の自主訓練をしてたんだ!」


 トビアスが抗議する。


 エルザは自分の席へ座ったまま、眠たげな目をセイルの杖へ向けた。


「海へ行ったの?」


 セイルの指が止まる。


「どうしてそう思う」


「杖の金具に塩が残ってる。握りの隙間にも、細かい砂が入ってるから」


 教室に短い沈黙が落ちた。


「鋭いね」


 リュカが笑う。


「正解。海を見に行ったんだよ」


「三人で?」


「たくましいローディスと、美男子のセイルと、可愛い僕で」


「何だ、その説明は」


 ローディスが眉を寄せる。


「旅先で教わった、僕たちの分類」


「誰に?」


「歩くのが嫌いな女の人」


 ニナが首を傾げる。


「足が悪いの?」


「元気すぎるくらいだったよ」


「ますます分からない」


 リュカは楽しそうに笑った。


「海で何をしたんだ?」


 トビアスが尋ねる。


「荷物運び」


 ローディスが答えた。


「杖の試運転」


 セイルが続ける。


「大きな海鳥と追いかけっこ」


 リュカが言った。


 ローディスとセイルが、同時に彼を見る。


「海鳥?」


 トビアスが尋ねる。


「僕の荷物を狙ってきたんだ。逃げても逃げても追ってくるから、最後はセイルが杖で追い払ってくれた」


「そんなこともあったな」


 セイルは、飛行種の正体に触れず同意した。


「三人で海へ行って、思い出が荷物運びと海鳥なの?」


 エルザが言った。


「次は観光だけにしたいね」


 リュカが笑った。


 ニナはまだ納得していない顔をしていたが、教室の扉が開いたことで質問を止めた。


 マレーネ・ハルトマンが、分厚い教本を抱えて入ってくる。


 銀縁眼鏡の奥から、教室全体を見渡した。


「休暇中の思い出を共有する時間は終わりです。席へ戻りなさい」


 トビアスが自分の席へ走る。


 リュカもローディスの机から離れ、斜め後ろの席へ戻った。


 マレーネは教本を教卓へ置く。


「本日は、休暇前までに扱った内容の確認から始めます」


 教室のあちこちから呻き声が上がった。


「静かに」


 一言で収まる。


「精霊術の発動方法を二つ。ベルグ」


 突然名を呼ばれ、ローディスは立ち上がった。


「発声式と、紋章式です」


「それぞれの違いは」


「発声式は、精霊語を声に出して願いを伝える。紋章式は、精霊語を紋章へ置き換え、マナを流して伝える」


「よろしい。クローデン。複合応用とは」


「複数属性の精霊による自然干渉を、一つの結果へ結びつけることです」


「例を」


「水の精霊に水を集めてもらい、火の精霊に熱を退けてもらうことで氷を作る」


「よろしい。エアハルト」


 リュカが立つ。


「精霊術を使用する際、精霊へ渡すものは?」


「マナです」


「今のあなたに、十分な量がありますか」


 教室の視線がリュカへ集まった。


 リュカは困ったように笑う。


「残念ながら、あまり」


「では、座学で補いなさい」


「はい」


 座る前に、リュカは一瞬だけ足元を見た。


 黒い根はない。


 石床の下から声がすることもない。


 あるのは、窓から差し込む朝の光と、教本をめくる音だけだった。


 ローディスは前の席。


 セイルは隣の席。


 いつもと同じ距離にいる。


「では、次の問題です」


 マレーネの声が教室へ響く。


 リュカは教本を開いた。


 三人はまた、いつもの席へ戻っていた。


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