第34話 いつもの席へ
共同戦線から戻った翌日の夜。
リュカは一人で、扉に印のない石造りの建物へ入った。
空の倉庫を抜ける。
床板の下に隠された階段を下りる。
地下の小部屋には、今夜も灯りがなかった。
階段から差し込む光は、部屋の中央へ届く前に闇へ沈んでいる。
その奥から、声だけがした。
「来たか、リュカ」
リュカは暗がりの手前で止まった。
「報告書は届いているでしょう?」
「届いているよ。先行調査隊の生存者三名を救助。死亡者三名の遺体も回収。護衛対象と試料を帝都まで無事に送り届けた」
「なら、僕は帰っていい?」
「紙には、君の顔が書かれていない」
「顔を見ても、報告は増えないよ」
「そうかな」
暗がりの声は穏やかだった。
姿は見えない。
椅子に座っているのか、立っているのかも分からない。
「黒い群体は、君へ何と言った?」
リュカの笑みが薄くなる。
「報告書に書いたとおりだよ」
「君の言葉で聞きたい」
少しの沈黙。
「最初は、船を襲った魔物だった。何かを言いかけて、海へ落ちた」
リュカは壁へ背を預けた。
「岩礁では、黒いものが人の声を使って話した。『お前の中にいる』『こちらのものが中にいる』。最後は、『こちらのものを返せ』」
「根の多くが、君へ向かった」
「見ていたみたいに言うね」
「報告書に書いてあった」
「僕の顔がなくても、十分詳しいじゃない」
声の主は答えなかった。
「身体に変化は?」
「ない」
「痛み、熱、声が聞こえる、眠っている間の記憶が途切れる」
「どれもないよ」
「本当に?」
リュカは右足の踵を、床へ軽く当てた。
「走れる。蹴れる。紋章も壊れていない。帰ってから、勝手に動いたこともない」
「そうか」
短い返事だった。
安堵したのか、まだ警戒しているのか。声だけでは読み取れない。
「あれは、僕の中にあるものを知っていたの?」
「知っていた、とは限らない」
「でも、感じてはいた」
「その可能性は高い」
曖昧な答えに、リュカの目が細くなる。
「あの任務に僕を選んだのは、それを確かめるため?」
「違う」
返答は速かった。
「護衛対象が三人組を必要とし、現地では戦闘が予想された。長期休暇中に動けるチームの中から、帰還率と連携を見て君たちを選んだ」
「僕を餌にするつもりはなかった?」
「知っていて君を試料の前へ出したなら、先に伝えている」
「組織の長なら、必要な犠牲だと言うこともできるでしょう」
「言うことはできる」
暗がりの声が、僅かに低くなる。
「だが、しない。君を拾ったときに、君の身体を誰かの都合で使わせないと決めた」
リュカは答えなかった。
暗い部屋の中で、右足だけが床を二度叩く。
「ローディスとセイルは?」
「何も気づいていないよ」
「君が群体に狙われたことには気づいている」
「それ以上は話していない」
「二人を巻き込んだと思っているのかい?」
今度は、リュカが黙る番だった。
死骸をつないだ根の大半が、自分へ向きを変えた。
セイルは、その根を凍らせた。
ローディスは、試料を抱えた助手とリュカの間へ何度も立った。
「僕がいなければ、あれは二人を追わなかったかもしれない」
「君がいなければ、二人が岩礁から戻れなかった可能性もある」
「同じ話じゃない」
「同じ任務の話だよ」
声の主は静かに続けた。
「危険を連れてきた者と、危険から守った者を、都合よく別々にはできない。今回の君は、その両方だった」
「慰めている?」
「報告を整理している」
「下手だね」
「君ほどではないさ」
リュカの口元に、少しだけ笑みが戻った。
「黒いものについては調べる。君の身体との関係もね。ただし、次に同じ反応があれば、二人へ隠したまま戦うのは難しくなる」
「分かってる」
「本当に?」
「今度は僕が言う番だね」
リュカは壁から背を離した。
「報告は終わり?」
「もう一つ。追加報酬の交渉は見事だったそうだ」
「それはセイルの功績だよ。僕は十五枚ずつ分けただけ」
「通常の依頼報酬も、確認が済み次第ゴーレムへ持たせる」
「それを最初に言えば、セイルも来たのに」
「彼は僕の素性を知らない」
「知ってるよ」
リュカは扉へ向かった。
「冗談」
暗がりから返事はない。
扉へ手を掛けたところで、声に呼び止められた。
「リュカ」
「何?」
「三人で戻ってくれて、よかった」
リュカは振り返らなかった。
「当然でしょう」
扉を閉める。
部屋には、再び何も見通せない暗闇だけが残った。
◇
数日後。
長期休暇が終わり、帝立アストラ兵学府の教室へ朝の鐘が響いた。
ローディスが席へ着くと、机の上には新しい時間割が置かれていた。
座学。
剣術。
精霊術実習。
昼を挟み、最後は体力訓練。
「休暇明けの予定じゃない」
セイルが隣から覗き込む。
「普段より多いな」
「休暇で鈍った身体を戻すため、だって」
前の席からニナが振り返った。
赤茶色の短髪は、休暇前より少しだけ短くなっている。
「鈍っていない人まで?」
「教員は、休暇中に何をしていたかまでは知らないもの」
ニナの目が、三人の顔を順に見た。
「ところで、三人とも休暇中はどこにいたの?」
「帝都の外だ」
ローディスは正直に答えた。
「それは見れば分かるよ」
トビアスが横から割り込んでくる。
日に焼けた腕を見せつけるように袖を捲っていた。
「休暇の初日から三人揃って見かけなかった。帰ってきたと思ったら、ローディスの外套は破れてるし、セイルの新しい杖には傷が増えてる」
「よく見てるね」
リュカが感心したように言う。
「暇だったからな」
「悲しい休暇だ」
「俺は槍の自主訓練をしてたんだ!」
トビアスが抗議する。
エルザは自分の席へ座ったまま、眠たげな目をセイルの杖へ向けた。
「海へ行ったの?」
セイルの指が止まる。
「どうしてそう思う」
「杖の金具に塩が残ってる。握りの隙間にも、細かい砂が入ってるから」
教室に短い沈黙が落ちた。
「鋭いね」
リュカが笑う。
「正解。海を見に行ったんだよ」
「三人で?」
「たくましいローディスと、美男子のセイルと、可愛い僕で」
「何だ、その説明は」
ローディスが眉を寄せる。
「旅先で教わった、僕たちの分類」
「誰に?」
「歩くのが嫌いな女の人」
ニナが首を傾げる。
「足が悪いの?」
「元気すぎるくらいだったよ」
「ますます分からない」
リュカは楽しそうに笑った。
「海で何をしたんだ?」
トビアスが尋ねる。
「荷物運び」
ローディスが答えた。
「杖の試運転」
セイルが続ける。
「大きな海鳥と追いかけっこ」
リュカが言った。
ローディスとセイルが、同時に彼を見る。
「海鳥?」
トビアスが尋ねる。
「僕の荷物を狙ってきたんだ。逃げても逃げても追ってくるから、最後はセイルが杖で追い払ってくれた」
「そんなこともあったな」
セイルは、飛行種の正体に触れず同意した。
「三人で海へ行って、思い出が荷物運びと海鳥なの?」
エルザが言った。
「次は観光だけにしたいね」
リュカが笑った。
ニナはまだ納得していない顔をしていたが、教室の扉が開いたことで質問を止めた。
マレーネ・ハルトマンが、分厚い教本を抱えて入ってくる。
銀縁眼鏡の奥から、教室全体を見渡した。
「休暇中の思い出を共有する時間は終わりです。席へ戻りなさい」
トビアスが自分の席へ走る。
リュカもローディスの机から離れ、斜め後ろの席へ戻った。
マレーネは教本を教卓へ置く。
「本日は、休暇前までに扱った内容の確認から始めます」
教室のあちこちから呻き声が上がった。
「静かに」
一言で収まる。
「精霊術の発動方法を二つ。ベルグ」
突然名を呼ばれ、ローディスは立ち上がった。
「発声式と、紋章式です」
「それぞれの違いは」
「発声式は、精霊語を声に出して願いを伝える。紋章式は、精霊語を紋章へ置き換え、マナを流して伝える」
「よろしい。クローデン。複合応用とは」
「複数属性の精霊による自然干渉を、一つの結果へ結びつけることです」
「例を」
「水の精霊に水を集めてもらい、火の精霊に熱を退けてもらうことで氷を作る」
「よろしい。エアハルト」
リュカが立つ。
「精霊術を使用する際、精霊へ渡すものは?」
「マナです」
「今のあなたに、十分な量がありますか」
教室の視線がリュカへ集まった。
リュカは困ったように笑う。
「残念ながら、あまり」
「では、座学で補いなさい」
「はい」
座る前に、リュカは一瞬だけ足元を見た。
黒い根はない。
石床の下から声がすることもない。
あるのは、窓から差し込む朝の光と、教本をめくる音だけだった。
ローディスは前の席。
セイルは隣の席。
いつもと同じ距離にいる。
「では、次の問題です」
マレーネの声が教室へ響く。
リュカは教本を開いた。
三人はまた、いつもの席へ戻っていた。




