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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第33話 最初の鼓動

 翌日の午後、アーデルハイトは二人の助手へ山ほどの記録紙を渡した。


「旧研究棟の標本と照合してきて」


「昨日、帝都近郊の標本は全部調べました」


「今日は南部と西部。それから、百年以上前に採取されたものも」


 助手が紙束をめくる。


「これだけですか?」


「少ない?」


「多いという意味です」


「分かっているなら、早く行って」


 もう一人が、研究台の上へ目を向けた。


 黒い群体の入った金属筒は閉じられている。


 その横には、洗浄済みの器具だけが整然と並んでいた。


「先生は何をするんですか」


「昨日の記録をまとめるわ」


「一人で試料を開けないでください」


「開けないわよ」


「培養槽も動かさないでください」


「分かっているわ」


「新しい実験も始めないでください」


 アーデルハイトは微笑んだ。


「信用がないのね、私」


「あると思っていたんですか」


 二人は何度も振り返りながら研究室を出ていった。


 扉が閉じる。


 足音が階段を上り、完全に聞こえなくなるまで待つ。


 アーデルハイトは微笑んだまま、扉へ金属板を滑らせた。


 金の精霊術で板が変形し、内側から錠を覆う。


「全部守るのは無理ね」


 研究台の下から、布を掛けた箱を引き出す。


 中には、助手たちが眠った後に組み上げた装置が収められていた。


     ◇


 実験に使うのは、人型の培養槽ではない。


 その前段階として作った、大きなフラスコだった。


 透明な液体の中に、掌(てのひら)ほどの器が沈んでいる。


 細い四肢。


 小さな頭。


 未完成の胸郭(きょうかく)。


 個別に培養した器官を、黒い群体から切り取った細い組織でつないだものだ。


 形は人に似ている。


 命の精霊術を注げば、器官の一つ一つは生きていると分かる。


 それでも、全体は一度も呼吸していない。


 アーデルハイトはフラスコを、床へ刻んだ紋章の中央に置いた。


 円を囲む金属線。


 命の精霊へ器を示す紋章。


 精霊と器官のつながりを維持するための紋章。


 そして、招いた精霊が途中で離れないよう、流れを内側へ戻す紋章。


 最後の一つだけは、助手たちへ見せていない。


 契約した精霊へ願いを伝えることと、精霊を一つの場所へ縛りつけることは違う。


 その程度のことは、アーデルハイトにも分かっていた。


 だから、相談しなかった。


「傷つけるつもりはないのよ」


 誰へともなく言う。


「力を少し借りるだけ。器が自分で生きられるようになれば、すぐに解放するわ」


 頭上へU字型装具が浮かぶ。


 四基の推進環が二基ずつ左右へ開き、彼女の姿勢を固定した。


 一基も攻撃へ向けていない。


 必要なのは火力ではなく、九つの紋章へ同時にマナを流すための正確な制御だった。


 雷が装具から金属線へ走る。


 金の精霊が、床の紋章をフラスコへ向けて立ち上げた。


 薄い金属の輪が何重にも重なり、透明な器を囲む。


 アーデルハイトは命の精霊語を発した。


 器官を保て。


 血を巡らせよ。


 肺を動かせ。


 それぞれの願いに、命の精霊が応じる。


 淡い光が、フラスコの内側へ集まった。


 意識を凝らせば、光の中に小さな命の精霊たちが見える。囁くような声が幾つも重なり、与えられた器官を懸命に動かしていた。


 掌ほどの身体、その胸が僅かに持ち上がる。


 だが、次の呼吸はない。


「ここまでは、昨日と同じ」


 アーデルハイトは新しい紋章へ意識を向けた。


 精霊を、器の中央へ導く。


 全身を一つへまとめる核として、胸の内側へ留める。


 装具が彼女の思考を拾った。


 雷が最後の紋章へ入る。


 金属の輪が閉じ始めた。


 淡い光が逃げ道を探すように揺れる。


 行きたくない。


 言葉になる寸前の拒絶が、アーデルハイトの意識へ触れた。


「大丈夫よ」


 アーデルハイトは、さらにマナを注いだ。


「あなたが、この子の魂になるの」


 光が大きく震えた。


 その瞬間。


 研究室の中央に、一本の線が引かれた。


     ◇


 黒くはなかった。


 空間が裂けたのでもない。


 初めからそこに扉があり、今まで見えていなかっただけのように、細い枠が姿を現した。


 枠の内側には、研究室ではない景色がある。


 白い幹の森。


 風もないのに揺れる無数の葉。


 火花、水滴、砂粒、金属の煌めき、若葉、風の渦、雷光、眩い白、命の精霊術に似た淡い光。


 属性の異なる現象が、森の奥を生き物のように漂っている。


 アーデルハイトが見たことのない場所だった。


 扉の向こうから、一人の男が歩いてくる。


 四十代ほどに見える壮年の男。


 灰色の混じる暗褐色の髪を後ろへ流し、同じ色の短い髭を整えている。


 着ているのは、飾り気のない深緑の長衣だった。


 武器も杖も持っていない。


 だが、男が一歩近づくたび、フラスコへ集められていた命の精霊がそちらを向いた。


 森を漂っていた無数の精霊も男の周囲へ集まり、火花や水滴、若葉に似た姿を喜ばせるように揺らしている。重なった声の意味までは拾えない。それでも、彼を迎えていることだけは分かった。


「誰?」


 男は答えなかった。


 床の紋章を見る。


 次に、閉じかけた金属の輪と、その内側でもがく淡い光を見た。


 穏やかだった顔から、すべての温度が消える。


「止めなさい」


 静かな声だった。


 アーデルハイトの指が止まる。


「私の研究室へ勝手に入ってきて、最初の言葉がそれ?」


「その精霊を解放しなさい」


「傷つけるつもりはないわ」


「害する者は、いつもそう言う」


 男が床へ手を向けた。


 精霊語を発する。


 短い一語だった。


 アーデルハイトの知るどの発声式よりも簡潔で、それでいて、何を求めているのか疑いようがない。


 還(かえ)れ。


 淡い光が金属の輪を突き抜けた。


 閉じ込めるための紋章が、内側から砕ける。


「待って!」


 アーデルハイトが装具へ命令を送る。


 雷は走らなかった。


 頭上のU字型装具が、五つの部品へ分かれる。


 四基の推進環も継ぎ目から解け、幾つもの金属片となって床へ落ちた。


 培養槽を支えていた枠が外れる。


 観察器のレンズが台座から抜ける。


 床と壁を埋めていた紋章は、刻まれた金属ごと細かな粒へ戻った。


 火は消えた。


 風は止まった。


 雷も、命の光も、アーデルハイトの願いから離れていく。


 音が重なったのは、一瞬だけだった。


 次に静寂が訪れた時、研究施設は失われていた。


 残っているのは、床へ散らばった金属、割れずに置かれた培養槽、黒い試料を封じた筒、そして中央のフラスコだけだった。


 アーデルハイトは床へ降りた。


 支えを失った足がよろめく。


 それでも倒れず、男を睨みつけた。


「何をしたの」


「君が精霊へ行おうとしたことを、止めただけだ」


「装具も、培養設備も壊したでしょう」


「同じことを繰り返せないようにした」


「私が何年かけて――」


「時間をかけたことは、正しさの証明にはならない」


 男の視線が、黒い試料の筒へ移る。


 ほんの僅かに、眉が動いた。


「君は、それがどこから来たものか知らない」


「だから調べているのよ」


「知らないまま、精霊を組み込もうとした」


「この器には魂がない。精霊なら、その代わりになれるかもしれない」


 アーデルハイトはフラスコを指した。


「器官は全部生きている。身体もつながった。あとは、一つの命として始めるものが必要なの」


「だから、精霊を縛るのか」


「完成すれば解放するつもりだった」


「完成しなければ?」


 答えは出なかった。


 男がアーデルハイトへ向き直る。


「精霊の力は無限であり、尊い」


 声は低く、研究室の隅々まで届いた。


「その力を借りることと、意思を奪って材料にすることは違う」


 男の周囲で、無数の精霊がざわめいた。


 残された命の光が、彼の指先へ集まる。


「ゆえに、それを害することは――も(・)う(・)二(・)度(・)と(・)許されない」


 アーデルハイトは、その言葉に引っかかった。


「もう二度と?」


 男は答えない。


 フラスコの前へ立つ。


 掌ほどの器を見下ろした。


「これは、君が作ったのか」


「そうよ」


「形を作り、器官を育て、つないだ」


「全部、私が」


「ならば、ここまでが君の仕事だ」


 男はガラス越しに指を添えた。


 命の精霊語を発する。


 一語ずつなら、命の精霊語だと分かる。


 だが、あまりに多くの意味が重なり、アーデルハイトには一つの願いとして理解できなかった。


 命令ではない。


 願いとも違う。


 誰かを、この世界へ迎え入れる呼びかけのように聞こえた。


 命の光がフラスコを包む。


 黒い糸でつながれた器官へ、柔らかく染み込んでいく。


 小さな胸が持ち上がった。


 一度。


 沈む。


 二度目。


 今度は、自ら空気を求めるように大きく動いた。


 胸の奥で、何かが鳴る。


 小さい。


 それでも確かな、最初の鼓動だった。


「どうして……」


 アーデルハイトはフラスコへ駆け寄った。


 小さな指が動く。


 脚が折り畳まれ、透明な液体の中で身体が丸まった。


 命の精霊は閉じ込められていない。


 光は器を包んだ後、男の周囲へ戻っている。


 それでも、鼓動は止まらない。


「あなた、何者なの?」


 男は扉へ向かっていた。


「待って。今の術を教えて」


 振り返らない。


「せめて名前を――」


 男が、見えない扉の枠を越える。


 白い森の光が遠ざかる。


「次は警告だけでは済まない」


 最後に、その声だけが残った。


 扉は閉じた。


 枠も、森も、初めから存在しなかったように消える。


     ◇


 数分後、扉の外から激しい音がした。


「先生!」


「内側の錠を開けてください!」


 金属板は、装具と同じように部品へ分かれている。


 助手たちが扉を開け、研究室へ飛び込んできた。


 二人とも、その場で立ち止まる。


 棚だけを残して消えた研究設備。


 床一面の金属片。


 自分の足で立つアーデルハイト。


「何があったんですか」


「実験はしていないと言いましたよね」


「正確には、新しい実験を始めないとは言っていないわ」


「同じです!」


 助手が頭を抱える。


 もう一人は、床へ落ちたU字型装具の部品を拾った。


「どうやったら、これが一瞬で全部分解されるんですか」


 アーデルハイトは答えなかった。


 消えた扉のあった場所を眺めている。


 深緑の長衣。


 落ち着いた低い声。


 自分の装具を、指一本触れずに壊した力。


 そして、あの横顔。


「おじさまも、いいじゃない」


 助手二人が黙った。


「先生。頭を打ちましたか」


「失礼ね。正常よ」


 その横で、フラスコの中の小さな身体が動いた。


 透明な液体を押し、掌をガラスへ当てる。


 三人が同時に振り返った。


 アーデルハイトが、ゆっくりと近づく。


「先生……これは?」


 小さな胸が上下している。


 規則正しい鼓動が、ガラス越しに伝わってきた。


 アーデルハイトは目を輝かせる。


「私の疑似生命(ホムンクルス)よ」


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