第32話 同じ世界のもの
「では、俺たちは戻ります」
ローディスが告げても、アーデルハイトは振り返らなかった。
「その前に、追加報酬の相談が残っている」
セイルが言った。
アーデルハイトの手が止まる。
「覚えていたの?」
「忘れる理由がない」
「生きた試料を取れたら、追加で出すと言いましたよね」
助手の一人が記録板を確認する。
「先生の発言として残っています」
「どうして、そんなことだけ丁寧に書いてあるのかしら」
「あとで先生が忘れるからです」
セイルは研究台の横へ立った。
「先行調査隊の救助、予定になかった戦闘、翌日の再上陸、生体試料の確保。通常の依頼分とは別に、銀貨六十枚を要求する」
「高いわね。二十枚」
「生きた試料がなければ、研究は進まなかった」
「採取したのは私よ」
「採取中、周囲を守ったのは僕たちだ」
アーデルハイトが振り返る。
セイルは視線を逸らさなかった。
「三十枚」
「五十五枚。それに、使った回復薬の補填」
「細かい男は嫌われるわよ」
「好かれるために交渉していない」
「四十枚。回復薬は別に補填するわ」
「五十枚」
「間を取って四十五枚、と言わせたいの?」
「話が早くて助かる」
アーデルハイトが目を細めた。
助手の一人が、記録板に挟んだ別の紙を差し出す。
「先生。今回の採取費として、事前の手続きなしで追加支出できるのは銀貨四十五枚までです」
「先に言いなさいよ」
「交渉を楽しんでおられたので」
もう一人の助手が続ける。
「それを超える場合は、追加申請の承認を待つことになります。支払いは後日です」
セイルが僅かに考える。
「銀貨四十五枚と、回復薬二本。今ここで支払うなら、それでいい」
「決まりね」
アーデルハイトは浮いたまま棚へ移動した。
鍵の掛かった引き出しを開け、革袋を一つ取り出す。
研究台へ置くと、重い音がした。
「銀貨四十五枚。三人で好きに分けなさい。回復薬は同じものを二本渡す。それで終わり」
「一人十五枚だね」
リュカが袋の中を覗く。
「最初から三等分するつもりだったでしょう」
「当然だ」
セイルは銀貨を数え、三つに分けた。
最後に薬瓶二本も受け取る。
「確かに」
「満足?」
「最低限は」
「本当に可愛げがないわね」
研究台の上では、鉄箱の留め具がすべて外されている。
その内側に置かれた金属筒を、二人の助手が左右から押さえていた。
「待って」
アーデルハイトが片手を上げる。
「セイルだけ置いていって」
「断る」
セイルは即答した。
「まだ何も頼んでいないわよ」
「助手になれと言うつもりだろう」
「察しがいいわね。寝台も用意するし、食事も――」
「帰るぞ、ローディス」
「ああ」
二人が扉へ向かう。
リュカも続こうとして、首根っこをつままれた。
「可愛い子も一人くらい残っていいのよ?」
「残念。僕、研究台の上で寝る趣味はないんだ」
「寝台を用意すると言ったでしょう」
「寝ている間に研究台へ移すでしょう?」
アーデルハイトが黙る。
「否定してくれないかな」
リュカはその指を外し、二人を追った。
「護衛は終わりましたから」
ローディスは扉の前で振り返る。
「今度は、あなたが助手を守ってください」
「私の助手よ。当然でしょう」
二人の助手が、揃って怪訝な顔をした。
「では、失礼します」
扉が閉じる。
三人分の足音が遠ざかった。
アーデルハイトは数秒だけ扉を見つめ、それから研究台へ向き直る。
「さて」
青い目が細められた。
「邪魔をする人はいなくなったわね」
「僕たちはいます」
「手伝う人は邪魔に数えないの」
◇
金属筒を開く前に、研究室の扉が三重に閉ざされた。
一枚目は厚い木。
二枚目は鉄。
三枚目には、火と金の精霊へ異常を伝えるための紋章が刻まれている。
助手の一人が換気口を閉じ、もう一人が床の排水溝へ金属板を嵌めた。
「封鎖完了です」
「器具は?」
「煮沸後、火の精霊術で再処理しました」
「保存液」
「温度、濃度ともに到着時から変化なし」
アーデルハイトの頭上へU字型装具が浮かぶ。
雷光が走り、四基の推進環が研究台を囲んだ。
二基は彼女の姿勢を支え、残る二基は金属筒へ向けられる。
「開けるわ」
金の精霊語が、装具に刻まれた紋章から伝えられる。
筒の蓋が僅かに浮いた。
隙間から、黒い糸が一本飛び出す。
推進環の中心に火が灯った。
「焼きますか」
「まだ」
黒い糸は空中を探るように揺れ、最も近い助手へ先端を向けた。
アーデルハイトが指を動かす。
薄い金属板が糸と助手の間へ滑り込んだ。
糸が板へ触れる。
先端が広がり、表面の僅かな傷へ入り込もうとした。
「生き物だけを探すわけではない。まず、接続できる隙間を探している」
「観察は済みましたか」
「もう少し」
糸が金属板の縁を越えようとする。
「先生」
「分かったわよ」
細い火が走り、黒い糸の先だけを焼いた。
残った部分が筒の内側へ引っ込む。
蓋をさらに開く。
保存液の中で、拳大の黒い塊が縮んでいた。
岩礁で見た中心部と同じように脈打っている。
ただし、鼓動は遅い。
アーデルハイトは命の精霊へ願いを伝えた。
淡い光が試料を覆う。
「死にかけてはいない。活動を抑えているだけね」
「眠っているんですか」
「眠るための器官は見つからないわ。周囲に使えるものがないから、消耗を避けているのでしょう」
金の精霊術で作られた細い刃が、試料の端を薄く削る。
切り取られた欠片が、透明な観察皿へ落ちた。
本体はすぐに切断面を閉じる。
「再生を確認」
助手が記録する。
「外側から保存液を取り込んでいます」
「熱だけではないのね。水分と、溶けている養分も使う」
アーデルハイトは観察皿を持ち上げた。
黒い欠片へ薬液を一滴落とす。
表面の色が薄れた。
黒の下から、緑とも褐色ともつかない細い組織が現れる。
彼女の笑みが消えた。
「先生?」
「拡大鏡を」
助手が複数のレンズを組み合わせた観察器を寄せる。
アーデルハイトは皿を固定し、光の代わりに鏡で室内灯を集めた。
黒い組織の断面が、レンズの奥で大きく映る。
細長い部屋が幾つも連なり、その一つ一つを硬い壁が囲んでいる。
「動物の組織ではありませんね」
「ええ」
アーデルハイトは別の刃で、膨らんだ箇所を割った。
内側から、粉のように細かな粒がこぼれる。
一粒を別の皿へ移し、再びレンズを覗く。
「胞子ですか」
「形だけならね」
粒の表面には、浅い溝が輪のように重なっていた。
助手が棚へ走る。
「黒淵周辺の採取記録を持ってきます」
「違うわ」
アーデルハイトが止めた。
「植物標本を全部。帝都近郊のものから先に」
「帝都の植物と比較するんですか?」
「早く」
二人の助手が別々の棚へ向かった。
◇
最初に一致したのは、どこにでも生える岩苔だった。
石壁や古い煉瓦へ張りつき、湿気の多い場所では緑の膜を作る。
黒い試料とは色も大きさも違う。
触れても、人の身体へ根を伸ばすことなどない。
だが、細胞を囲む壁の重なり方が似ていた。
次に、北の森で採取された胞子植物。
胞子表面の溝が一致した。
さらに、水辺へ生える別種の苔。
水分を運ぶ組織の並びが同じだった。
夜が更けても、研究台へ標本が積まれ続けた。
「一種類と同じではありません」
助手が目を擦る。
「岩苔の壁。北方種の胞子。水辺の苔の組織。部分ごとに別の植物と似ています」
「別の生物をつないだから、似たのかもしれません」
もう一人が言った。
「死骸を縫い合わせたのと同じように」
「それなら、境目が残るはずよ」
アーデルハイトは三枚の観察皿を並べた。
「これは一つの組織として育っている。外から拾って貼りつけたものじゃない」
彼女は記録紙へ線を引く。
岩苔。
北方の胞子植物。
水辺の苔。
三本の線が、一つの黒い円へつながった。
「共通する祖先がいる」
「黒淵の向こうの生物に、ですか」
「違う」
アーデルハイトは、黒い試料を見た。
「向こうの生物に似ているんじゃない。この子は、こちらの植物に似ている」
研究室が静かになる。
筒の中で、試料が小さく脈打った。
「元は、この世界にあった植物よ。それが何かを取り込み、別の性質を得た。そして変わった性質を、そのまま次へ伝えている」
「では、なぜ黒淵の周辺に?」
「それを今から考えるの」
「黒淵の向こうにも、同じ植物があるということですか」
「少なくとも、無関係ではないわ」
アーデルハイトは記録紙を裏返した。
新しい紙へ、巨大な黒い円を描く。
その左右へ、同じ形の植物を書いた。
「門が開いた後に、こちらから向こうへ渡った。向こうから来たものが、こちらの植物だけを選んで作り替えた。あるいは――」
筆が止まる。
「最初から、向こうに同じものがあった」
「そんなことがあり得るんですか」
「あり得ないと決めるには、似すぎている」
アーデルハイトは黒い円を指で叩いた。
「異界だから、何もかも別だと思っていた。でも、この子の中には同じ世界の痕跡がある」
答えは出ていない。
それでも、問いの形だけは変わった。
黒淵の向こうから来たものは、どこまでが異界のものなのか。
◇
二人の助手が仮眠へ入ってからも、アーデルハイトは研究台を離れなかった。
黒い試料の横には、別の培養槽が置かれている。
筋肉。
血管。
肺。
それぞれ別に作られ、命の精霊術で生存を保たれてきた器官。
黒い群体の細片を近づけると、糸が伸びた。
筋肉の端へ触れ、表面へ入り込む。
別の糸は血管を探り、切断面へつながった。
ばらばらだった器官が、黒い筋によって結ばれていく。
アーデルハイトは命の精霊へ状態を尋ねた。
どの器官も生きている。
筋肉は刺激に応じる。
血管には液体が流れる。
肺も膨らんだ。
だが、培養槽の中に一つの生命は生まれない。
「身体をつなぐことはできる」
アーデルハイトは呟いた。
「動かすこともできる。覚えていた動作を拾うことさえできる」
岩礁で杖を掲げた死骸を思い出す。
精霊語は正しかった。
身体は術の使い方を残していた。
それでも、精霊は応じなかった。
「足りないのは、身体じゃない」
魂。
目には見えず、触れることもできない。
それでも人を一人の人としてまとめ、精霊との契約を結びつけているもの。
アーデルハイトは、命の精霊術の淡い光へ意識を傾けた。
光の奥に、小さな人影にも、羽を閉じた虫にも見える命の精霊が浮かび上がる。
精霊は、普通の人間には見えない。
だが、エルヴィン・ノアの血を引く者の中には、意識を向けることで姿を捉え、声を聞ける者がいる。アーデルハイトも、その一人だった。
耳ではなく、意識の内側へ触れるかすかな声が、器官を生かし続けたいという彼女の願いへ応じている。
意思を持ち、願いを聞き、自然へ干渉する。
魂と同じものではない。
だが、似た役割を与えることはできるかもしれない。
器官のすべてを、一つの意思へ結びつける中心。
最初の鼓動を命じ、その後も身体を自分のものとして動かす核。
アーデルハイトは新しい記録紙を引き寄せた。
中央に、人の形を描く。
胸の内側へ、小さな円を加えた。
その円から全身へ線を伸ばす。
黒い群体の糸ではない。
精霊と器官を結ぶための紋章だった。
「そうか」
笑みが、ゆっくりと広がる。
「足りないなら、用意すればいい」
四基の推進環が、彼女の背後で回り始めた。
研究室の壁際には、長いあいだ空のままだった人型の培養槽がある。
アーデルハイトは、その中へ視線を向けた。
「精霊を、魂の核にすればいいのよ」




