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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第31話 帰るまでが護衛

 金属筒は、帰りの船でも脈打っていた。


 布を何重に巻いても、低い振動が箱の底から伝わってくる。


「本当に、それを帝国まで運ぶのか」


 ローディスは箱を抱え直した。


「そのために来たのよ」


 アーデルハイトが即答する。


「まだ生きているんですよね」


「ええ。凍らせすぎても死ぬし、温めすぎれば増える。繊細な子ね」


「子供みたいに言わないでください」


 助手は箱から距離を取っていた。


 船が波を越える。


 箱の内側で、金属を引っかくような音がした。


 ローディスの腕に力が入る。


「今、動いたぞ」


「動くわよ。生きているもの」


「蓋は保つのか」


「私が作ったのよ?」


 それが保証になるのか、ローディスには分からなかった。


 向かいに座るセイルも同じ顔をしている。


「基地に着くまで、その言葉を信じるしかないな」


「私を信じてくれるなんて、嬉しいわ。美男子の助手はいつでも歓迎よ」


「筒の蓋だけを信じています」


 アーデルハイトは肩をすくめた。


「つれないところも素敵ね」


 リュカが箱を覗き込む。


「僕には何も言わないの?」


「可愛い子は、危ないものへ顔を近づけないの」


「急にまともだ」


「試料を奪われたくないだけでしょう」


 セイルの指摘に、アーデルハイトは笑って答えなかった。


 やがて後方基地の桟橋が見えてくる。


 出発時よりも多くの兵士が待っていた。


 担架が三つ。


 密閉用の鉄箱が一つ。


 帰還者を迎える準備と、持ち帰ったものを閉じ込める準備が、同じ場所に並んでいた。


 船が接岸する。


「先に遺体を下ろせ」


 女隊長の指示で、先行調査隊の三人が運び出された。


 黒い根を失った身体は、白い布の下で動かない。


 続いて負傷兵が降りる。


 最後に、ローディスが試料箱を抱えて桟橋へ移った。


「止まれ」


 防護手袋を着けた兵士が二人、長い金属棒を箱へ当てる。


 表面に穴がないか確かめ、継ぎ目へ薬液を垂らした。


 色は変わらない。


「外部への漏出なし」


「鉄箱へ移せ」


 アーデルハイトが前へ出た。


「待って。保存液の温度を確認してからよ」


「密閉庫で行う」


「運んでいる間に弱ったらどうするの」


「増えた場合よりは対処しやすい」


 女隊長は譲らなかった。


「この基地では、研究価値より兵の安全を優先する」


 アーデルハイトの頭上で、U字型装具に雷が走る。


 四基の推進環が僅かに持ち上がった。


 周囲の兵が一斉に武器へ手を掛ける。


「先生」


 助手が白衣の裾を引いた。


「帝国へ持ち帰れなくなります」


「……分かっているわ」


 推進環が下がる。


「私も密閉庫へ入る。それが条件よ」


「扉の外までだ」


「中で状態を見なければ意味がないでしょう」


「扉の外までだ」


 同じ言葉を返され、アーデルハイトは不満そうに口を閉じた。


 鉄箱の蓋が閉まる。


 四人の兵士が棒を通し、慎重に持ち上げた。


 ローディスたちも後を追おうとする。


「護衛はここまでだ」


 女隊長が止めた。


「先に医務室へ行け。報告はその後に聞く」


「俺たちは負傷していません」


「頬と外套を見てから言え」


 ローディスは頬へ触れた。


 乾いた血が指につく。


 リュカが大げさに息を呑んだ。


「大変だ。僕たちの勇敢なる大剣使いが、傷を隠して任務を続けていたなんて」


「擦り傷だ」


「外套まで敵の刃から君を守った。帰ったら服飾店へ功績を伝えないと」


「やめろ。修理代を取られる」


「取られるに決まっている」


 セイルが言った。


「破れたまま着るつもりだったのか」


「縫えば使える」


「誰が縫う」


 ローディスは答えられなかった。


「ほら、重傷だね」


 リュカが笑う。


 その笑顔は、医務室へ向かう途中で消えた。


 布を掛けられた三つの担架が、別の廊下へ運ばれていく。


 生きて戻った三人は、すでに治療を受けていた。


 助けられた者と、間に合わなかった者。


 同じ調査隊の帰還は、一本の廊下で二つに分かれた。


 ローディスは担架が角を曲がるまで見送った。


     ◇


 報告は日が傾くまで続いた。


 岩礁へ上陸した時刻。


 生存者の状態。


 死骸が再現した動作と言葉。


 群体がリュカへ向けた、途切れた要求。


「『こちらのものを返せ』と聞こえたんだな」


 記録係が確認する。


「そう聞こえたよ」


 リュカは普段どおりの笑みで答えた。


「何を指していたと思う」


「僕の靴かな。ずっと足ばかり狙っていたから」


「真面目に答えろ」


「分からないものは、真面目に考えても分からないよ」


 記録係が眉を寄せる。


 ローディスは口を挟まなかった。


 セイルも黙っている。


 あの言葉が、ただ獲物を誘うために拾った音ではない可能性を、三人とも考えていた。


 だが、リュカが何を隠しているのか、ローディスには分からなかった。


 報告が終わると、女隊長は机の上で指を組んだ。


「採取した試料は、明朝まで基地の密閉庫で保管する。帝都方面へ戻る補給船に専用容器ごと積む」


「アーデルハイトは納得したんですか」


 セイルが尋ねる。


「扉の前で、研究者を凍死させる気かと騒いでいる」


「元気そうだね」


 リュカが言う。


「お前たちの護衛任務は、帝都へ戻るまで続くのか」


「帰着までです」


 ローディスが答えた。


「なら、最後まで目を離すな。試料からも、あの研究者からも」


     ◇


 日が海へ沈む前、基地の鐘が三度鳴った。


 桟橋近くの広場に、白い布を掛けられた三つの棺が並んでいる。


 調査へ出る前に預けられていた名札と、回収された剣や杖が、それぞれの棺の上へ置かれていた。


 基地に残る兵士たちが、所属に関係なく列を作る。


 救助された調査隊員三人も、治療を終えたばかりの身体で参列していた。一人は肩を吊り、もう一人は杖に体重を預けている。


 ローディスたちは、列の最後尾へ並んだ。


 女隊長が三人の名を、一人ずつ読み上げる。


 返事はない。


 波が岸壁を叩く音だけが、名と名の間を埋めた。


「三名は任務を果たし、仲間が帰るための時を作った。遺体と遺品は、次の船で家族のもとへ返す」


 女隊長が敬礼する。


 兵士たちも続いた。


 ローディスは胸の前へ拳を当て、頭を下げる。


 死骸となって剣を振るった男の、崩れた重心を思い出した。


 あの身体に残っていた技は、今日一日で身についたものではない。


 積み重ねた時間も、守ろうとしたものも知らないまま、最後には敵の手足として刃を向けさせられた。


 それでも、身体を動かしていた黒い根は焼いた。


 三人を連れ帰ることだけはできた。


 隣では、セイルが目を閉じていた。


 リュカからも、いつもの笑みが消えている。


 少し離れた場所に、アーデルハイトと助手たちが立っていた。


 彼女は浮いていなかった。


 四基の推進環を地面へ置き、自分の足で立っている。


 黙祷が終わるまで、誰にも声を掛けなかった。


 救助された隊員の一人が、棺へ歩み寄る。


 震える手で、中央の棺に触れた。


「遅くなって、すまない」


 その言葉に答える者はいなかった。


 別れの鐘が、長く鳴る。


 棺は一つずつ基地の内側へ運ばれていった。


 最後の白い布が見えなくなってから、ローディスは顔を上げた。


「帰ろう」


 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。


 セイルが小さく頷く。


「ああ」


 リュカは基地の建物を見たまま、少し遅れて答えた。


「三人でね」


     ◇


 翌朝。


 試料を収めた鉄箱は、補給船の最下層へ固定された。


 箱の周囲には、セイルが薄い氷を張っている。


 封印のためではない。


 氷に亀裂が入れば、中の何かが動いたと分かる。


「一晩中、密閉庫の扉へ耳を当てていたそうです」


 助手が小声で言った。


「誰が?」


「先生です」


「愛情深いね」


 リュカが感心したように頷く。


「研究対象にだけはな」


 セイルが氷の厚さを確かめた。


 アーデルハイトが船倉へ滑り込んでくる。


「聞こえているわよ」


「否定はしないんですね」


「当然でしょう。あの子が、私の研究を次へ進めるのよ」


 彼女は鉄箱へ手を当てた。


「岩や死骸をつないだだけじゃない。身体に残った動きまで拾っていた。なら、異なる器官を一つへまとめる方法も、あの中にあるかもしれない」


「また動く死体を作るつもりですか」


 ローディスが尋ねる。


 アーデルハイトは振り返った。


「違うわ」


 いつもの軽さが、その一言だけから消えていた。


「私が作りたいのは、死んだものを動かす仕組みじゃない。まだ一度も生きたことのないものへ、最初の命を与える方法よ」


 鉄箱の中で、金属筒が一度だけ鳴った。


 氷に亀裂はない。


 アーデルハイトはすぐに笑顔へ戻る。


「だから三人とも、帰るまで壊さないでね。試料も、船も、自分の身体も」


「最後の二つは、僕たちの責任じゃない気がするな」


「リュカ」


 ローディスがたしなめる。


「分かってるよ。帰(・)る(・)ま(・)で(・)が護衛任務だ」


 出港を告げる鐘が鳴る。


 船体が岸壁を離れた。


 遠ざかる基地の向こうでは、黒い海と空の境に〈黒淵〉が残っている。


 その姿が見えなくなるまで、ローディスは甲板から目を離さなかった。


     ◇


 帰路で、鉄箱の氷が割れることはなかった。


 補給港から馬車へ積み替え、帝都へ入っても同じだった。


 夕暮れ。


 一行はようやく、アーデルハイトの研究所へ戻った。


 扉が開く。


 培養槽の列と、薬品の匂い。


 助手たちが運び込んだ鉄箱を、アーデルハイトは研究台の中央へ置かせた。


 四基の推進環が、その周囲を回る。


「護衛任務は、これで終わり?」


 リュカが尋ねる。


「ええ。ご苦労さま」


 アーデルハイトは三人を見ず、鉄箱へ手を掛けた。


「あなたたちの仕事はね」


 金属の留め具が、一つずつ外されていく。


「私の仕事は、ここからが本番よ」


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