第29話 岩の下の鼓動
後方基地へ戻った時には、夜が明け始めていた。
救助された三人は、そのまま施療棟へ運ばれた。
肩と脚を負傷した二人は、処置を受ければ命に別状はない。
黒い筋に侵入されていた男も、自力で呼吸し、問いかけへ答えられるまでに回復していた。
ただし、首筋へ残った細い火傷の周囲には、命の精霊術による淡い光が絶えず注がれている。
「明日まで熱と脈を監視して。声が本人のものかも確かめること」
寝台の横で、アーデルハイトが軍医へ指示を出した。
「ここは私の施療棟です」
「なら、私が見落としたものを見つけてちょうだい」
「あなたは何者なんですか」
「研究者よ」
「それは見れば分かります」
軍医は疲れた顔で言った。
アーデルハイトはもう聞いていない。
青い瓶を目の高さへ持ち上げ、底に沈んだ黒い筋を眺めていた。
採取した時には瓶の中で暴れていたものが、今は乾いた糸のように縮んでいる。
「生きた組織のそばから離すと、自分の形すら保てないのね」
「死んだ魔物は動かしていた」
ローディスが言う。
「死骸にも、使えるものは残っているわ。筋肉、神経、血、熱。あれは自分に足りないものを、他の身体から借りている」
アーデルハイトが瓶を軽く振る。
黒い筋は動かなかった。
「岩の中の塊は、それを全身へ配る中心かもしれない」
「中心を壊せば、全部止まる?」
リュカが尋ねた。
「止まるかもしれないし、細かく分かれて逃げるかもしれない。だから、生きたまま一部を切り離して封じる必要があるわ」
「討伐隊は、採取のために危険を増やすことを認めない」
女隊長が施療棟へ入ってきた。
休む間もなく、濡れた外套を乾いたものへ替えただけらしい。
「岩礁の群体は航路に近すぎる。海へ広がる前に焼却する」
「中心まで焼けば、黒いものがどこへ逃げるか分からないわよ」
「だから凍らせてから焼く」
女隊長はセイルを見た。
「できるか」
「休ませてもらえれば」
セイルは壁際の椅子に座り、苦い回復薬の瓶を握っていた。
すでに一本を飲み終えている。
「次の出港は明朝だ。それまでに動けるようにしておけ」
「報酬は増えますか」
「私に聞くな」
「なら、依頼主に聞きます」
セイルがアーデルハイトを見る。
「生きた試料を取れたら、追加で出すわ」
「先に金額を」
「あとで相談しましょう」
「一番信用できない答えだ」
「交渉は外でやれ」
軍医に追い出され、三人とアーデルハイトは施療棟を出た。
◇
基地から宛がわれた待機室は、寝台を三つ置けば足の踏み場もないほど狭かった。
三人は食堂から温かい汁を持ち帰り、扉を閉めてから小さな卓を囲んだ。
アーデルハイトは助手に呼ばれ、試料を保管する部屋へ向かっている。
「あの人がいなければ、調査員は死んでいたな」
ローディスが言う。
「認めたくはないけどね」
セイルは二本目の回復薬を汁の横へ置いた。
「傷を塞ぐだけじゃない。黒いものと人の身体の境目を探して、焼きながら治した。あれは普通の回復役にはできない」
「でも、僕たちに回復できる人がいないのは変わらないよ」
リュカが匙を置く。
「今まで大きな怪我をしなかっただけで、三人の誰かが動けなくなったら困るよね」
「薬は持っている」
「戦いながら首の中の根を取れる薬があるなら見せて」
「ない」
セイルは即答した。
「命の精霊と契約できればいいんだけどね」
リュカが言うと、セイルの手が止まった。
「試したことはある」
ローディスが顔を上げる。
「いつだ」
「宵衛へ入った直後だ。三人なら、回復役が一人いた方がいいと思った」
「承認されなかった?」
リュカの問いに、セイルは苦い薬を見た。
「命の精霊は、僕のように報酬を先に計算する人間が嫌いらしい」
「そうなのか」
「慈愛に満ちた者を好むとは言われている。ただ、それだけじゃない」
セイルはローディスの肩から腕へ視線を移した。
「筋肉質で活発な人間を選ぶこともある。生命力が分かりやすいから、と説明された」
リュカもローディスを見る。
「何だ」
「いや」
「別に」
二人が同時に目を逸らした。
「俺に試せと言っているのか」
「契約は本人が望まなければ始まらない」
セイルが言う。
「それに、筋肉があれば必ず承認されるわけでもない」
「ローディスは人も見捨てられないよ」
リュカが笑う。
「精霊に好かれそうな条件だけは揃ってるね」
ローディスは自分の手を見る。
大剣を握るために鍛えた手だ。
精霊術を使う自分など、考えたこともなかった。
「今は、明日の戦いが先だ」
「逃げたね」
「後回しにしただけだ」
「同じことだろう」
セイルは二本目の回復薬を開けた。
◇
翌朝。
討伐隊を乗せた二隻の小型船が、黒い岩礁へ戻った。
海は前日より穏やかだった。
岩礁の上にも、壊れた調査船の残骸にも、動くものは見えない。
討伐隊は女隊長を含む兵士八名。
水の精霊術師二名と、火の精霊術師一名。
ローディス、セイル、リュカ。
アーデルハイトと、採取器具を持った助手一人。
もう一人の助手は、救助者と試料の監視のため基地へ残った。
「上陸後、火は隊長の許可があるまで使わない」
女隊長が全員を見回す。
「岩の内部で燃やせば、煙でこちらが先に倒れる。黒い筋を見つけても触れるな。凍らせるか、位置を伝えろ」
「中心部を見つけたら?」
アーデルハイトが尋ねる。
「周囲を凍結し、採取に一分だけ与える。その後は焼却する」
「五分」
「一分だ」
「三分」
「出港するか?」
「一分で十分よ」
昨日と同じような会話だった。
違うのは、アーデルハイトが最初から採取箱の上へ座るように浮いていることだ。
「歩かないんですか」
ローディスが尋ねる。
「体力を温存しているの」
「昨日は走ってもいません」
「今日の分まで温存していたのよ」
船が岩礁へ着く。
兵士が鉤付きの縄を投げ、船体を固定した。
前日、死骸をつないでいた黒い筋は見当たらない。
石小屋の床に開いた穴だけが、暗い口を見せている。
その縁へ、細い縄梯子が下ろされた。
「私が先に降りる」
女隊長が灯りを持つ。
「次に水の術師。ベルグ、お前は三番目だ」
「はい」
ローディスは大剣を背負い、梯子へ足を掛けた。
暗闇へ降りる。
◇
岩礁の内部は、天然の空洞だった。
波の音が岩壁の向こうから低く響いている。
足場は狭く、濡れていた。
灯りを向けると、壁に黒い筋が走っている。
動かない。
表面は乾き、死んでいるように見えた。
「踏むな」
女隊長が短く命じる。
一行は黒い筋を避け、奥へ進んだ。
セイルが杖を握り、リュカはローディスの背後を歩く。
アーデルハイトだけは足場から僅かに浮いていた。
「便利ですね、それ」
助手が羨ましそうに言う。
「あなたの分も作りましょうか?」
「本当ですか」
「研究所へ戻ったら、身体へ直接紋章を――」
「やっぱり結構です」
空洞が広がった。
中央に、三人の人間が立っている。
先行調査隊の制服。
昨日、戻らなかった三人だった。
全員が岩壁へ背を向け、頭を垂れている。
「生きているのか」
兵士が一歩出る。
「待て」
女隊長が止めた。
灯りが三人の足元を照らす。
踵から黒い根が伸び、岩床へつながっていた。
中央の男が顔を上げる。
目は開いている。
だが、瞳は動かない。
「隊長」
本人の声だった。
「助けに来てくれたんですね」
女隊長は答えない。
「その場で両手を上げろ」
「はい」
男の両腕が上がる。
肘が、本来とは逆へ折れ曲がった。
背中から黒い筋が噴き出す。
「凍らせろ!」
水が走る。
火の精霊がそこから熱を退け、男の足元が黒い根ごと凍りついた。
残る二人も同時に顔を上げる。
三つの口が開いた。
「タスケテ」
岩壁が脈打った。
黒い筋だと思っていたものが、すべて壁から剥がれ始める。
奥にあったのは岩ではない。
黒い膜に包まれた、巨大な肉の塊だった。
アーデルハイトの青い目が、歓喜に見開かれる。
「見つけた」
次の瞬間、三人の死骸が一行へ襲いかかった。




