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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第28話 身体の内側

「オマエ、ナカニ、イル」


 倒れた男の口が、もう一度動いた。


 声に抑揚はない。


 意味を理解して語りかけているのか、どこかで覚えた言葉を並べているだけなのかも分からない。


 それでも、床を這う黒い筋は明らかにリュカへ向いていた。


「僕の中に、何がいるの?」


 リュカは笑顔で問い返した。


 答えはない。


 倒れた男の喉が、空気の抜ける音を立てる。


「ナカニ」


「イル」


「コッチノ」


 最後の言葉に、リュカの笑みが僅かに薄れた。


 床の亀裂から、黒い筋が跳ねる。


 足を狙っていた。


 リュカは半歩退き、短剣を抜く。


 刃が黒い筋を切った。


 床へ落ちた先端は身を捩り、今度は短剣を持つ手へ伸びる。


「触らないよ」


 石床を蹴る。


 細い黒筋がまとめて潰れた。


 だが、岩の割れ目から次の筋が生えてくる。


 一本を潰せば二本。


 二本を切れば、その切り口がさらに細く分かれた。


 黒い筋は倒れた男を避け、リュカだけを囲もうとしている。


「この人より、僕の方が欲しいのかな」


 返事の代わりに、男の背が反った。


 首筋の黒い筋が太くなる。


 呼吸が止まった。


「それは困る」


 リュカは短剣を納めた。


 倒れた男の服を掴み、床から引き上げる。


 身体を自分の背後へ移すと、黒い筋が一斉に追ってきた。


 リュカの足が石床を踏み抜く。


 亀裂が広がり、黒い筋ごと床の一部が沈んだ。


 小屋全体が揺れる。


「余計な穴を増やすなって、また怒られるね」


 崩れた床の下には空洞があった。


 暗闇の中で、黒いものが脈打っている。


     ◇


 ローディスが一人目を船へ渡した時、五分のうち半分が過ぎていた。


 脚を負傷した男は兵士たちに受け取られ、すぐ担架へ載せられる。


 肩を傷めた男も、自力で船縁を越えた。


「残りは!」


 女隊長が尋ねる。


「一人は体内に黒い筋が入っている。リュカが残った」


「黒い筋を切って運べないのか」


「引き抜けば出血して死ぬそうです。氷で動きを止められる術師も、侵入された本人だけだった」


 セイルが振り返った。


 額から汗が顎へ落ちている。


「僕が行く」


「氷を止めれば、あれが船へ戻る」


 黒い筋でつながれた死骸は、今も船の左舷へしがみついている。


 兵士たちが槍で押し返し、アーデルハイトが火で糸を焼いているが、切れた端は海中へ潜って岩礁へ戻ろうとしていた。


「私が行くわ」


 アーデルハイトが言った。


「助けられるんですか」


 ローディスが尋ねる。


「見なければ断言できない。でも、命の精霊なら、人の身体と黒いものの境目を探せる」


 四基のうち一基がアーデルハイトの右脇へ移り、残る三基が背後で姿勢を保つ。


「少なくとも、ここにいる誰より助けられる可能性は高いわ」


 女隊長が死骸の塊と岩礁を見比べる。


「三分だ」


「短いわね」


「二分にするか?」


「三分で十分よ。ローディス、荷箱を持って」


「俺も行くんですか」


「私の護衛でしょう?」


 四基の輪が左右へ二基ずつ開き、中心から一斉に火を噴いた。


 伸びた四本の火柱は二枚の翼のように広がり、アーデルハイトの身体を岩礁へ運んだ。


 ローディスは採取器具の箱を抱え、再び氷床へ足を掛けた。


「壊すなよ!」


 セイルの声が背中へ飛ぶ。


「氷と箱、どちらをだ!」


「両方だ!」


     ◇


 石小屋へ戻ると、扉だけでなく床まで壊れていた。


 リュカは倒れた男を背に庇い、空洞から伸びる黒い筋を蹴り落としている。


「遅かったね」


「まだ三分も経っていない!」


「床を壊さないでと言われなかった?」


 アーデルハイトが浮いたまま小屋へ入る。


「言われてないよ」


「そう。なら、私も壊していいわね」


「駄目です」


 止めたのはローディスだけだった。


 いつも先回りして止める助手は、船に残っている。制止の声が一つしかないことに、アーデルハイトは満足そうに頷いた。


「箱を開けて。銀色の細い筒と、青い瓶」


 ローディスが採取箱を床へ置く。


 留め具を外すと、用途の分からない器具が隙間なく並んでいた。


「どれですか」


「銀色で、細い筒」


「半分がそうです」


「先に針が三本ついているもの」


 器具を渡す。


 アーデルハイトは倒れた男の首筋へ手をかざした。


 淡い緑色の光が、黒い筋の周囲へ広がる。


 命の精霊術だった。


「この黒いものは、身体と一つになっていない。細い根を血管と神経の隙間へ這わせている」


「抜けますか」


「無理に抜けば、この人の中身までついてくるわ」


 ローディスの表情が険しくなる。


「でも、境目はある」


 アーデルハイトは三本の針を首筋へ刺した。


 細い金属線が針の間をつなぐ。


「火の精霊には黒いものだけを焼いてもらう。命の精霊には、焼けたそばから人の身体を塞いでもらう」


「そんな細かい区別ができるんですか」


「私を誰だと思っているの?」


「歩かない研究者」


 リュカが答えた。


「あとであなたの足にも針を刺すわよ」


 頭上の装具へ雷が走る。


 思考に応じ、針へ刻まれた微細な紋章が順番に淡く光った。


 男の首筋から、細い煙が上がる。


 黒い筋が暴れた。


 男の口が開く。


「イタイ!」


 今度の声は、借りものではなかった。


 意識を取り戻した男自身の悲鳴だった。


「痛いなら生きているわ。動かないで」


「何を――して――」


「あなたの中に勝手に住みついたものを追い出しているの」


 黒い筋が首筋から浮き上がる。


 焼かれた先端を捨て、床の亀裂へ戻ろうとした。


「リュカ」


「任せて」


 逃げる黒筋を短剣の腹で掬い、青い瓶へ落とす。


 ローディスが蓋を閉めた。


 瓶の内側で、黒い筋が細かく震える。


 アーデルハイトは男の胸へ手を置いたまま、光を弱めなかった。


「まだ残ってる?」


「胸の奥に少し。命の精霊に境目を探してもらっている」


 空洞から黒い筋が伸びる。


 取り戻そうとしている。


 ローディスが大剣を振り下ろし、床ごと進路を塞いだ。


「あと何分ですか」


「聞かないで。急かされると失敗したくなるわ」


「普通は逆でしょう」


「私は成功しかしないから、たまには失敗も観察したいのよ」


「この人で試すな!」


 男の胸が大きく上下した。


 口から、髪の毛ほど細い黒糸が這い出す。


 アーデルハイトはそれを指先で摘まみ、火で焼いた。


「終わり」


 命の光が消える。


 男は咳き込みながらも、自分で息をしていた。


「本当に取れたんですか」


「見える範囲ではね。基地へ戻ったら、身体中を調べるわ」


 外から、セイルの声が届いた。


「戻れ! 氷床がもたない!」


「聞こえたね」


 リュカが男を背負う。


 ローディスは採取箱を抱えた。


「アーデルハイトさんは」


「飛ぶわ」


「最初から全員運べませんか」


「三人は無理よ。それに、たくましい男の子が走っている方が見栄えがいいでしょう?」


「走ります」


     ◇


 最後の氷板が割れた直後、ローディスたちはアーデルハイトとともに捜索船へ戻った。


 兵士たちが感染していた男を受け取り、他の負傷者と並べる。


 女隊長が人数を数えた。


「生存者三名。救助完了。岩礁を離れる!」


 帆が張られる。


 水の精霊術が船腹を押し、船が岩礁から離れ始めた。


 死骸の塊は追ってこなかった。


 黒い糸が死骸から抜け、岩の亀裂へ次々と戻っていく。


 支えを失った翼や脚が、波間へ崩れ落ちた。


「逃げたのか」


 ローディスが言う。


「違うわ」


 アーデルハイトは青い瓶を夕日に透かした。


 中の黒い筋は、すでに動きを弱めている。


「あれにとって、死骸は手足でしかない。本体は岩の中よ」


「この試料では足りませんか」


「切り離した途端に弱っている。持ち帰る頃には崩れてしまうでしょうね」


 青い瓶の底で、黒い筋が一度だけ縮んだ。


「生きたまま調べるなら、脈打っている塊が必要よ」


 女隊長が振り返る。


「救助は終わった。次は討伐隊の仕事だ」


「そこに研究者も加えて」


「許可が出ればな」


 肩を傷めた男が、担架の上から声を上げた。


「待ってくれ」


 全員の視線が集まる。


「下には、死んだ三人がいる」


 男の唇が震えていた。


「俺たちが逃げ込む前、黒いのが三人を岩の中へ引きずった。まだ、あの声で呼んでいる」


 遠ざかる岩礁から、声がした。


 三つの声が、救助された男たちの名前を呼んでいる。


 船が離れても。


 姿が夕闇へ沈んでも。


 借りものの声だけが、いつまでも海の上を追ってきた。


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