第27話 借りものの声
死骸の塊が、海面を蹴った。
水を吸った翼が開く。
飛べる形ではない。それでも、黒い筋に引かれた巨体は、捜索船の甲板まで跳び上がった。
「来るぞ!」
女隊長の声と同時に、水の壁が立つ。
死骸の塊が突っ込んだ。
水は衝撃を受け流し、巨体の向きを船首側へ逸らす。
甲板へ落ちた三本の鉤爪を、ローディスの大剣が受け止めた。
重い。
一体分の力ではなかった。
刃を押し返しながら、継ぎ合わされた五つの口が開く。
「タスケテ」
「イタイ」
「ミツケタ」
声と口の動きが合っていない。
閉じた口から子供の声が漏れ、開いた口から老いた男の叫びが響く。
「喋っているんじゃない」
セイルが杖を構えた。
「身体を鳴らされているだけだ!」
左手の指先が紋章板へ触れる。
海水が縄のように伸び、巨体の脚へ巻きついた。続けて熱が退けられ、黒い筋ごと白く凍る。
ローディスは大剣を押し上げた。
「離れろ!」
凍った脚を峰で打つ。
関節が砕け、死骸の一つが甲板へ転がった。
だが、切れたはずの黒い筋は離れない。
細い糸へほどけると、転がった死骸へ再び絡みついた。
「戻ろうとしてる!」
リュカが糸の間へ踵を落とす。
甲板が鳴った。
黒い糸は板へ押し潰され、死骸との接続を絶たれる。
直後、別の二本がリュカの足首へ伸びた。
リュカは身を翻して避ける。
「触れないで。熱を持っていかれるかもしれない」
「北方の根と同じならね」
セイルが甲板の黒い糸を凍らせた。
アーデルハイトの目が細くなる。
「同じものを見たことがあるの?」
「似たものです。話はあとで」
「帰ったら全部聞かせてもらうわ」
四基のうち一基が彼女の右脇へ移り、残る三基が背後で姿勢を保つ。
中心から細い火柱が放たれた。
火は黒い糸だけを焼き、死骸の肩を切り離す。
焦げた糸が身を捩った。
焼けながら、近くにある別の死骸へ先端を伸ばしていく。
「切っても、別の身体へつなぎ直すのか」
ローディスが呟く。
「なら、つなぐ先をなくせばいい」
女隊長が命じた。
「死骸を海へ落とせ! 術師は黒い筋を凍らせろ!」
兵士たちが槍を入れる。
ローディスも大剣の腹を死骸の下へ滑り込ませた。
持ち上げる。
一体分を切り離されても、残った塊が背中へ爪を振るった。
「ローディス、右!」
セイルの声が飛ぶ。
振り向くより先に、透明な氷板がローディスの右肩へ沿って現れた。
鉤爪が氷を砕く。
破片が頬を掠めた。
その間に身体を沈め、大剣を振り抜く。
死骸が船縁を越えた。
海へ落ちた身体を追って、黒い糸が大きく伸びる。
「今だよ」
リュカが、張り詰めた糸の上へ跳んだ。
細い身体が宙で一回転する。
踵が落ちた。
凍りついた黒い糸がまとめて砕ける。
死骸は波の下へ沈んだ。
残った塊が叫ぶ。
「タスケテ!」
「シニタクナイ!」
「置いていくな!」
最後の一声だけが、岩礁の石小屋から重なって聞こえた。
生きた人間が、同じ言葉を叫んでいる。
「隊長!」
ローディスは岩礁を見た。
「救助へ向かわせてください!」
「船へあれを残したままか?」
「僕が道を作る」
セイルが答えた。
新しい杖を岩礁へ向ける。
「ローディスとリュカを渡らせる。氷は僕が維持する」
「俺も船を離れれば、前が足りない」
「足りない分は、私が埋めるわ」
アーデルハイトが死骸の塊を見据えた。
「あなたより、少し派手にね」
「護衛対象を残していけません」
「守るのは人だけじゃないでしょう。任務も守りなさい」
右脇の輪の中心へ火が集まる。
「私はここで、船と試料を守る。あなたは生きている人を拾ってきて」
ふざけた笑みはなかった。
女隊長が短く考え、指を二本立てた。
「二人で行け。五分で戻れなければ船を離す」
「十分です」
「五分だ」
ローディスが言い直そうとするより先に、セイルが杖を振った。
左手の紋章から伝えた願いに応じ、海面から水が持ち上がる。
続けて右手の紋章へマナを流し、火の精霊に水から熱を退けてもらう。
波の上へ、岩礁まで続く氷の板が一枚ずつ生まれた。
完全な道ではない。
一歩分の足場が、間を空けて並んでいる。
「行け!」
ローディスとリュカが同時に船縁を蹴った。
◇
氷板は波に合わせて上下した。
ローディスが踏むたび、表面へ亀裂が走る。
「割れてるよ」
「分かっている!」
「次は右!」
リュカは二枚先を跳びながら言う。
背後で水音が弾けた。
死骸の塊から分かれた翼が、黒い糸に引かれて海面を走ってくる。
「先に行け!」
ローディスは氷板の上で振り返った。
大剣を横へ構える。
翼が飛びかかる。
刃で切れば、海へ散った肉片が新しい足場になるかもしれない。
大剣の腹で受け、そのまま海へ叩き戻す。
黒い糸が腕へ巻きつこうとした。
冷気が走る。
セイルの術が糸を凍らせた。
ローディスは大剣を捻り、砕く。
「助かった!」
船上のセイルは答えない。
死骸の塊を氷で押さえながら、岩礁までの足場も維持している。新しい杖の青い石が淡く光っていた。
消耗の回復を補ってはいる。
それでも、額にはもう汗が浮かんでいた。
ローディスは残る氷板を駆け、岩へ飛び移った。
◇
石小屋の扉は、内側から棚で塞がれていた。
「救助に来た! 生きているなら返事を!」
「ここだ!」
男の声が返る。
「三人いる! 一人は動けない!」
リュカが扉へ耳を寄せる。
「棚をどかせる?」
「無理だ! 床から黒いのが入ってくる!」
扉の下に、細い黒い筋が見えた。
岩の亀裂から小屋へ伸びている。
ローディスは大剣の先を隙間へ差し込んだ。
「中の人、扉から離れろ!」
返事を待ち、大剣を捻る。
蝶番が石壁から外れた。
棚ごと扉が内側へ倒れる。
小屋の中には男が三人いた。
一人は肩から血を流しながら短槍を握っている。
一人は壁へ背を預け、左脚を布で縛っていた。
最後の一人は、床へ横たわっている。
首筋に、黒い筋が浮かんでいた。
「触るな!」
短槍の男が叫ぶ。
「そいつの中に入ってる!」
倒れた男の口が開いた。
「タスケテ」
外の死骸と同じ声だった。
リュカがしゃがみ込む。
「生きてる」
首へ触れず、胸の上下を見る。
「でも、あれとつながってるね」
「切れば助けられるか」
ローディスが尋ねる。
「外だけ切っても、身体の中に残る」
短槍の男が首を振った。
「調査員が一人、それで死んだ。根を引き抜こうとしたら、中から血が――」
「じゃあ、凍らせて動きを止める」
リュカは小屋の外を見た。
「セイルを呼ぶ?」
ローディスも外を見る。
船上では、死骸の塊が再び形を変えていた。
甲板へ落ちた肉を集め、翼の代わりに長い腕を作っている。
セイルをこちらへ呼べば、捜索船がもたない。
「そちらに、氷を作れる術師は」
「一人は死んだ。もう一人がこいつだ」
短槍の男が、倒れた男を見た。
ローディスは歯を食いしばる。
三人を運ぶ。
黒い筋を止める。
五分以内に船へ戻る。
すべてを同時にはできない。
「ローディス」
リュカが穏やかな声で呼んだ。
「先に二人を運んで。僕がこの人を見てる」
「一人でどうする」
「考えるよ。セイルみたいに上手くはできないけどね」
「駄目だ」
「なら、この三人を置いて二人で考える?」
笑顔だった。
だが、譲る顔ではない。
ローディスは負傷した二人を見る。
「二人を船へ渡したら、すぐ戻る」
「うん」
「それまで、絶対に黒い筋へ触れるな」
「分かってる」
ローディスは脚を負傷した男を背負い、肩を傷めた男へ手を貸した。
「動けるか」
「岩の下に、まだある」
短槍の男が、息を切らしながら言った。
「何がだ」
「黒いのだ。あれは死骸に生えた一部にすぎない。岩の割れ目の奥に、脈打つ塊がある」
床を這っていた黒い筋が止まった。
次の瞬間、すべての先端がリュカへ向く。
倒れた男の口から、低い声が漏れた。
「オマエ、ナカニ、イル」




