第26話 黒い岩礁
「捜索船へ乗せてください」
アーデルハイトは、挨拶より先にそう言った。
共同戦線後方基地の港。
補給船から下ろされた荷箱を背に、彼女は迎えの兵士へ詰め寄っている。頭上にはすでにU字型装具が浮かび、四基の輪形杖も背後で低く回っていた。
「到着したばかりでしょう。まず基地司令部で事情を――」
「調査隊が消えた岩礁は、私たちの目的地よ。捜索と採取を別々に行う理由がある?」
「あります。捜索隊は人命の確認が最優先です」
兵士はアーデルハイトの後ろに並ぶ荷箱を見た。
「研究器具を積み込む余裕はありません」
「必要なのは、この箱一つだけ」
「先生、全部必要だと仰っていましたよね」
助手の一人が小声で言った。
「状況に応じて必要の意味は変わるの」
「都合よく変えているだけでは?」
アーデルハイトは聞こえなかったふりをした。
兵士はローディスたちへ視線を移す。
「そちらの三人も、捜索へ加わるのか」
「護衛として同行します」
ローディスが通行証を見せた。
「護衛契約は研究者の安全を守るためのものだ。捜索船へ乗るなら、現地ではこちらの指揮に従ってもらう」
「分かっています」
ローディスは答えてから、アーデルハイトを見た。
「捜索を優先します。採取は、生存者を連れ戻してからです」
「試料が失われたら?」
「人が死んでいたら、持ち帰れない」
アーデルハイトが眉を上げる。
「私が?」
「俺たちがです」
「君、研究者の扱いが下手ね」
「人の扱いなら、間違っていないと思います」
数秒、二人は向き合った。
先に息を吐いたのはアーデルハイトだった。
「分かったわ。人を拾う。帰る。改めて採る。それでいい?」
「現地が安全なら、救助に支障のない範囲で確認はできます」
兵士が言った。
「採取の可否は、現地の状況を見て捜索隊長が判断します。捜索船は一刻後に出る。それまでに司令部で説明を受けてください」
アーデルハイトは不満そうに唇を尖らせた。
「一刻も歩かなければならないの?」
「基地内で飛ぶつもりですか」
セイルが尋ねる。
「駄目なの?」
「船上で火を出した人には勧めません」
「二度も言わなくていいわよ」
「まだ一度も反省していないので」
◇
石造りの司令室には、大きな海図が広げられていた。
〈黒淵〉を示す円。その周囲へ、観測所、岩礁、航路、各国艦隊の担当海域が細かく書き込まれている。
採取予定地は、後方基地から南西へ半日ほどの場所にあった。
地図上では、爪の先ほどの岩だ。
「先行調査隊は六名」
捜索隊を率いる女隊長が説明する。
「船員二名、護衛兵二名、調査員二名。三日前の朝に出港し、同日夕刻までには戻る予定だった」
「三日も過ぎてから捜すんですか」
セイルが問う。
「昨日まで海が荒れていた。二日分の水と食料は積んでいる。岩礁には観測用の石小屋もある」
「信号は?」
「見張り台からは確認できていない」
女隊長は海図の岩礁へ小さな錘を置いた。
「十二日前、飛行種九体がこの周辺へ現れた。巡回艦が七体を討ち、二体は岩礁へ落ちた。その後、死骸と岩肌に黒い変質が確認された」
「先行調査隊の任務は、変質の範囲確認だけ?」
リュカが聞く。
「そうだ。採取や接触は禁じていた」
「守っていれば、ですけどね」
アーデルハイトが言った。
女隊長の目が細くなる。
「調査員の一人は、黒い変質物を最初に報告した者だ。危険性は理解している」
「理解と好奇心は、同じ頭の中にあるのよ」
「自分と一緒にしないでください」
助手が言う。
「研究者はみんな同じよ」
「俺は違います」
「あなたは助手だもの」
女隊長は咳払いをした。
「岩礁の周辺では、穴が開いた痕跡は確認されていない。ただし、昨日の荒天で観測精度は落ちている。捜索船には水の術師二名、風の術師一名、兵士八名が乗る」
「穴が開いた場合、封印は?」
ローディスが尋ねる。
「小規模なら同行する術師が閉じる。無理なら、位置を記録して撤退する。君たちも同じだ。救助できない状況なら、生存者を置いてでも戻る」
ローディスは返事をしなかった。
「ローディス」
セイルが横から呼ぶ。
「分かっている」
「分かっている顔じゃないね」
リュカも笑顔で覗き込んだ。
「状況を見て判断する」
「それを、分かっていないと言うんだよ」
女隊長が三人を見比べる。
「命令に従えない者は残れ」
「従います」
ローディスは今度こそ答えた。
救える者を見捨てるつもりはない。
だが、護衛対象と仲間まで危険へ巻き込むこともできない。
その二つが両立しない時、どちらを選ぶのか。
答えを出す前に、出港の鐘が鳴った。
◇
捜索船は、補給船より一回り小さかった。
速度を優先した細長い船体に、救助用の担架と水、薬、縄が積まれている。
アーデルハイトの助手は一人だけが同行した。もう一人は、大半の研究器具とともに基地へ残る。
「どうして僕が残るんですか」
「あなた、船酔いするでしょう?」
「昨日の航海で一度吐いただけです!」
「試料へ吐かれると困るもの」
「人命優先では!?」
岸壁から届いた抗議は、船が離れるにつれて小さくなった。
アーデルハイトは頭上の装具を止め、珍しく甲板へ足をつけていた。
「浮かないんですか」
ローディスが尋ねる。
「ここで風の流れを乱すと、帆の邪魔になるでしょう?」
「それは分かるんですね」
「私を何だと思っているの?」
「歩かない研究者です」
セイルが即答した。
アーデルハイトは何か言い返そうとして、やめた。
「あなた、顔はいいのに可愛げがないわ」
「研究所へ誘われないなら、そのままで結構です」
船は灰色の海を進んだ。
後方基地から離れるほど、行き交う船は少なくなる。
代わりに、海上へ突き出した石塔が見えるようになった。
観測所だ。
塔の上には風向計に似た金属具があり、その周囲を複数の紋章板が囲んでいる。
「穴をどうやって見つけるんだろう」
リュカが見上げた。
「水面と風の流れを監視する」
船尾にいた風の術師が答えた。
「穴が開く前には、周囲のマナが引かれ、波や風が不自然に集まることがある。必ずではないがな」
「精霊が教えてくれるわけじゃないんですか」
ローディスが聞く。
「教えてくれる精霊もいる。何も言わず逃げる精霊もいる。人族のために命を懸けて監視しているわけではない」
「契約していても?」
「契約は服従じゃない」
セイルが答えた。
「僕たちはマナを渡して、頼みを聞いてもらっているだけだ」
アーデルハイトが、少しだけ意外そうにセイルを見た。
「あなた、精霊に対しては真面目なのね」
「何だと思っていたんですか」
「お金にしか興味がない美男子」
「訂正してください」
「精霊とお金に興味がある美男子」
「もういいです」
半日後。
見張りが岩礁を捉えた。
◇
黒い岩が、海面から斜めに突き出している。
長さは大型船二隻ほど。中央の高所には、窓の小さな石小屋が建っていた。
浜はない。
波に削られた岩肌へ、先行調査隊の小船が引っかかっている。
帆柱は折れ、船腹には大きな穴が開いていた。
「座礁した壊れ方じゃない」
女隊長が望遠鏡を下ろす。
「外から破られている」
岩礁から信号は上がらない。
人影も見えなかった。
「生存者がいるなら、石小屋です」
兵士が言う。
「船を東側へ回せ。上陸班は準備!」
捜索船が岩礁へ近づく。
ローディスは大剣を背負い直した。
セイルは新しい杖の紋章板を、一枚ずつ指で確かめる。
リュカだけが、岩礁の海際を見ていた。
「何かいる?」
アーデルハイトが尋ねる。
「いないよ」
「なら、どうして笑っていないの?」
「いなさすぎるから」
海鳥すら降りていない。
岩に付くはずの貝も、浅瀬を泳ぐ小魚も見えなかった。
波だけが、黒い岩へ砕けている。
「待て」
セイルが船縁から身を乗り出した。
「あれは何だ」
先行調査隊の小船。
破れた船腹の内側で、何かが動いた。
黒い紐のようなものが、板の隙間から海へ伸びている。
一本。
二本。
波が引くたび、その数が増えた。
「苔じゃないね」
リュカが言った。
「少なくとも、あんな動き方は報告にないわ」
アーデルハイトの声から、ふざけた調子が消えていた。
黒い紐が、一斉に張る。
海面が盛り上がった。
「船を離せ!」
女隊長が叫ぶ。
水中から、先行調査隊の小船が持ち上がった。
その下にいたものが、姿を現す。
飛行種の死骸だった。
一体ではない。
翼、脚、胴、頭。
幾つもの死骸が黒い筋で縫い合わされ、一つの巨大な塊となっている。
五つの口が、別々に開いた。
「タスケテ」
「イタイ」
「コッチダ」
人の声が重なる。
その中に、一つだけ、はっきりした叫びがあった。
「逃げろ! そいつは俺たちの声を――!」
声は石小屋から聞こえた。
生存者がいる。
次の瞬間、死骸の塊が小船を投げつけた。
「セイル!」
ローディスが叫ぶ。
「分かってる!」
セイルは右手の指二本を、同時に紋章板へ押し当てた。
捜索船の前へ、幾重もの氷が立ち上がる。
小船が激突した。
一枚目が砕ける。
二枚目も割れる。
三枚目の氷壁が、折れた帆柱を受け止めた。
衝撃で捜索船が大きく傾く。
「右へ重心を寄せろ!」
兵士たちが走る。
ローディスは荷箱を押さえ、リュカは船縁から落ちかけた助手の襟を掴んだ。
アーデルハイトの身体が宙へ浮く。
「最初に言っておくわ」
頭上の装具へ雷が走り、四基のうち一基が彼女の右脇へ並ぶ。残る三基は背後で傾きを変え、浮いた身体を支えていた。
「あれ、壊す前に少し欲しい」
「人を助けるのが先です!」
ローディスが叫ぶ。
「分かってるわよ!」
死骸の塊が岩礁を蹴った。
黒い筋を引きずりながら、捜索船へ跳びかかってくる。




