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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第26話 黒い岩礁

「捜索船へ乗せてください」


 アーデルハイトは、挨拶より先にそう言った。


 共同戦線後方基地の港。


 補給船から下ろされた荷箱を背に、彼女は迎えの兵士へ詰め寄っている。頭上にはすでにU字型装具が浮かび、四基の輪形杖も背後で低く回っていた。


「到着したばかりでしょう。まず基地司令部で事情を――」


「調査隊が消えた岩礁は、私たちの目的地よ。捜索と採取を別々に行う理由がある?」


「あります。捜索隊は人命の確認が最優先です」


 兵士はアーデルハイトの後ろに並ぶ荷箱を見た。


「研究器具を積み込む余裕はありません」


「必要なのは、この箱一つだけ」


「先生、全部必要だと仰っていましたよね」


 助手の一人が小声で言った。


「状況に応じて必要の意味は変わるの」


「都合よく変えているだけでは?」


 アーデルハイトは聞こえなかったふりをした。


 兵士はローディスたちへ視線を移す。


「そちらの三人も、捜索へ加わるのか」


「護衛として同行します」


 ローディスが通行証を見せた。


「護衛契約は研究者の安全を守るためのものだ。捜索船へ乗るなら、現地ではこちらの指揮に従ってもらう」


「分かっています」


 ローディスは答えてから、アーデルハイトを見た。


「捜索を優先します。採取は、生存者を連れ戻してからです」


「試料が失われたら?」


「人が死んでいたら、持ち帰れない」


 アーデルハイトが眉を上げる。


「私が?」


「俺たちがです」


「君、研究者の扱いが下手ね」


「人の扱いなら、間違っていないと思います」


 数秒、二人は向き合った。


 先に息を吐いたのはアーデルハイトだった。


「分かったわ。人を拾う。帰る。改めて採る。それでいい?」


「現地が安全なら、救助に支障のない範囲で確認はできます」


 兵士が言った。


「採取の可否は、現地の状況を見て捜索隊長が判断します。捜索船は一刻後に出る。それまでに司令部で説明を受けてください」


 アーデルハイトは不満そうに唇を尖らせた。


「一刻も歩かなければならないの?」


「基地内で飛ぶつもりですか」


 セイルが尋ねる。


「駄目なの?」


「船上で火を出した人には勧めません」


「二度も言わなくていいわよ」


「まだ一度も反省していないので」


     ◇


 石造りの司令室には、大きな海図が広げられていた。


 〈黒淵(こくえん)〉を示す円。その周囲へ、観測所、岩礁、航路、各国艦隊の担当海域が細かく書き込まれている。


 採取予定地は、後方基地から南西へ半日ほどの場所にあった。


 地図上では、爪の先ほどの岩だ。


「先行調査隊は六名」


 捜索隊を率いる女隊長が説明する。


「船員二名、護衛兵二名、調査員二名。三日前の朝に出港し、同日夕刻までには戻る予定だった」


「三日も過ぎてから捜すんですか」


 セイルが問う。


「昨日まで海が荒れていた。二日分の水と食料は積んでいる。岩礁には観測用の石小屋もある」


「信号は?」


「見張り台からは確認できていない」


 女隊長は海図の岩礁へ小さな錘を置いた。


「十二日前、飛行種九体がこの周辺へ現れた。巡回艦が七体を討ち、二体は岩礁へ落ちた。その後、死骸と岩肌に黒い変質が確認された」


「先行調査隊の任務は、変質の範囲確認だけ?」


 リュカが聞く。


「そうだ。採取や接触は禁じていた」


「守っていれば、ですけどね」


 アーデルハイトが言った。


 女隊長の目が細くなる。


「調査員の一人は、黒い変質物を最初に報告した者だ。危険性は理解している」


「理解と好奇心は、同じ頭の中にあるのよ」


「自分と一緒にしないでください」


 助手が言う。


「研究者はみんな同じよ」


「俺は違います」


「あなたは助手だもの」


 女隊長は咳払いをした。


「岩礁の周辺では、穴が開いた痕跡は確認されていない。ただし、昨日の荒天で観測精度は落ちている。捜索船には水の術師二名、風の術師一名、兵士八名が乗る」


「穴が開いた場合、封印は?」


 ローディスが尋ねる。


「小規模なら同行する術師が閉じる。無理なら、位置を記録して撤退する。君たちも同じだ。救助できない状況なら、生存者を置いてでも戻る」


 ローディスは返事をしなかった。


「ローディス」


 セイルが横から呼ぶ。


「分かっている」


「分かっている顔じゃないね」


 リュカも笑顔で覗き込んだ。


「状況を見て判断する」


「それを、分かっていないと言うんだよ」


 女隊長が三人を見比べる。


「命令に従えない者は残れ」


「従います」


 ローディスは今度こそ答えた。


 救える者を見捨てるつもりはない。


 だが、護衛対象と仲間まで危険へ巻き込むこともできない。


 その二つが両立しない時、どちらを選ぶのか。


 答えを出す前に、出港の鐘が鳴った。


     ◇


 捜索船は、補給船より一回り小さかった。


 速度を優先した細長い船体に、救助用の担架と水、薬、縄が積まれている。


 アーデルハイトの助手は一人だけが同行した。もう一人は、大半の研究器具とともに基地へ残る。


「どうして僕が残るんですか」


「あなた、船酔いするでしょう?」


「昨日の航海で一度吐いただけです!」


「試料へ吐かれると困るもの」


「人命優先では!?」


 岸壁から届いた抗議は、船が離れるにつれて小さくなった。


 アーデルハイトは頭上の装具を止め、珍しく甲板へ足をつけていた。


「浮かないんですか」


 ローディスが尋ねる。


「ここで風の流れを乱すと、帆の邪魔になるでしょう?」


「それは分かるんですね」


「私を何だと思っているの?」


「歩かない研究者です」


 セイルが即答した。


 アーデルハイトは何か言い返そうとして、やめた。


「あなた、顔はいいのに可愛げがないわ」


「研究所へ誘われないなら、そのままで結構です」


 船は灰色の海を進んだ。


 後方基地から離れるほど、行き交う船は少なくなる。


 代わりに、海上へ突き出した石塔が見えるようになった。


 観測所だ。


 塔の上には風向計に似た金属具があり、その周囲を複数の紋章板が囲んでいる。


「穴をどうやって見つけるんだろう」


 リュカが見上げた。


「水面と風の流れを監視する」


 船尾にいた風の術師が答えた。


「穴が開く前には、周囲のマナが引かれ、波や風が不自然に集まることがある。必ずではないがな」


「精霊が教えてくれるわけじゃないんですか」


 ローディスが聞く。


「教えてくれる精霊もいる。何も言わず逃げる精霊もいる。人族のために命を懸けて監視しているわけではない」


「契約していても?」


「契約は服従じゃない」


 セイルが答えた。


「僕たちはマナを渡して、頼みを聞いてもらっているだけだ」


 アーデルハイトが、少しだけ意外そうにセイルを見た。


「あなた、精霊に対しては真面目なのね」


「何だと思っていたんですか」


「お金にしか興味がない美男子」


「訂正してください」


「精霊とお金に興味がある美男子」


「もういいです」


 半日後。


 見張りが岩礁を捉えた。


     ◇


 黒い岩が、海面から斜めに突き出している。


 長さは大型船二隻ほど。中央の高所には、窓の小さな石小屋が建っていた。


 浜はない。


 波に削られた岩肌へ、先行調査隊の小船が引っかかっている。


 帆柱は折れ、船腹には大きな穴が開いていた。


「座礁した壊れ方じゃない」


 女隊長が望遠鏡を下ろす。


「外から破られている」


 岩礁から信号は上がらない。


 人影も見えなかった。


「生存者がいるなら、石小屋です」


 兵士が言う。


「船を東側へ回せ。上陸班は準備!」


 捜索船が岩礁へ近づく。


 ローディスは大剣を背負い直した。


 セイルは新しい杖の紋章板を、一枚ずつ指で確かめる。


 リュカだけが、岩礁の海際を見ていた。


「何かいる?」


 アーデルハイトが尋ねる。


「いないよ」


「なら、どうして笑っていないの?」


「い(・)な(・)さ(・)す(・)ぎ(・)る(・)から」


 海鳥すら降りていない。


 岩に付くはずの貝も、浅瀬を泳ぐ小魚も見えなかった。


 波だけが、黒い岩へ砕けている。


「待て」


 セイルが船縁から身を乗り出した。


「あれは何だ」


 先行調査隊の小船。


 破れた船腹の内側で、何かが動いた。


 黒い紐のようなものが、板の隙間から海へ伸びている。


 一本。


 二本。


 波が引くたび、その数が増えた。


「苔じゃないね」


 リュカが言った。


「少なくとも、あんな動き方は報告にないわ」


 アーデルハイトの声から、ふざけた調子が消えていた。


 黒い紐が、一斉に張る。


 海面が盛り上がった。


「船を離せ!」


 女隊長が叫ぶ。


 水中から、先行調査隊の小船が持ち上がった。


 その下にいたものが、姿を現す。


 飛行種の死骸だった。


 一体ではない。


 翼、脚、胴、頭。


 幾つもの死骸が黒い筋で縫い合わされ、一つの巨大な塊となっている。


 五つの口が、別々に開いた。


「タスケテ」


「イタイ」


「コッチダ」


 人の声が重なる。


 その中に、一つだけ、はっきりした叫びがあった。


「逃げろ! そいつは俺たちの声を――!」


 声は石小屋から聞こえた。


 生存者がいる。


 次の瞬間、死骸の塊が小船を投げつけた。


「セイル!」


 ローディスが叫ぶ。


「分かってる!」


 セイルは右手の指二本を、同時に紋章板へ押し当てた。


 捜索船の前へ、幾重もの氷が立ち上がる。


 小船が激突した。


 一枚目が砕ける。


 二枚目も割れる。


 三枚目の氷壁が、折れた帆柱を受け止めた。


 衝撃で捜索船が大きく傾く。


「右へ重心を寄せろ!」


 兵士たちが走る。


 ローディスは荷箱を押さえ、リュカは船縁から落ちかけた助手の襟を掴んだ。


 アーデルハイトの身体が宙へ浮く。


「最初に言っておくわ」


 頭上の装具へ雷が走り、四基のうち一基が彼女の右脇へ並ぶ。残る三基は背後で傾きを変え、浮いた身体を支えていた。


「あれ、壊す前に少し欲しい」


「人を助けるのが先です!」


 ローディスが叫ぶ。


「分かってるわよ!」


 死骸の塊が岩礁を蹴った。


 黒い筋を引きずりながら、捜索船へ跳びかかってくる。


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