第25話 世界で最も遠い場所
帝都を発って半日。
共同戦線の補給隊は、海へ向かう街道を進んでいた。
荷馬車が十台。その前後を帝国兵が固め、主人公たちは中央近くの馬車へ乗せられている。
正確には、乗っているのはローディスとセイルだけだった。
リュカは馬車の後部へ腰掛け、揺れる足を眺めている。
アーデルハイトは荷台の上に浮いていた。
「座った方が楽じゃないですか」
ローディスが尋ねる。
「腰が痛くなるもの」
「浮いている方が疲れると思うけど」
リュカが言うと、彼女は頭上のU字型装具を指先で示した。
「風に身体を預けて、雷で姿勢を直しているだけよ。歩くよりずっと楽だわ」
「マナは減るだろう」
セイルの問いに、アーデルハイトは微笑んだ。
「なくなる前に助手からもらうから平気」
前の馬車に乗っていた助手二人が、同時に振り返った。
「初耳です!」
「冗談よ。半分は」
荷台の縁を車輪が強く跳ねる。
木箱が傾き、ローディスは片手で押さえた。中には採取瓶や保存液が詰められている。落とせば旅が始まる前に任務が終わる。
「あら」
アーデルハイトが、その腕へ目を留めた。
「細い子ばかり選んできたけれど、たくましい男の子も悪くないわね」
彼女の手がローディスの上腕へ伸びる。
ローディスは箱を押さえたまま、身体だけを引いた。
「何をするんですか」
「筋肉の硬さを確かめようかと」
「護衛に必要ですか」
「私の研究には、どんな身体も参考になるわ」
「先生」
助手の一人が低い声で呼んだ。
「分かったわよ。触らない」
アーデルハイトは浮いたまま向きを変え、今度はセイルを見下ろした。
「あなたは顔がいいわね」
「どうも」
「うちの研究所へ来ない? 美男子は何人いても研究環境を損なわないわ」
「仕事内容と給金によります」
ローディスがセイルを見る。
「断らないのか」
「条件を聞かずに断る理由もない」
「寝台と食事つき。研究補助から被験者まで、適性を見て配置するわ」
「最後の一つで候補から外してください」
「残念」
アーデルハイトは本当に残念そうだった。
その視線が、荷台の後ろへ移る。
「それで、あなた」
「僕?」
「名簿を見たわ。男の子だったのね」
リュカが首を傾げる。
「昨日から男だとは言ってないけど、隠してもいないよ」
「可愛い女の子も好きだけれど、可愛い男の子も好きよ。問題ないわ」
「何の問題?」
「私の好みの話」
「護衛任務には問題しかなさそうだね」
リュカは笑ったまま、伸びてきた手を僅かに身体を傾けて避けた。
アーデルハイトの指は空を切る。
「今、避けた?」
「馬車が揺れたんじゃないかな」
「揺れてないわ」
「なら、風だね」
彼女はしばらくリュカを見つめたが、やがて楽しそうに笑った。
「三人とも、思っていたより退屈しなさそう」
「俺たちは護衛です」
「ええ。だから、ちゃんと働いてもらうわ」
「何を研究しているんですか」
ローディスが尋ねた。
「採取する黒いものの話ではなく、普段の研究です」
「命よ」
アーデルハイトは即座に答えた。
「正確には、命がどういう仕組みで生まれ、身体を一つの生き物として動かしているのか。それを理解するために、新しい命を一から作ろうとしているの」
「理解するために、作るんですか」
ローディスが聞き返す。
「壊して中を見るだけでは、部品の形しか分からないでしょう? 同じものを組み上げ、命として動かせて初めて、仕組みを理解したと言えるわ」
「今は、どこまでできているんですか」
セイルが尋ねた。
「器官を作り、傷んだ部分を修復し、つなぎ合わせるところまで。けれど、心臓を動かして血を巡らせても、それだけでは新しい命にならない」
アーデルハイトは浮いたまま、自分の胸元へ指を当てた。
「生きた身体と、死んだばかりの身体。同じ形が残っているのに、片方にだけあって、もう片方から失われるものがある。私はそれを知りたいのよ」
「分かれば、何ができるんですか」
ローディスが尋ねる。
「死者の蘇生」
返答に迷いはなかった。
「老いや病で失われるものを補えれば、寿命を延ばすこともできる。もちろん、今すぐ死者を起こせるという話ではないわ。命の仕組みを理解した先に、そういう可能性があるということ」
「それだけ?」
リュカが荷台の後ろから尋ねた。
アーデルハイトは、よく聞いてくれたと言うように微笑んだ。
「私の理想をすべて備えた男性を、一から作れるかもしれないわ」
「急に目的が小さくなったね」
「大きいわよ。顔、身体、声、性格。そのすべてを理想どおりに備え、私だけを愛する男性よ」
「命の研究で、性格まで作るつもりですか」
セイルが尋ねる。
「そのためにも、身体だけでは足りないものの正体を知らないとね」
助手二人は前の馬車から話を聞き、揃って遠い目をしていた。
「先生。その研究目的は、共同戦線では話さないでください」
助手の一人が言った。
「蘇生と延命の方?」
「理想の男性の方です」
「どうして? 一番分かりやすいでしょう」
「分かりやすいからです」
アーデルハイトは納得していない顔をしたが、それ以上は反論しなかった。
アーデルハイトが進行方向を指す。
丘の向こうに、細い青が見え始めていた。
◇
港へ着いたのは、翌日の昼だった。
帝都近郊の商港とは違い、岸壁に並ぶのは灰色の軍船と補給船ばかりだった。
積み込まれるのは食料、薬、武器、紋章具。下ろされる木箱には、破損品を示す赤い縄が巻かれている。
旗も一種類ではない。
ヴァルグレン帝国の黒銀旗。その隣に、形も色も異なる諸国の旗が並んでいた。
「ここから先は、帝国だけの戦場じゃないのね」
アーデルハイトが言う。
「〈黒淵〉に近づくほど、各国の担当区域が重なる。船と物資は共同戦線の命令で動くそうです」
セイルは通行証とともに渡された案内書を折り畳んだ。
「仲がいいんだね」
リュカが見上げる。
「同じ敵を見ている間は、だろう」
ローディスの言葉に、アーデルハイトが頷いた。
「人族同士の戦争を止めた時期は国ごとに違うわ。早い国でも二十年ほど前。遅い国では、ほんの五年ほど前まで隣国と争っていたもの」
「侵攻が始まったのは、およそ五十年前だったはずだ」
「最初は、穴から何かが出たという報告が散発する程度だった。国境の小競り合いをやめるほどの脅威だとは、誰も考えなかったのよ」
彼女は海の先へ視線を向けた。
「穴は増え、魔物の数も増えた。小国から順に、人族同士で争っている余裕を失った。それでも、帝国や光の国のような強国は決断が遅かったわ。攻められることに慣れていなかったから」
「黒淵そのものから、魔物が出てくるわけじゃないんですよね」
ローディスが確認する。
「ええ。〈黒淵〉は精霊の障壁に覆われている。魔族や魔物は、障壁の外へ別の小さな穴を開けて侵入してくる」
北方の礼拝堂に開いた穴が脳裏をよぎった。
あれは帝国の術師によって閉じられた。
だが、〈黒淵〉の周辺では同じことが繰り返されている。
「だったら、黒淵から離れて守ればいいんじゃない?」
リュカが尋ねた。
「穴がどこへ開くか、完全には読めないからよ。ただし、〈黒淵〉に近い海域ほど発生が多い。だから各国は周囲へ艦隊と観測所を置き、開いた穴を見つけ次第、封鎖する」
「今回の採取場所も、その近くか」
セイルが言う。
「後方基地から小型船で半日ほど。少し前に飛行種の群れが現れた岩礁よ。討伐後、岩や死骸に黒いものが広がった」
「少し前って、何日前ですか」
「採取報告が出たのは十二日前」
「数日で崩れるんじゃなかったのか」
「削り取ったものはね。現地に残っている分なら、まだ期待できるわ」
セイルは目を細めた。
「先に言ってください」
「聞かれなかったもの」
「護衛に必要な情報です」
「なら、これからは何でも聞いて。年齢でも、好みでも、寝る時の――」
「研究対象について聞きます」
係官が乗船を告げる鐘を鳴らした。
話を打ち切り、六人は共同戦線の補給船へ向かった。
◇
海へ出て三日目。
陸はすでに見えなくなっていた。
補給船は二隻の護衛艦に挟まれ、一定の間隔を保って進んでいる。
見張り台から鐘が鳴った。
一度。
間を置いて、二度。
「右舷上空、飛行種!」
船上の空気が変わる。
兵士たちが弓と杖を取り、荷運びをしていた者は木箱を固定する。
雲の下に、黒い点が五つ見えた。
鳥に似ている。
だが、近づくほど形の違いが明らかになった。
羽毛はなく、骨ばった四枚の翼へ薄い膜が張られている。胴は細長く、前脚の先には三本の鉤爪が伸びていた。
「あれが魔物か」
ローディスが大剣を抜く。
「たぶん低位種だよ」
リュカは笑みを消し、船縁へ近づいた。
「形が揃ってない」
同じ群れでも、翼の大きさも脚の数も違っている。
先頭の一体だけは左右対称に近い。後ろの四体は、肉と骨を無理に継ぎ足したように歪んでいた。
「研究者と荷を中央へ!」
兵士が叫ぶ。
「嫌よ。近くで見たいわ」
アーデルハイトの頭上へ装具が浮かぶ。
「護衛対象が前へ出るな」
ローディスが立ちはだかった。
「たくましいのは好きだけれど、邪魔をする男は嫌われるわよ」
「構いません」
一体が翼を畳んだ。
甲板へ向けて急降下する。
セイルは新しい杖を両手で握った。右の人差し指を窪みへ押し当て、紋章板へマナを流す。
精霊語は発しない。
杖の先を起点に、空中へ薄い氷の板が生まれた。
魔物の前脚が氷を突き破る。
勢いは殺し切れない。
だが、落下の向きが僅かにずれた。
「十分だ!」
ローディスが踏み込む。
大剣の腹で魔物の胴を打ち、甲板へ叩き落とした。
木板が軋む。
鉤爪がローディスの肩を狙うより早く、リュカの踵が首へ落ちた。
細い首が甲板へ沈む。
「一体!」
セイルが叫ぶ。
「左から二体来る!」
兵士の放った矢が空へ伸びる。
一体は翼を射抜かれ、海へ落ちた。
もう一体が矢の間を抜ける。
狙いは人ではない。
甲板中央に固定された、アーデルハイトの荷箱だった。
「採取器具を狙っている?」
ローディスが向きを変える。
「違う。中の保存液よ!」
アーデルハイトの背後へ、四基の金色の輪が滑り込んだ。
それぞれから火柱が噴き出す。
彼女の身体が甲板すれすれを飛び、魔物より先に荷箱へ達した。
四基のうち一基が手のひらの前へ移り、残る三基は背後で姿勢を支える。
「これは、私のよ」
今度の火柱は細く絞られていた。
魔物の胸を焼き抜き、空へ押し返す。
「先生!」
助手たちが悲鳴を上げた。
「船上で火を出すなと言われてたよね」
リュカが言う。
「輸送所では、でしょう?」
「船でもだ!」
甲板長の怒声が飛んだ。
残る二体が旋回する。
そのうち、形の整った一体が口を開いた。
「――ミツケタ」
人の声だった。
誰も、すぐには動けなかった。
低く掠れた声が、もう一度響く。
「ソレ、モッテコイ」
歪んだ一体が荷箱へ向かう。
「人語を話す魔物……」
ローディスが呟く。
「驚くのは後だ!」
セイルが杖を振る。
左手の中指を紋章板へ当てた。
海面から水が持ち上がり、魔物の翼へ絡みつく。続けて右手の薬指へマナを流すと、水から熱が退けられた。
翼の半分が凍りつく。
落ちてくる魔物へ、ローディスが大剣を振り上げた。
刃ではなく、峰が腹を捉える。
魔物は甲板を跳ね、船縁へ激突した。
リュカが床を蹴る。
形の整った一体は、それを見て旋回した。
「オマエ――」
言葉の続きは、蹴りに潰された。
翼の付け根が折れ、魔物が海へ落ちる。
リュカは船縁へ片足を掛けたまま、水面を見下ろした。
黒い影はすぐに波の下へ消えた。
「追うな!」
甲板長が命じる。
「周囲を警戒しろ。穴が近くに開いている可能性がある!」
護衛艦から、返答の鐘が鳴る。
それ以上の襲撃はなかった。
◇
甲板に残った魔物の死骸は、兵士たちによって鎖で縛られた。
焼けた胸の周囲から、黒い液が滲んでいる。
アーデルハイトは顔を近づけた。
「触らないでください」
セイルが杖で彼女を制した。
「分かっているわよ」
「今、素手を伸ばしていた」
「手袋を取りにいこうと思っただけ」
「手とは逆の方向にあります」
アーデルハイトは答えず、死骸の指先を見た。
「保存液を狙ったのは偶然かしら」
「あれには何が入っているんですか」
ローディスが尋ねる。
「命の精霊術で、生きた組織を保ちやすくするための調合液よ。血、樹液、薬草。それと、私のマナを少し染み込ませてある」
「それを感じたのかもしれないね」
リュカは濡れた靴底を甲板へ戻した。
「でも、命令した方は荷箱を知っていたみたいだ」
「飛行種が荷物を奪おうとする例はあります」
甲板長が険しい顔で言った。
「人語を使う個体も、前線では報告されている。珍しくはあるが、初めてではない」
「捕らえて話を聞いた例は?」
セイルが問う。
「生きたまま船へ縛りつけられると思うなら、試せばいい」
甲板長は死骸を指した。
「ただし、仲間を呼ばれて船ごと沈む覚悟でな」
実際に捕らえ、目的を聞き出した記録はない。
授業で聞いた説明と同じだった。
ローディスは海へ落ちた魔物を思い返した。
あれは、リュカを見て何かを言おうとしていた。
だが、聞き取れた者はいない。
「ところで」
アーデルハイトがセイルの杖を見た。
「新しい杖、悪くないわね。紋章板を私の装具につないであげましょうか。考えるだけで十種を切り替えられるわ」
「結構です」
「給金も出すわよ」
「研究所へ行く話は断りました」
「被験者は嫌だと言っただけでしょう?」
「今、全部断ります」
補給船が進路を戻す。
夕暮れが近づいた頃、前方の見張りが声を上げた。
「後方基地を確認!」
水平線の先に、低い建物と石壁が見えた。
いくつもの国旗が、海風の中で同じ方向へなびいている。
そして、そのさらに向こう。
海と空の境に、巨大な薄い膜を伏せたようなものがあった。
遠すぎて、内側は見えない。
ただ、周囲の景色だけが、そこを避けるように僅かに歪んでいる。
「あれが」
ローディスの声が低くなる。
「〈黒淵〉よ」
アーデルハイトが答えた。
誰も、しばらく言葉を続けなかった。
世界で最も大きな穴。
人族が、その向こう側をほとんど知らない場所。
補給船が港へ入る直前、基地の鐘が鳴った。
襲撃を告げる鐘ではない。
帰投予定を過ぎた隊へ、捜索船を出す合図だった。
「どの隊ですか」
甲板長が、迎えに来た兵へ尋ねた。
兵士は乗船名簿を確かめ、アーデルハイトを見た。
「十二日前の飛行種を調べていた先行調査隊です」
その言葉に、彼女の笑みが消える。
「場所は」
「あなた方が向かう予定だった岩礁です」
採取対象が残っている場所。
そこから戻るはずの船が、まだ戻っていなかった。




