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黒淵のアストラ  作者: 咢
第3章 胎動

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第25話 世界で最も遠い場所

 帝都を発って半日。


 共同戦線の補給隊は、海へ向かう街道を進んでいた。


 荷馬車が十台。その前後を帝国兵が固め、主人公たちは中央近くの馬車へ乗せられている。


 正確には、乗っているのはローディスとセイルだけだった。


 リュカは馬車の後部へ腰掛け、揺れる足を眺めている。


 アーデルハイトは荷台の上に浮いていた。


「座った方が楽じゃないですか」


 ローディスが尋ねる。


「腰が痛くなるもの」


「浮いている方が疲れると思うけど」


 リュカが言うと、彼女は頭上のU字型装具を指先で示した。


「風に身体を預けて、雷で姿勢を直しているだけよ。歩くよりずっと楽だわ」


「マナは減るだろう」


 セイルの問いに、アーデルハイトは微笑んだ。


「なくなる前に助手からもらうから平気」


 前の馬車に乗っていた助手二人が、同時に振り返った。


「初耳です!」


「冗談よ。半分は」


 荷台の縁を車輪が強く跳ねる。


 木箱が傾き、ローディスは片手で押さえた。中には採取瓶や保存液が詰められている。落とせば旅が始まる前に任務が終わる。


「あら」


 アーデルハイトが、その腕へ目を留めた。


「細い子ばかり選んできたけれど、たくましい男の子も悪くないわね」


 彼女の手がローディスの上腕へ伸びる。


 ローディスは箱を押さえたまま、身体だけを引いた。


「何をするんですか」


「筋肉の硬さを確かめようかと」


「護衛に必要ですか」


「私の研究には、どんな身体も参考になるわ」


「先生」


 助手の一人が低い声で呼んだ。


「分かったわよ。触らない」


 アーデルハイトは浮いたまま向きを変え、今度はセイルを見下ろした。


「あなたは顔がいいわね」


「どうも」


「うちの研究所へ来ない? 美男子は何人いても研究環境を損なわないわ」


「仕事内容と給金によります」


 ローディスがセイルを見る。


「断らないのか」


「条件を聞かずに断る理由もない」


「寝台と食事つき。研究補助から被験者まで、適性を見て配置するわ」


「最後の一つで候補から外してください」


「残念」


 アーデルハイトは本当に残念そうだった。


 その視線が、荷台の後ろへ移る。


「それで、あなた」


「僕?」


「名簿を見たわ。男の子だったのね」


 リュカが首を傾げる。


「昨日から男だとは言ってないけど、隠してもいないよ」


「可愛い女の子も好きだけれど、可愛い男の子も好きよ。問題ないわ」


「何の問題?」


「私の好みの話」


「護衛任務には問題しかなさそうだね」


 リュカは笑ったまま、伸びてきた手を僅かに身体を傾けて避けた。


 アーデルハイトの指は空を切る。


「今、避けた?」


「馬車が揺れたんじゃないかな」


「揺れてないわ」


「なら、風だね」


 彼女はしばらくリュカを見つめたが、やがて楽しそうに笑った。


「三人とも、思っていたより退屈しなさそう」


「俺たちは護衛です」


「ええ。だから、ちゃんと働いてもらうわ」


「何を研究しているんですか」


 ローディスが尋ねた。


「採取する黒いものの話ではなく、普段の研究です」


「命よ」


 アーデルハイトは即座に答えた。


「正確には、命がどういう仕組みで生まれ、身体を一つの生き物として動かしているのか。それを理解するために、新しい命を一から作ろうとしているの」


「理解するために、作るんですか」


 ローディスが聞き返す。


「壊して中を見るだけでは、部品の形しか分からないでしょう? 同じものを組み上げ、命として動かせて初めて、仕組みを理解したと言えるわ」


「今は、どこまでできているんですか」


 セイルが尋ねた。


「器官を作り、傷んだ部分を修復し、つなぎ合わせるところまで。けれど、心臓を動かして血を巡らせても、それだけでは新しい命にならない」


 アーデルハイトは浮いたまま、自分の胸元へ指を当てた。


「生きた身体と、死んだばかりの身体。同じ形が残っているのに、片方にだけあって、もう片方から失われるものがある。私はそれを知りたいのよ」


「分かれば、何ができるんですか」


 ローディスが尋ねる。


「死者の蘇生」


 返答に迷いはなかった。


「老いや病で失われるものを補えれば、寿命を延ばすこともできる。もちろん、今すぐ死者を起こせるという話ではないわ。命の仕組みを理解した先に、そういう可能性があるということ」


「それだけ?」


 リュカが荷台の後ろから尋ねた。


 アーデルハイトは、よく聞いてくれたと言うように微笑んだ。


「私の理想をすべて備えた男性を、一から作れるかもしれないわ」


「急に目的が小さくなったね」


「大きいわよ。顔、身体、声、性格。そのすべてを理想どおりに備え、私だけを愛する男性よ」


「命の研究で、性格まで作るつもりですか」


 セイルが尋ねる。


「そのためにも、身体だけでは足りないものの正体を知らないとね」


 助手二人は前の馬車から話を聞き、揃って遠い目をしていた。


「先生。その研究目的は、共同戦線では話さないでください」


 助手の一人が言った。


「蘇生と延命の方?」


「理想の男性の方です」


「どうして? 一番分かりやすいでしょう」


「分かりやすいからです」


 アーデルハイトは納得していない顔をしたが、それ以上は反論しなかった。


 アーデルハイトが進行方向を指す。


 丘の向こうに、細い青が見え始めていた。


     ◇


 港へ着いたのは、翌日の昼だった。


 帝都近郊の商港とは違い、岸壁に並ぶのは灰色の軍船と補給船ばかりだった。


 積み込まれるのは食料、薬、武器、紋章具。下ろされる木箱には、破損品を示す赤い縄が巻かれている。


 旗も一種類ではない。


 ヴァルグレン帝国の黒銀旗。その隣に、形も色も異なる諸国の旗が並んでいた。


「ここから先は、帝国だけの戦場じゃないのね」


 アーデルハイトが言う。


「〈黒淵(こくえん)〉に近づくほど、各国の担当区域が重なる。船と物資は共同戦線の命令で動くそうです」


 セイルは通行証とともに渡された案内書を折り畳んだ。


「仲がいいんだね」


 リュカが見上げる。


「同じ敵を見ている間は、だろう」


 ローディスの言葉に、アーデルハイトが頷いた。


「人族同士の戦争を止めた時期は国ごとに違うわ。早い国でも二十年ほど前。遅い国では、ほんの五年ほど前まで隣国と争っていたもの」


「侵攻が始まったのは、およそ五十年前だったはずだ」


「最初は、穴から何かが出たという報告が散発する程度だった。国境の小競り合いをやめるほどの脅威だとは、誰も考えなかったのよ」


 彼女は海の先へ視線を向けた。


「穴は増え、魔物の数も増えた。小国から順に、人族同士で争っている余裕を失った。それでも、帝国や光の国のような強国は決断が遅かったわ。攻められることに慣れていなかったから」


「黒淵そのものから、魔物が出てくるわけじゃないんですよね」


 ローディスが確認する。


「ええ。〈黒淵〉は精霊の障壁に覆われている。魔族や魔物は、障壁の外へ別の小さな穴を開けて侵入してくる」


 北方の礼拝堂に開いた穴が脳裏をよぎった。


 あれは帝国の術師によって閉じられた。


 だが、〈黒淵〉の周辺では同じことが繰り返されている。


「だったら、黒淵から離れて守ればいいんじゃない?」


 リュカが尋ねた。


「穴がどこへ開くか、完全には読めないからよ。ただし、〈黒淵〉に近い海域ほど発生が多い。だから各国は周囲へ艦隊と観測所を置き、開いた穴を見つけ次第、封鎖する」


「今回の採取場所も、その近くか」


 セイルが言う。


「後方基地から小型船で半日ほど。少し前に飛行種の群れが現れた岩礁よ。討伐後、岩や死骸に黒いものが広がった」


「少し前って、何日前ですか」


「採取報告が出たのは十二日前」


「数日で崩れるんじゃなかったのか」


「削り取ったものはね。現地に残っている分なら、まだ期待できるわ」


 セイルは目を細めた。


「先に言ってください」


「聞かれなかったもの」


「護衛に必要な情報です」


「なら、これからは何でも聞いて。年齢でも、好みでも、寝る時の――」


「研究対象について聞きます」


 係官が乗船を告げる鐘を鳴らした。


 話を打ち切り、六人は共同戦線の補給船へ向かった。


     ◇


 海へ出て三日目。


 陸はすでに見えなくなっていた。


 補給船は二隻の護衛艦に挟まれ、一定の間隔を保って進んでいる。


 見張り台から鐘が鳴った。


 一度。


 間を置いて、二度。


「右舷上空、飛行種!」


 船上の空気が変わる。


 兵士たちが弓と杖を取り、荷運びをしていた者は木箱を固定する。


 雲の下に、黒い点が五つ見えた。


 鳥に似ている。


 だが、近づくほど形の違いが明らかになった。


 羽毛はなく、骨ばった四枚の翼へ薄い膜が張られている。胴は細長く、前脚の先には三本の鉤爪が伸びていた。


「あれが魔物か」


 ローディスが大剣を抜く。


「たぶん低位種だよ」


 リュカは笑みを消し、船縁へ近づいた。


「形が揃ってない」


 同じ群れでも、翼の大きさも脚の数も違っている。


 先頭の一体だけは左右対称に近い。後ろの四体は、肉と骨を無理に継ぎ足したように歪んでいた。


「研究者と荷を中央へ!」


 兵士が叫ぶ。


「嫌よ。近くで見たいわ」


 アーデルハイトの頭上へ装具が浮かぶ。


「護衛対象が前へ出るな」


 ローディスが立ちはだかった。


「たくましいのは好きだけれど、邪魔をする男は嫌われるわよ」


「構いません」


 一体が翼を畳んだ。


 甲板へ向けて急降下する。


 セイルは新しい杖を両手で握った。右の人差し指を窪みへ押し当て、紋章板へマナを流す。


 精霊語は発しない。


 杖の先を起点に、空中へ薄い氷の板が生まれた。


 魔物の前脚が氷を突き破る。


 勢いは殺し切れない。


 だが、落下の向きが僅かにずれた。


「十分だ!」


 ローディスが踏み込む。


 大剣の腹で魔物の胴を打ち、甲板へ叩き落とした。


 木板が軋む。


 鉤爪がローディスの肩を狙うより早く、リュカの踵が首へ落ちた。


 細い首が甲板へ沈む。


「一体!」


 セイルが叫ぶ。


「左から二体来る!」


 兵士の放った矢が空へ伸びる。


 一体は翼を射抜かれ、海へ落ちた。


 もう一体が矢の間を抜ける。


 狙いは人ではない。


 甲板中央に固定された、アーデルハイトの荷箱だった。


「採取器具を狙っている?」


 ローディスが向きを変える。


「違う。中の保存液よ!」


 アーデルハイトの背後へ、四基の金色の輪が滑り込んだ。


 それぞれから火柱が噴き出す。


 彼女の身体が甲板すれすれを飛び、魔物より先に荷箱へ達した。


 四基のうち一基が手のひらの前へ移り、残る三基は背後で姿勢を支える。


「これは、私のよ」


 今度の火柱は細く絞られていた。


 魔物の胸を焼き抜き、空へ押し返す。


「先生!」


 助手たちが悲鳴を上げた。


「船上で火を出すなと言われてたよね」


 リュカが言う。


「輸送所では、でしょう?」


「船でもだ!」


 甲板長の怒声が飛んだ。


 残る二体が旋回する。


 そのうち、形の整った一体が口を開いた。


「――ミツケタ」


 人の声だった。


 誰も、すぐには動けなかった。


 低く掠れた声が、もう一度響く。


「ソレ、モッテコイ」


 歪んだ一体が荷箱へ向かう。


「人語を話す魔物……」


 ローディスが呟く。


「驚くのは後だ!」


 セイルが杖を振る。


 左手の中指を紋章板へ当てた。


 海面から水が持ち上がり、魔物の翼へ絡みつく。続けて右手の薬指へマナを流すと、水から熱が退けられた。


 翼の半分が凍りつく。


 落ちてくる魔物へ、ローディスが大剣を振り上げた。


 刃ではなく、峰が腹を捉える。


 魔物は甲板を跳ね、船縁へ激突した。


 リュカが床を蹴る。


 形の整った一体は、それを見て旋回した。


「オマエ――」


 言葉の続きは、蹴りに潰された。


 翼の付け根が折れ、魔物が海へ落ちる。


 リュカは船縁へ片足を掛けたまま、水面を見下ろした。


 黒い影はすぐに波の下へ消えた。


「追うな!」


 甲板長が命じる。


「周囲を警戒しろ。穴が近くに開いている可能性がある!」


 護衛艦から、返答の鐘が鳴る。


 それ以上の襲撃はなかった。


     ◇


 甲板に残った魔物の死骸は、兵士たちによって鎖で縛られた。


 焼けた胸の周囲から、黒い液が滲んでいる。


 アーデルハイトは顔を近づけた。


「触らないでください」


 セイルが杖で彼女を制した。


「分かっているわよ」


「今、素手を伸ばしていた」


「手袋を取りにいこうと思っただけ」


「手とは逆の方向にあります」


 アーデルハイトは答えず、死骸の指先を見た。


「保存液を狙ったのは偶然かしら」


「あれには何が入っているんですか」


 ローディスが尋ねる。


「命の精霊術で、生きた組織を保ちやすくするための調合液よ。血、樹液、薬草。それと、私のマナを少し染み込ませてある」


「それを感じたのかもしれないね」


 リュカは濡れた靴底を甲板へ戻した。


「でも、命令した方は荷箱を知っていたみたいだ」


「飛行種が荷物を奪おうとする例はあります」


 甲板長が険しい顔で言った。


「人語を使う個体も、前線では報告されている。珍しくはあるが、初めてではない」


「捕らえて話を聞いた例は?」


 セイルが問う。


「生きたまま船へ縛りつけられると思うなら、試せばいい」


 甲板長は死骸を指した。


「ただし、仲間を呼ばれて船ごと沈む覚悟でな」


 実際に捕らえ、目的を聞き出した記録はない。


 授業で聞いた説明と同じだった。


 ローディスは海へ落ちた魔物を思い返した。


 あれは、リュカを見て何かを言おうとしていた。


 だが、聞き取れた者はいない。


「ところで」


 アーデルハイトがセイルの杖を見た。


「新しい杖、悪くないわね。紋章板を私の装具につないであげましょうか。考えるだけで十種を切り替えられるわ」


「結構です」


「給金も出すわよ」


「研究所へ行く話は断りました」


「被験者は嫌だと言っただけでしょう?」


「今、全部断ります」


 補給船が進路を戻す。


 夕暮れが近づいた頃、前方の見張りが声を上げた。


「後方基地を確認!」


 水平線の先に、低い建物と石壁が見えた。


 いくつもの国旗が、海風の中で同じ方向へなびいている。


 そして、そのさらに向こう。


 海と空の境に、巨大な薄い膜を伏せたようなものがあった。


 遠すぎて、内側は見えない。


 ただ、周囲の景色だけが、そこを避けるように僅かに歪んでいる。


「あれが」


 ローディスの声が低くなる。


「〈黒淵〉よ」


 アーデルハイトが答えた。


 誰も、しばらく言葉を続けなかった。


 世界で最も大きな穴。


 人族が、その向こう側をほとんど知らない場所。


 補給船が港へ入る直前、基地の鐘が鳴った。


 襲撃を告げる鐘ではない。


 帰投予定を過ぎた隊へ、捜索船を出す合図だった。


「どの隊ですか」


 甲板長が、迎えに来た兵へ尋ねた。


 兵士は乗船名簿を確かめ、アーデルハイトを見た。


「十二日前の飛行種を調べていた先行調査隊です」


 その言葉に、彼女の笑みが消える。


「場所は」


「あなた方が向かう予定だった岩礁です」


 採取対象が残っている場所。


 そこから戻るはずの船が、まだ戻っていなかった。


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