01 疲労と空腹その他諸々
仕事の打ち合わせが思ったより長引いて、事務所を出たのは午後八時。
遅いということはない時間だが、そもそも時間の不規則な仕事をしている。今日は早朝から駆けずり回っていたからこの時間でもかなりの疲労を感じた。
(でもとりあえずある程度の目処はついたし、ちょっとは余裕が……)
できたらいいな、無理かな、と思いながら事務所がテナントに入っているビルから出たところで。
「あっ、ショウちゃん!ちょうどよかったー」
明らかに自分を呼ぶ柔らかな声に俯けていた顔を上げると、見知った男性が立っている。
ビルの前に車を停めて出てきたところだったらしく、彼の背後に見覚えのある乗用車。
「タイ……おにーさん」
「それまだ早いよ」
「早めに慣れとくほうがいいかと思って」
「おじさんて呼んでくれてもいいんだよ?」
「それこそ不自然。六歳しか離れてないんだから」
「別に気にしないのに」
いやこっちが気にする、と言いそうになったのをぐっと押し止める。このままだとなし崩しに向こうのペースだ。
とりあえず、おにーさんとおじさんのどちらで呼ぶかは今は保留にして。
「今日はどうしたの、タイくん」
「ショウちゃんのお迎えに。事務所に電話して今日の終わり時間教えてもらっといた。どうせ携帯なんて見てないと思って」
「あぁ、うん。見てなかったけど」
仕事用のは見ているが、プライベート用のは鞄の中で寝ている。いつからか充電が切れていたから。
「働き者だね。お疲れさん」
はい乗って、と背後に駐車されていた彼の愛車のドアを開けて促された。少しの躊躇の後、助手席に乗り込む。すれ違う時に目が合って、心臓が軽く跳ねた。
「ありがとう……」
「いいえ。ご飯まだだよね?食べに行こうか」
言われると途端に空腹を感じてくる。お昼を食べたのは何時だったか……そもそもまともに食べたのか。
だが時間は午後八時を回ったところ。
「うん、でもタイくんはもう食べたんじゃないの?」
「いいからいいから」
規則正しい生活をしている人ならもう食事を済ませている、と思ったのは間違いではなさそうだ。だがやんわりと流された。
(こういうとこなんだよな)
ぱっと見てそれほど派手な容姿ではない。だが常に浮かんだ柔和な笑みも穏やかな話し方も相対する者を安心させる。
自分も身長が高いせいで目線は近い。だが相手も小柄ではないし、むしろスタイルはいいほうだ。
当たりの柔らかさと清潔感のある容姿で騙されそうになるが、なんだかんだと最終的には自分の意見を通してしまうタイプである。
○
硝子から見て太藺は叔父である。ただし血の繋がりはない。
硝子の母親の家に母親以外子どもがなく、後継者として養子縁組したのが太藺だ。他にもいろいろと複雑な関係ではあるが、とりあえず家族なことは間違いない。
カジュアルなレストランに入り促されるまま席についたところで、硝子は気になっていたことを尋ねる。
「タイくんだって忙しいだろうに、わたしにばっかり構ってて大丈夫?」
「うん?そう言っていろんなひとが仕事代わってくれるから思ったより時間ができちゃって。姪っこのほうがよっぽど忙しそうだよ。ちゃんと寝てるの?」
「寝る時間ぐらいは取れてるよ」
「そう?ならいいけど。無理したら駄目だよ」
「いや、それ言うならわたしより姉貴だよ。どうせまたフラフラしてるんじゃない?」
「そうだねー。でも昔から働くのが好きなひとだったし。楽しそうだから別にいいんだよ。それに独身のうちに片づけたいことがあるんだってさ」
硝子は一瞬押し黙る。自分から姉の話題を出しておいて勝手だが、太藺の口から昔の姉の話をされるとどうにもそのあとが続かない。
「……もうすぐ結婚するひとが旦那になるひと放って、それどころか妹の面倒押しつけて仕事してるってどうなんだか」
太藺は面倒見はいいが、血の繋がらない姪に不必要に構うほどではないだろう。だからこうして様子を見に現れたのは。
(姉貴に頼まれたから、だろうな)
そのあともどうにか話を繋いで食事を乗り切った硝子は、太藺の車で送ってもらい家の前で優しい言葉をかけられようやく帰りつくことができた。
『つれ回して悪かったね。ゆっくり休んで。あと、たまにはナギサにも連絡してあげてよ』
最後につけ加えられた一文に更に疲労を感じてしまったが。
姉と太藺の関係はふたりが高校生の頃からあんな感じだったのだから、それを見て傷つくのは自分の勝手なのだ。気づかれてはいけない。
硝子も姉と同じ学院に通っていた。歳が離れているので同じ校舎に通うことはなかったが。
姉と太藺が知り合ったのは高等部時代。ともに生徒会役員になったことで親しくなったそうだ。『昔から働くのが好きなひとだった』と太藺が言うのはこの頃のことを指している。
(生徒会、ね……)
硝子も高等部時代は生徒会に所属していたが、その頃のことを思い出すとある人物が浮かんだ。
硝子は硝子で高等部時代の生徒会には特に大切な思い出がある。残念ながら姉達のように甘くも酸っぱくも苦くもないが、あの頃が今まで生きてきた中で一番楽しかったと自信を持って言える。
ちらりとベッドサイドの置時計を見た。次に鞄の中から画面が真っ暗の携帯を探りだし、充電器を差し込む。
パッとランプが点灯したところで電話帳を開いて、さっき浮かんだ人物の名前を探した。
もう一度置時計を確認。遅すぎるほとでもないが電話をかける時間としては微妙なところではある。
自宅にではなく向こうも携帯だが、相手の就寝時間が早いことは知っているから。
迷うこと数秒。硝子は通話のボタンを押した。




