乙女は春の夢を
『ガチャリ』と。
実際には聞こえないはずのその音が、その瞬間、はっきりと耳に響いた気がした。
外側から開くはずのない扉が開いて、その奥から現れたのは━━━━。
「お母さん・・・!?」
自分の記憶の中にある姿より、幾分やつれて小柄に見える母の姿。
ベランダの入り口付近にいる自分達の姿には気付かない様子で、淡々と靴を脱ぎリビングに向かって歩いて来ている。
「お母さん!!」
私は堪えきれず母の姿に駆け寄って、思い切り抱き付こうとして━━━━その身体をすり抜けてしまう。
「・・・そんな・・・!嘘、嘘、どうして━━━」
見えているのはこちら側からだけなのか、母親の方からの反応は何一つ起こらない。
まるでこの部屋には誰もいないと、わかりきっているような態度。
「お母さん・・!華朱だよ!私・・・、私ここにいるんだよ!━━━お母さんっ!!」
チラリとも合わない視線。
虚ろな表情で部屋を見渡して、深い溜め息を落とした後、そのまま床にペタリと力なく座り込み━━━━。
唇が私の名前の形に動くのを見てしまったら、私の我慢もとうとう限界に達してしまった。
「う・・・うわあああん!!お母さんお母さんお母さーーーん!!う”うぅ~~~~~っ!」
小さな子供みたいに母親の身体に縋りついて、わんわん泣き始めたらもう止まらない。
実際には触れる事もできなくて、膝立ちの不安定な体勢だったんだけど、いつの間にかごく自然にシグが私の身体を支えてくれてた。
「ごめんね、ごめんね、お母さん・・・。勝手にいなくなってごめんなさい・・・っ」
どのくらい時間が経ったのかわからない。
泣き過ぎて声が枯れるぐらいの間、哭いて。
ふと気付いた時には、もうそこに母の姿は無かった。
「おかあさ・・・」
『なんで、どうして』
そんな言葉ばかりが頭の中を埋め尽くす。
いままで敢えて考えないようにしていた現実を、いきなり眼前に突き付けられて。
何もできず、ただ歯噛みするしかない自分が心底悔しかった━━━━━。
*
・・・小さな頃の夢を見た。
何かと日常的に迷子になる子供だった私を、いつも探し出して迎えに来てくれてたのは、意外にも青磁の方だった。
『ハナちゃん、やっと見つけた!』
あの頃はまだ青磁も家に居る事が多く、若手の料理研究家として忙しく立ち働くお母さんの代わりに、よく私の面倒をみてくれていた。
『青ちゃぁぁん~~~』
『もーハナちゃんは~~、メッ!一人で探検するのも、かくれんぼもダメだって何度も言ってるのにー』
『・・ご、ごべんだざぁぁい』
『おウチに帰れなくなっちゃったらどうすんのさー』
とかなんとか言っといて、結局先に“帰れなく”なったのは青ちゃんの方だったし。
『まったくも~、目を離すとすぐどっかに行っちゃって。いったい誰に似たのかなぁ・・』
あんたがソレ言う?
私の見た目と性格はお母さんの縮小版でも、このおかしな体質は完全に青磁譲りだよね?
━━━夢の中で、青磁に手を引かれて歩く小さな私は、両手を広げて待っていたお母さんの腕の中に飛び込んで、ようやくホッとした表情になり笑顔を見せた。
・・・ああ。私まだ、幸せな夢の続きを見てるんだ。
だってほら、身体が小さなまま。
大きな腕に包まれてる。
━━━温かくて気持ち良い。
目を開けたらきっと、夢から覚めてしまうから。
もう少しだけこのままでいよう。
・・・・・お母さんの手、こんなに大きかったっけ。
背中を撫でる指の感触が、いつもとちょっと違う気がする。
自分の身体を包み込む温もりにそっと手を伸ばせば、布越しに意外と筋肉質な手応えが掌に伝わった。
・・・筋肉質・・・?
お母さんは女の人にしては大柄だったけど、体型は男性の浪漫を体現したかのようなグラマーだった。
触る ━━━ 硬い。揉む ━━━ 掴めない。
・・・・・・・・・・・・・・・。
覚悟を決めてそっと目を開けると、目の前には立派な大胸筋。
・・・・・・なんかこれ、前も見たことあるぅ。
ギギギ、と軋む首を無理矢理上向けると、そこには━━━━某有名美術館の女神像も及ばぬ造形美の生物が、あった。
『━━━♂☆※&◎%▲□?━━━う”ほぇ!!!』
睫毛長っ!じゃなくて!!
ナゼこんなとこにぃぃーーーーーーっ!!!
一拍置いて脳が事実を認識した後、家中に響く私の叫び声を聞き付けたグウィネスさんが、鬼の形相で駆け付けるのは、この数十秒後━━━━━━━。