006
良く晴れていて、心地よい風が吹き抜けていく。この時間帯にこの道を歩けば見かける散歩中の犬の姿は以前見かけた時よりも成犬に近づいている、なんの変哲もない土曜日がそこにあった。綾子は一人暮らしの家から近い衣料店で買った服をそつなく着こなしているヴィルヘルムを見てこれは少し変わった日常と笑む。流行に多少取り残されている服ではあるがヴィルヘルムが袖を通すとどこか洗練された雰囲気に変わっている。
祝日がくっついて三連休となった週末に実家へ帰省することはよくあることだ。今回も帰ってくるんでしょうと数日前に母親から連絡を貰っていて美味しいものを食べたいなんて何品か食べたいものをリクエストを出していた。
一人暮らしをしてはいるが、実は少し無理をすれば実家から大学へ通えないわけではないのだ。大学に入ったら一人暮らしをしてみたいとの綾子の希望と、一人暮らしを一度ぐらいはした方がいいとの両親の勧めもあって大学へも通えて、実家へも帰りやすい位置に部屋を借りている。
「まるであなたの世界に行った時の私みたい」
見るもの全て新鮮で、自身が生きてきた環境にはなかったものに囲まれて興味津々と言った風に道中を楽しんでいる姿。綾子も猫の姿であの物語の舞台になりそうな王宮を咎められないことをいいことに隅々まで見て回ったものだ。
「すまない、浮かれていた」
綾子がネコの姿で城内や敷地内を散歩する中でヴィルヘルムも同行したことはよくあった。その際に機嫌よく歩き回り時に立ちどまっては感情豊かな尻尾が正確に綾子の気分を伝えていてヴィルヘルムは微笑ましく眺めていたが、自身もそんな状態だったのだろうと少し熱くなった頬を隠す様に手で顔した半分ほどを覆う。
「しかし凄い、僕ですらこんなにも興味が惹かれるんだ、ニの兄様が見たら飛びつきそうなものばかりなんだ」
魔力の気配を一切感じることのない世界だが、その代わりにヴィルヘルムが生まれ育った世界では発展しなかった分野がとても発展したとわかる世界。魔力ではなく電気やガスなどが巡らされ不自由なく暮らせる世界、夜に見上げた空はくすんで見えたが地上の明るさはヴィルヘルムの世界以上のものだった。
原理はわからなくとも魔力に置き換えて代案を出せそうなものも幾つかあるし、真似て作れば一財産築けそうなものもあちらこちらにある。貿易商を生業にしているイレネオが見れば取り扱い商品としてと幾つも手にとっては立ちどまって終いには奥方であるネコに耳をつままれてでも引っ張って動かされるところまで想像できた。
そして、無事に元の世界に帰ることができたら、とんでもないことをしたとひとしきり怒られるのだろう。その後には心配をされて、誰も見たことのない世界でどんなことを見てき、聞いて、その肌で感じてきたのかと質問攻めにされるに違いない。きっと、ヴィルヘルムも覚えている限りのことを、説明できる言葉を尽くして、昔の様に夜を明かして話し続けてしまうことだろう。
「私もね、ヴィリーの国のこととても凄いと思ってるし、驚くことがいっぱいだったもの……それに、私の性根には合っていたんだと思う」
生まれ育った町に愛着がないわけではない、好きな場所も、お気に入りの景色も、行ってみたい場所だっていっぱいある。けれど、一か月という短い期間だがヴィルヘルムの傍で過ごしたあの世界が綾子の心をより動かすのだ。月が綺麗ですね、そんな言葉を紡ぎだした人の心を今なら深く感じ取ることができる。
一秒ずつ時を刻み続けている時計の存在がないからか、時間がゆったりと流れている様に感じられた。城下町は城から眺めた程度でしかわからないけれど、それでもヴィルヘルムたち王族だけではなくて、そこに務めているメイドや料理人、様々な仕事を請け負っている人たちの顔を見れば豊かな国だとわかる。国境の接している国はいくつかあるが大きないざこざは起こっておらず、魔法大国として長い歴史と権力を持ち侵略の心配も少なく平和が続くからこそ築かれた歴史を積み重ねた綺麗な街並み。綾子が好きな本は一般的に見れば高価なものではあったが、国民にも解放されている図書施設には綾子が気に入っている大学の図書館よりも本が並べられていて思わずテンションが上がって尻尾がピンと伸びて小刻みに揺らしてしまった。
「アヤにそう言ってもらえて嬉しいよ」
「ふふ、私もヴィリーがこの世界を嫌わないでくれて嬉しい」
住み慣れた綾子にしてみれば普通だが、どうやらヴィルヘルムの世界と比べるとそれぞれで発展した魔法と科学それ以外にも様々な違いがあるそうだ。大気や物体のなかに存在している魔力の有無、空気も夜空も魔力でライフラインを維持しているヴィルヘルムの国に比べれば格段に汚れてしまっている。
電気があってガスがあって、ガソリンが動力で動く車に電気を動力としている電車や電気自動車なんてものも便利だ。インターネットや電話回線、電波があれば魔法が使えなくても遠くの人と連絡をとることもできれば、それらを介して会話をすることもできる。今、こうして歩いている間にもアプリを使って時折母親と連絡をとりあっていた。
「ヴィリー、お母さんね会うのを楽しみにしていますだって」
綾子が週末に帰る予定を既に立てていたから、父親も予定を入れずに家にいる。会って欲しい人がいるの、そう文字で伝えるのはと思って電話で伝えた時の反応からするに父親は臍をまげてしまっていそうだが、母親が味方に付いてくれるのなら心強い。
綾子が昨日、ヴィルヘルムに願ったのは両親に会って欲しいということ。ヴィルヘルムを選ばなければ一生後悔をする、けれどヴィルヘルムを選べば寂しさや懐かしさを拭いさることはできなくても乗り越えて仕合わせになる、そう思えたのだ。
ヴィルヘルムがネコと呼んでいた相手に対して深い愛情と強い執着心を持っていることは他の王族や周りの人たちの言動から察している。だから、危険を冒してまで助けを求める様に手を伸ばした綾子を探しにきたのはただ助け出すというだけではなく、綾子を連れ戻そうとそんな思いがあったのだろうと予想ができた。
次期国王として高い能力を持っているヴィルヘルムをして異世界トリップをそれも狙った世界の、望む場所へ成功させる確率なんてわかりもしない上、失敗すれば命を落とすのか同等の目に遭うのか不明な点が幾つもある手段を行使して、こうして今を綾子の横を歩いている。
この世界で綾子の無事を確認した時のほっとした表情、いい先輩だと思っていた人に対峙した時の厳しい顔、あちらの世界でもそうだった、ヴィルヘルムはいつも綾子のことを考えて行動をしてくれていた。
名前をと幾度となく乞われたが綾子が口ごもればわかったとまだ早かったねとすぐに引きさがってくれて、自身の心を決めかねて迷っている綾子に合わせるようにゆっくりと関係を築いていたが、一部では急き立てるような人がいたことも綾子は知っている。
生きてきた環境どころか生まれた世界の理すら違う人、永く一緒にいればいつか衝突することがあるかもしれない。けれども、ヴィルヘルムとなら互いが理解しあえるまで話し合って、時にケンカをしたとしても許し合える関係がきっと築いていけるとそう思えるのだ。
ヴィルヘルムは綾子に対して誠実だった、尋ねたことには嘘なく答えてくれていたようだし、少しでも綾子が戸惑えば不安がなくなるようヴィルヘルムが取り払える不安は全て取り除くようであったし、必要であれば他の人の口からも聞いた方がいいだろうと様々な役職の人たちの話も聞いていた。ならば、綾子もまた曖昧な部分を残したままヴィルヘルムに名前を教えるのは失礼だと考え、うやむやにせずきちんと両親に話を通して、それからヴィルヘルムへと綾子が出した答えを伝えるつもりである。
綾子が下した選択がこちらの世界にどういった影響を与えるのかはわからない、例え忘れられたり、存在をなかったことにされたりしても、それでもなにも言わずに離れて行くのはあまりにも寂しい。都合のいい具合に、綾子がこの世界を離れ別の世界を選んだ時に同じ名前の、同じ姿で同じ様で違う様なそんな存在が構成をされてこちらの世界で生きてくれたらなんて考えたが、今まで愛情をいっぱい注いで育ててくれていた両親が例え彼らが同じ存在として認識していたとしても、綾子以外にあの無償の愛を注ぐのだと考えると胸の辺りをかきむしりたくなるほどの違和感を覚えた。
「ヴィリー、あれ! あれが私の家。かわいいでしょう?」
見えてきた実家に指で指し示せば、ヴィルヘルムは綾子の投げかけた言葉に同意するよう本当だとつぶやいていたがそれと同時に少し首を傾げていた。住宅街の一角に建っているレンガを模した外壁に濃い緑色の屋根、道路に面した部分には庭もあってガーデニング好きな母が綺麗に手入れをしている。敷地との境目にある門にはそんな母が作ったのだろう季節を反映させたようなリースが飾りつけられていてまめだなと綾子は装飾として使われていたベルを指ではじいてみた。
ただの装飾品だと思っていたそのベルはチリンと軽い音ではなく小さな態をしているのに反してとても澄んだ音を響かせている。ここ最近で同じ音をどこかで耳にした気がしたが、テレビで放映されていたドラマかアニメかで使われていた音だろうと門を開けてヴィルヘルムに入るよう促そうとしたが、なにかに驚いた表情をしていて綾子は首を傾げてしまう。
「どうしたの? なにか、あった?」
一人暮らしをしている家からここまで、物珍しいものはいくつもあってヴィルヘルムの驚いたり感動していたり、様々な表情を見てきたが、今この場面でなにか驚くものがあっただろうかと少し辺りを見渡すがここまで歩いてきた住宅街とほぼ同じものしかない。
「いや、そのベルの音色がとても馴染みのある音だったから驚いてしまったんだ」
小さな音、けれどどこか遠くまで澄み渡るようなその音をどこで耳にしたのだろうと考えて先ほどは生活する中のどこかで耳にしたのだろうと結論付けていたがヴィルヘルムの言葉を聞いてそう言えばと思いなおす。
「あ、あの鈴の音」
綾子が猫の姿をしていた時に城の中を自由に歩けるようにするためにとつけられていた首輪についていた鈴。傷一つなく丁寧な作りのその鈴はとても澄んだ音をしていて、首輪をつけられた当初はその音がとても新鮮に感じられてちょいちょいと丸っこい手で構っていたものだ。
「あのベルは魔法で作られているものだったか、らまさかこちらで同じ音を聞くとは思わなかったよ」
ただの偶然なのか、それとも……
二人の視線が交わって、成り立ちから違っていそうな世界の小さな類似点を見つけて、小さな希望を見つけたのかもしれないそんな思いが込み上げてきて言葉を繋げようとしていたヴィルヘルムだったが、綾子の声に似た声に呼びかけられてその言葉を飲み込んだ。