06.ささやかな
シドネが孤児院に戻った頃には、園内は静まり返っていた。
子供たちは夕食を終え、それぞれ自室に戻ったようだ。
キッチンから皿を洗う音も聞こえない。また今日も間に合わなかったらしい。
園の子たちとなるべく顔を合わせないよう、いつもぎりぎりの時間を狙って帰るのだが、これがなかなかに難しいのだ。
「……ただいまー」というシドネの声に「おかえりー」とディアナがダイニングから顔を出した。
「夕食、できてるから」とそのまま電子レンジに向かう。
「ん」とシドネは短く答えて、席についた。
何か話そうと、シドネは今日一日を振り返る。
あそこの空き地、前は何があった?
そういえば、角に新しく店ができてた。
あと――あの仏頂面とも鉢合わせたな。
「アイツがなんか、『伝言頼みたい』とか言ってたよ」
「アイツ?」とディアナは首を傾げた。数秒黙り込んで――
「あ、ユリウスくんか」とすぐ通じた。
シドネの交友関係は極端に狭い。≪黒英≫時代の知人であればそれなりにいる。
だが今や、そのほとんどとは縁を切っていた。ディアナと共通の知人となると、片手で数える程度だ。
「ついさっき連絡があったの」
「そうなんだ」とシドネは答えた。
自分で電話できるなら、最初からそうしろ。
シドネはそう思ったが口にはしない。
またディアナに「口が悪い」と叱られる。
電子音。
「できたわよー」
シドネの前にオムライスが置かれた。
「いただきます」とシドネは軽く手を合わせ、ケチャップに手を伸ばした。あと少しのところで指先が届かない。それを見かねたディアナがシドネの前にケチャップをそっと押し出す。届いた。
「で、なんだったの。アイツの用事って」
ケチャップが間抜けな音を立てて皿の上に飛び散る。
シドネは顔を顰めた。
シドネはシャツに飛んでいないことを確認してから、ようやくスプーンを手に取る。
「国の防壁強化のご依頼だったわ」
「ふーん」とシドネは口にスプーンを運んだ。
「体調だけは崩さないようにね」
卵の甘味とチキンライスの酸味が口に広がった。いつもの味。
「こっちが困るから」
シドネはスプーンを止めなかった。
一口飲み込む。ディアナから返事はない。
シドネは敢えて顔を上げなかった。オムライスを食むことだけに集中する。
どうせまた「あの顔」だ。
反抗期の娘からぶっきらぼうに花束を贈られた母親の顔。
シドネに母親はいないも同然だ。
それでも、何となく分かる。母親というのはきっとああいう風に笑うのだろう。
「わかってるわよ」
ディアナは目尻を拭いながらシドネの向かいの席に腰をおろした。
その手に持つマグカップからコーヒーの香りが立ち上っている。
「もうもう貴方に心配をかけさせるわけにはいかないものね」
シドネは二、三口ほど口に運んで、残りのオムライスを平らげた。
「ごちそうさん」
シドネは椅子を引いた。
ディアナと入れ替わるように席を立つ。
「早っ。もっとゆっくり食べなさい」と後ろからディアナの小言が飛んだ。
シドネの「へいへい」という空返事に、ディアナはため息をつく。
それから、「あと」とディアナは思い出したように声を上げた。
「明日は一日家を空けることになると思うから」
シドネは洗い物をする手を止めた。
ふわふわした雰囲気のせいで『孤児院の先生』という印象が先行しがちだが、ディアナの本来のご身分は誇り高きアステリア家のご令嬢。
世の中見かけによらないものである。
『防壁管理者』。
国を覆う防壁へ鉱力を供給し、その状態を監査・修復する――それこそがディアナの役職だ。
ディアナはその定期点検のため、月に何度か家を空けることは珍しくもなかった。
「わかったよ」
「それでね」とディアナは微笑む――気配がした。厳密には、シドネは背を向けて洗い物をしているため表情は見えない。だが、この少し上擦ったような声色。なにかを企んでいる。
「いつもはシッターさんに来ていただいていたでしょう?」
「……ああ、うん」とシドネは曖昧に頷く。
「でも、そのシッターさんがね、明日は来られないみたいなの」
シドネの肩がかすかに揺れた。ディアナが何を言おうとしているのか、おおよその見当はつく。
「夏風邪を拗らせてしまったみたいでね」とディアナは補足した。
「へー。どうするの?」
シドネは何食わぬ顔で洗い物を再開する。
「僕は無理だよ。そういうの」と頼まれる前に釘を刺した。
「子供が泣くから」
「大丈夫よ」
ディアナはご機嫌に人差し指をくるくると回した。
「助っ人を呼んでおいたから」
「助っ人?」
シドネは思わず聞き返してしまった。
口にしてしまってからではもう遅い。
「当ててみて?」
質問を質問で返された。
シドネは「うーん」と唸る。
「僕の知ってる人?」
「そうね」とディアナはにこやかに頷いた。
なるほど。かなり範囲は絞られた。
「……男?」
「そうね」
「却下」
「なんで!?」
即答したシドネに、ディアナは勢いよく立ち上がった。
シドネの知るディアナの知人。しかも男となると、候補は二つに絞られる。あの仏頂面の男か、ディアナの兄弟だ。
もっとも、ユリウスは最初から論外だった。
他人の頼みを「はい」と引き受けるような殊勝な男ではない。
となれば、残るのはディアナの兄弟だけだ。
「だって、ディアナの兄弟ってみんなクセ強いじゃん」
「それは認める」とディアナは苦笑して座り直した。
ディアナは五人兄弟の真ん中らしい。
その話を初めて知った時は驚いたものだ。しかも、次女だという。
この面倒見の良さと、包容力。もはや聖母か何かである。
「で、何番目の人が来るの?」
幼い末弟を除けば、男兄弟二人には強い嫌悪感を抱いていた。
特に弟の方。あの男だけは生理的に受け付けない。
もっとも、末っ子が助っ人に該当するわけがなかった。
まだ五歳児なのだ。逆にお世話される側である。
「それは明日になってからのお楽しみー」
「……その『助っ人』って奴だけでいいだろ」とシドネが愚痴をこぼした。
シドネは子供が苦手だ。ディアナもそれを重々承知した上で、こうしてシドネに頼んでいるのだ。
ディアナが何を考えているのか知らないが、やはり気は進まない。
「子供たちにとっては知らない大人よ?」
ディアナは頭を傾げ、微笑んだ。
「シドネがいてくれるときっと安心するわ」
「……」
ディアナにそう言われると断れない。
それがシドネという人間である。
その夜。
ベッドに潜り込んだシドネは、柄にもなく神様へ祈った。
二分の一――二分の一の確率だ。
数学が苦手なシドネにだってそのくらいは計算できる。
明日くらい起きろ、奇跡。
――どうか、あの男だけは来ませんように。




