03.だから
「ただいまー……」
ディアナは足音を立てないように、そろそろと靴を脱いだ。
シドネもなんとなくそれに倣う。
ここは、孤児院を兼ねたディアナの自宅である。シドネもこの園で「同居人」として住まわせてもらっている。決して「児童」としてではない。
貴族の娘としての権力に物を言わせたのか、この園の敷地はとにかく広い。
白い外壁とピンク色の屋根。アンティーク調の平屋に砂場と小さな畑を取り入れた南欧風の庭。
「どうせなら二階建てにすればよかったのではないか」とシドネは聞いたことがある。そうすれば、より多くの部屋を確保できたのではないかと。
「万が一、子供たちが身を乗り出して落ちちゃったらどうするの」と本気で首を傾げられた。
まったく、お嬢様の考えることというのは理解できない。
「シドネは寝てていいからね。私は朝食の支度があるから」
「いや、僕も――」
「手伝う」と続けようとした。
その時――
「ディアナ先生おはよー!」
小さな影がディアナの背中にピッタリと張り付いた。
シドネの口元が引きつる。
「おはよう。よく眠れた?」
ディアナは小さな頭を優しく撫で、跳ねた寝癖をそっと整えた。
「うんっ!……あれ?シドネちゃんは?」
「え?さっきまでここに――」
シドネは――いなかった。
「今見たのになー」
子供はキョトンとしている。
確かにいない。ついさっきまでディアナと話していたのに。
「……本当にあの子は」
ディアナは困ったように笑った。
シドネは脱兎の如く部屋に戻るなり、布団にもぐりこんだ。
「……」
別に子供が苦手というわけではない。扱いに困るだとか、泣かれたら面倒だとか、そういう極めて身勝手な理由だ。シドネが不器用だからあやし方が分からない、などという問題では断じてない。
断じてないのだが――
――あれはシドネがここに越してきた日
「…...おねえちゃん…...だれ」
シドネと目が合うなり、ディアナの背に隠れた子供が顔だけのぞかせている。
「……」
シドネが子供に視線を向けると子供はさらに萎縮してしまった。
孤児院の子供だ。人見知りするのも無理はない。
それどころか、その警戒心の強さにシドネはむしろ好感を覚えた。
見知らぬ人間を用心するのはいいことである。
シドネはコートの裾に砂がかかるのも気にせず、子供に目線を合わせるようにしてしゃがみこんだ。
「シドネって言うんだ」
シドネも今日からここでお世話になるのだ。孤児院歴で言えば、この子供はシドネの先輩。敬意を払わねば。
「……」
それに、シドネは子供そのものが嫌いというより、「すぐに泣きわめく」という子供の習性が嫌いなのだ。こうして、初めのうちに仲良くなってしまえば、そもそも泣かせることもないのかもしれない。
「よろしくね」
前職の都合上、シドネは愛想笑いの一つや二つ、お手の物である。
甘い笑みで誘惑し、罠にかかった瞬間、≪標的≫の喉笛を掻き切るのだ。
声のトーンも、口角も、目の細め方も、言葉遣いも、完璧――なはずだった。
「うわぁぁぁぁん!!この人こわいー!!」
「……え?」
何故だ。子供と触れ合っている時のディアナを完璧に模倣したはずなのに。何故泣く。
「あらあらー?このお姉ちゃんとっても優しいわよー?……目つきは悪いけど」
「ディアナ先生?」
突然の裏切りだった。
「目がわらってないのー!!」
「……」
――という経緯がある。
あの日以来、シドネは子供たちとの必要以上の接触は避けていた。
それが、自分にとっても子供たちにとっても一番いい。お互いのためなのだ。
シドネは寝返りを打つ。ドア一枚隔てた向こう側から、子供たちのはしゃぎ声。
「……ったく」
だから、子供は嫌いなんだ。
シドネが寝たり、起きたりを繰り返し、結局起床したのは午後三時だった。
時刻は時計を見ずとも分かる。
「おやつだー!」
「あ、わたしイチゴ味がいいー!」
廊下では、おやつの時間だと浮き立つ子供たちの声と足音が響いている。
……というか、あの騒音で眠り続けられる方がおかしい。
シドネは手櫛で跳ねた毛先を整え、コートの裾を直し、そっと園を出た。
途中、ディアナと目が合ったが、何も言わず手を小さく振ってきた。
シドネも軽く手を振る。
こうして、シドネは子供たちに見つかることなく、園を抜け出すことに成功した。
この時間の散歩はシドネの日課だった。
当然だが、仕事帰りの早朝よりも人通りはずっと多い。
――シドネは、気の向くまま歩いた。
あの新しくできた店は長持ちしないだろうな、とか。
あの空き地、前は何があったっけ、とか。
そんなくだらないことに思いを巡らせているうちに、シドネは住宅街へと入っていった。




