187:窮地の冷笑
「亡くなった……?」
声がかすれ、思考がマヒする。
相澤天喜のスマートフォンからは「マスター」と名乗る男がそう答えた。
「え……なんで……い、いつですか!?」
脳から津波のように押し寄せる疑問と混乱が、震えた声となって口から吐き出された。
『昨日のことだ。末期がん……医師の見立てではそうなっている』
「がん……」
しばらくは電話越ししかとれてなかったものの、返ってくる声にそんな気配はなかった。ましてや末期というのであれば、周囲の人間が気づくはずだ。
『もちろん、怪しい。周りの我々から見れば……「突然末期がんになった」としかうつらないものだ。前兆や症状などもなく、な』
「つまり……誰かから攻撃を受けた、ってことですか……?」
『そう考える方が自然だろう。しかし、潜伏中であれ相澤天喜に攻撃をしかけられる者がいるならばな。俺たち周りの人間の目を盗み、本人の不意を突いてまでしてくる手練れがな……』
『茨の会』。それとも新山の一派か。電話口でマスターは唸るように言う。
『お前は『茨の会』に探りを入れていると聞いた。今はできる限り、深入りせず動揺を悟られず、いつでも逃げられる態勢でいてくれ。正直、こちらも少し混乱している』
「……」
『して、なにか用事があったのか』
「い、いえ……」
震えている手を強く握り、陸郎は一呼吸おいてから「虫の知らせがありましたので」とつぶやいた。
『ふむ……過敏になっているようだな。ならなおのこと、今は一人で動くな。こちらの態勢を立て直すのにも一晩はかかる』
心臓が痛む。臓器そのものを縛り上げられたような痛みは、限りない不安を伴って全身へと回り始めた。息がかすかに途切れている。陸郎ができることといえば、高まる危機意識を悟られまいと平静をよそおい、通話を終えるだけであった。
外は乾いた夜風が吹いている。川沿いの歩道に人気はない。街灯も申し訳程度にしかなく、上野が指定した工事現場は薄暗い影に包まれている。身を隠していた木陰から出て、陸郎は固唾を飲み込み大きく一つ息を吐いた。
「……やはり今は俺が……俺一人でやらなくちゃならない」
こみ上げてきた不安に負け、相澤天喜に連絡したものの、その結果は絶望そのものを突き付けられる形となった。
上着の内ポケットに入れていたボールペンを取り出す。ノック部を押せば、そのボールペンの先端が鈍い振動音と淡く弾ける電流を生んだ。以前に護身用と渡された、ボールペン型のスタンガンだった。威力は出回っているものとあまり変わらない。
「頼れるものはこれ一つか……くそ」
陸郎自体、基礎的な訓練はつんでいるものの、その実力は素人に毛が生えた程度にすぎない。霊感などなく、術の一つも習得できずにいた。
だが、今頃になって己の不甲斐なさを痛感している場合ではない。一歩足を踏み出すのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。動き出した体を、気力で支えて前に進む。
歩いていく歩道の先、街角になる区画にその工事現場は微風に防音シートをゆらしていた。
五階建ての立体駐車場を建設するとは聞いている。遠くないうちに大型の商業施設も並んで建てられる都市計画とのことだった。
立体駐車場を建てる工事現場は、まだ骨組みだけしかできていない。周りを囲む足場とそれを包む防音シートがすっぽりと全体を包み込んでいた。わずかに、吹く風が強くなる。
「やあ、こんばんは」
見上げた鉄骨の上から、朗らかな声が降ってくる。くみ上げられた足場の最上階に陸郎を見下ろす影が立っていた。
「そんな所に立ってないで、入っておいでよ。君の友達も中にいるんだから」
「あんたの私有地じゃないだろ」
苛立ちと不安がないまぜになる。強がり、ぶっきらぼうに返すことしかできなかった。
上野はそれを知ってか知らずか、喉の奥で笑って「細かいなぁ」と口角をつり上げた。
「最近になって寒さも出てきたろ? ほのかに空気も湿ってる。冷える前に連れて帰ってあげないと、お友達は風邪でもひいちゃうよ?」
露骨な挑発には何も言い返さず、陸郎は防音シートの中に入る。見上げれば鉄骨が建物の輪郭を作っているものの、歩けそうな路面はまだ作られていなかった。現場作業員が上り下りする足場を伝い、陸郎は最上階へと出た。
「巳影はどこだ」
柵らしきものはあれど、まだ工事をする段階ではないためか、組まれた鉄骨の上ぐらいしか登れる場所はなかった。少しでも足を踏み外せば、簡単に地面へと落下してしまう。
そんな鉄骨の上に腰かけ、鼻歌交じりに待っていた上野がにこりと微笑んで陸郎を見やる。陸郎がいる西側とは正反対の、何もない空洞を挟んで組まれた東側の鉄骨にいる上野は、人差し指で少し下を指さす。
設計では四階部分に当たる高さの鉄骨の上に、横たわる巳影の姿があった。
「落ちないように念のため、体をロープで固定してるけど……ちょっと緩めにしておいたよ。その方が助けやすいだろうし……身じろぎ一つで落ちかねないからね」
「……あんたみたいなやつを、サディストっていうんだろな」
巳影を視野に入れつつ、上野をにらみつける。上野はカラカラと笑い、よどみのない動作で鉄骨の上で立ち上がった。高さにして15メートルはあるだろう、わずかな足場の上とは思えない自然な動きだった。陸郎はよろけずに立つだけが精一杯で、高さからくる恐怖とこんな場面でどうするべきかという難題に顔をこわばらせている。
陸郎の余裕のなさを見た上野は楽しそうに言う。
「そこまで必死になるなんて……やはりあの子には何かあるんだね」
ちらりと、上野はぐったりと横になっている巳影に視線をやって笑みを浮かべた。
「……あんたに話す義理はないね」
「そう。なら仕方ない……君がしゃべりたくなるように、僕が丁寧なおもてなしを披露するよ」
芝居がかった動作で一礼する上野の指先からは、薄く揺らめく影が浮かび上がった。それを見た瞬間、陸郎は背筋に走る悪寒で身を固くしてしまう。
「じゃあ、始めようか」
上野は微笑する。
冷風が、湿気を運んでくる。湿り気を帯びた空気だというのに、陸郎の喉は痛みを覚えるほど乾ききっていた。




