186:ヒトリノ夜
これ以上、高橋への報告を偽ることは難しい。陸郎はコンパスに起こった動きを、微妙に改変した内容を報告していた。校舎の屋上で通話を開始する。
『なるほど……あかね団地を指していた粒子が、少しずつ浮上している、と』
陸郎は何段階か前の情報を高橋に流す。高橋はそれに対し別段疑問を覚えた様子も見せず、電話口の向こうで興味深げな相槌を打っていた。
「なんだか、このままじゃ町全体に覆いかぶさるような形になりそうなんですが……」
これは現在のコンパスが示す状態。あえて仮想の問題として出し、陸郎は高橋にささやかな揺さぶりをかけてみた。
『今は現状の報告だけを考えてください。あなたの観測が唯一の綱なのですから』
しかし返ってきた声はいつも通りの冷静なもので、具体的な情報は洩れなかった。それにむずがゆさを覚え、陸郎は一呼吸してから高橋に尋ねた。
「あの、このコンパスって……一体何なんですか?」
聞いたところでまともな答えが返ってくるとは思えなかったが、聞かずにはいられなかった。コンパスの詳細は『茨の会』の機密事項に関与している。
スマートフォンの向こう。若干の間をおいてから高橋は「そうですねえ」とわずかに思考を巡らせているようだった。
『まあ、あなたになら伝えてもいいでしょう。自分が何をしているのかわからないまま使われている、というのは少しかわいそうですからね』
じわり、と額に汗がにじむ。乾いてきた喉をつばでほぐし、高橋の言葉を待った。
『コンパスは計測する地区の「汚染濃度」を計っているのです』
「……汚染……?」
その言葉が粘り気をもって脳裏に張り付いた。陸郎はその気持ち悪さから、ついおうむ返しにつぶやいてしまう。
『ええ。だからといって、あなたに悪影響を与えるものではありません。人体には無害なものなのです。今のところは、ですが』
高橋の一言で多数の疑問が同時に浮かび上がるが、すべて答えてくれるわけでもないだろう。陸郎はできるだけ内容を広げる質問を頭の中にずらりと並べた。
「で、では……その汚染が強くなると、コンパスが示す形にも変化が?」
高橋に伝えた状態ではなく、現状での変化が何を示すのか……汚染、という言葉が異様な不気味さを放っていた。
『そうです。その土地に染みわたる人間の業……それを観測する道具です』
現在のコンパスの状況を、頭の中から掘り起こしてみる。今コンパスの周囲をまとう粒子は、完全にあかね町を覆い隠し、蚊帳のように外壁を作っている状態だった。まるで中にあるものを閉じ込めている檻のようでもあった。
それを鑑みても、今高橋が言った「人間の業」という言葉が何を指すのかわからなかった。町は平穏な田舎町で、どこにでもあるものだ。業、という言葉に縁があるとはとても思えなかった。
それとも。陸郎が知らないだけで、なにか隠された秘密があるのだろうか。
『と、話せるのはここまでです。あとは重要な機密事項ですからね。訳の分からないことだらけでしょうが、引き続き観測を行ってもらえれば助かります』
「わ……分かりました。立ち入るような真似をしてすみません」
電話口の向こうでは「お気になさらず」と笑みを浮かべているだろう高橋は、気さくな態度のままだった。通話を終え、ため息をつくとともに空を見上げた。
気温は少しずつ冷たくなり、身を固くさせる。年明けも視野に入るころだ。落とした息も、かすかに白みを帯びているような気がした。
「何かが、動いてるな……」
言い知れぬ不安を抱えながら屋上を出る。これはさすがに抱え込めない。相澤天喜に報告し、相談した方がよさそうだ。
話す内容を簡潔にまとめ、メッセージアプリで送信する。すると二秒も経たない間に返信が送られてきた。夜に聞く、という文字だけが送られてきた。相談できる、というだけで陸郎の胸のつかえがとれたような、安堵の息をついた。余裕のなかった気持ちを安らかにさせてくれる。
今日はひとまず帰宅しよう。動くのは、相澤天喜との相談が終わってからでもいい。
わずかに軽くなった足取りで、放課後の校舎を歩く。自分の教室には、今日も自主的な居残りで漢字の練習をしている巳影がいるはずだ。もう下校時間も近い。巳影がまだ残っていたら帰るよう促そうと、教室のドアを開けた。
教室は……無人だった。開け放たれた窓から入る風が、カーテンを大きく揺らしている。その光景を見て、陸郎は慌てて巳影の席へと走った。
机には漢字の例文が書きかけのノートと、一枚の上質な紙で作られた封筒が残されていた。陸郎は最大限の警戒を意識しながら封筒を開ける。
本日の夜、川沿いの工事現場で待つ。そう短く書かれていた。上野拓郎、という名前を添えて。
陸郎は封書を握りしめ、床へとたたきつけた。
いずれは仕掛けてくるだろう……そう思っていたが、対処しきれなかったのは陸郎の認識の甘さであった。陸郎の行動などもう筒抜けであろう。不意を突くタイミングとして、高橋への報告時を狙うのは絶好のチャンスと言えた。
相手は……上野は何をしでかすかわからない危うさを持っている。これは明らかに自分のミスだと、陸郎は奥歯を強くかみしめた。
「いいぜ……挑発に乗ってやるよ、上野。殴るだけじゃすまさないからな……!」




