185:蛇蝎の目
それからしばらく。
陸郎は巳影の居残り授業に付き合い、自身も遅くまで教室に残るようになった。
「どうかな」
「う~ん……成長はしてるんだが……」
巳影が書いたプリントを見て、陸郎は首をひねる。
「字一文字ずつはましになったが、大きさがバラバラなのがな……」
それでも、ほとんど教育を受けてなかった人間にしては早い成長速度と言えた。
「そっかぁ……まだまだ練習がいるなぁ」
「まあ……別にお習字ってわけじゃないんだ、最低限読めるぐらいでもいいだろうに」
「それは納得がいかないなぁ。もうちょっとやるよ」
返す巳影はもう次の例文が書かれたプリントへと手を付けていた。意欲、といえばいいのか。学習することに対して巳影は楽しんでいる節もある。書き取りを行う今も、鼻歌交じりにペンを走らせていた。
「楽しそうだな」
ぼそりとこぼした陸郎に、巳影は顔を上げて笑みを浮かべた。
「知らないこととかが頭に入ってくるって、楽しいんだ。新鮮っていうか、刺激的っていうか」
陸郎は資料にあった巳影の生い立ちを思い出す。それについて考えるのなら、義務教育をきちんと受けていたのかも疑問に思ってしまう。
「……ま、今日はこの辺にしてさ、帰ろうぜ。そろそろチャイムもなるころだし」
「もうそんな時間……あっという間だなあ」
巳影は不満そうに頬を膨らませている。そうこうしているうちに、下校を促すチャイムが教室にも響いてきた。
「あ、俺職員室に野暮用があるから、先に出ててくれ」
「分かった。校門前で待ってるね」
最近では、帰り道も同じになっている。陸郎が他愛ない世間話をする一方、それに巳影はワクワクとして聞き入る……そんな他愛ない時間もずいぶん数を重ねてきていた。
気が付けば。監視対象というだけでなく、気の置けない人物として巳影に接していた。
必要以上に近づいてはならないと分かっていても、飛八巳影という人物は危なっかしいと目が離せずにいた。どこかでフォローをしなければ、簡単に転んでしまいそうな幼さも持っている。それが目の前で起こってしまいそうで、ハラハラとしてしまう。
(過保護かなぁ……)
自分の行動にため息をつき、雑用を終えて職員室を後にした。
部活動の後片付けでにぎわう校舎を出て、校門へと向かった陸郎は足を止める。
視線の先、校門の前には二人の人間が立っていた。一人は巳影だった。その巳影に話しかけている人物……歳もそう変わらない少年を目にして、陸郎は緩んでいた心に喝を入れて大きい歩幅で歩きだす。
「何かそいつに用っすか……上野さん」
声をかけると、上野と呼ばれた少年は、薄気味の悪い笑みを浮かべてこちらへと視線を向けた。
「やあ、兼元くん」
剣呑さを隠さない陸郎の声に巳影はきょとんとしている。
「し、知り合い?」
「……ちょっとな」
陸郎と上野少年の顔を交互に見ながら、巳影は若干の警戒態勢をとろうとしていた。
「そう怯えなくていいよ。僕もこの町出身だからさ。今は外の高校に通ってるけど」
上野少年は笑顔でそう巳影に声をかけるものの、巳影は警戒心を解こうとしない。
「すまん巳影。今日は先に帰っててくんないか」
陸郎は上野に視線を向けたままで言う。その雰囲気にただならぬ気配を感じたのか、巳影は何故と聞く前にうなずき、足早に校門前を後にした。
「あらら。嫌われたもんだね」
「何しにきたんすかって、聞いてるんですけど」
藪にらみに見られて、上野という少年はクスクスと笑った。
「様子を見に来たんだよ。同じ『茨の会』の諜報員としてね」
上野拓郎。それがこの少年の名前であった。むろん、『茨の会』の名前が出た以上、ただの高校生では終わらない。
「……聞いてませんが」
「僕の独断だよ。高橋さんが熱心にしてるのは何故かなって、疑問に思っていたんだけど……」
上野は蛇を思わせる視線で、巳影が去って行った方角を見据える。
「あの子、普通の男子ってわけじゃないね」
「……」
「あら、ビンゴ?」
陸郎は口を開かない。その内心、冷や汗の気持ち悪さで強い不快感を覚えて言葉すら交わしたくなかった。
「あの子のこと、高橋さんには報告した?」
「……ここは俺の管轄区だ。あんたに任せられているわけじゃない」
そう言うと、上野は口の端を耳元までつり上げた。
「それはそれは。仕事熱心で感心するね」
笑い声を残し、上野は悠々と歩いてった。その姿が消えてなくなるまで、陸郎は警戒心を抑えずにいた。夕暮れが校舎を染め始めてから、初めて深く息をついた。
「……まずいことになったな」
どうするか。しばらく考えたものの、誰に相談するわけにもいかず、苛立ちながら乱暴に前髪をかきあげた。
上野拓郎。本人が言った通り『茨の会』に属する諜報員の一人である。それも高橋京極が束ねる枠であり、最低限ながらも霊能力があると聞いたことがある。すなわち、勘が鋭い。
(巳影を見てどこまで悟ったかは分からないが、巳影の存在が知られた以上、間違いなく首を突っ込んでくるだろうな……)
上野は高橋に心酔している。その高橋京極に認められ、手柄となるものなら、何を仕掛けてくるかわからない。ここで巳影の正体を知られれば、『茨の会』にとってとても有益な情報を流してしまうことになる。こちらとしては致命傷といっていい。
「絶対にここは死守しないとな……くそ」
せめて自分に戦闘能力があれば……。奥歯を食いしばり、ざわつきだした心を抱えたままで、陸郎はひとまず帰路についた。




