184:鳥獣戯画、その片鱗
コンパスの動きに変調があってから、しばらく。
「若干ノイズのようなものが見られます。しかし、明らかな異常というにはささやかで……」
高橋京極へ報告する内容には、嘘を混ぜ込んだ。
『そうですか……まあ、僕の勘ですからねえ。確証があるものではないのですが……』
スマートフォンの奥から聞こえる高橋京極の声は、当人が眉を寄せているであろう様子がうかがえた。
「引き続き注意してみますよ」
『お願いしますね。些細な動きでも報告をください。ああ、それと』
終わりかけた会話の後ろに高橋は声のトーンを少し高くして言った。
『近いうちに、こちらへ来られますか?』
「そちらというと……土萩町に、ですか?」
『ええ、あなたたち諜報員の編成を見直し、再編成したいと考えています』
一瞬、ひやりとしたものが背筋を撫でた。
『改めて情報の共有や引き継ぎなどを行いたいと思っています。特にあかね町の地区では子供のあなた一人に頼り切りですから。今後はもっと負担を軽減できるようにしたいのです』
どうやら、担当区域を外されるということではなさそうだ。陸郎はこっそりと安堵の息をついた。
『また日取りが決まりましたら改めて連絡しますよ』
それでは、と通話は終わった。陸郎は誰もいない校舎の屋上で、夕暮れに赤く濡れていく街並みを眺めながらスマートフォンを鞄の中へと放り込んだ。
「勘づかれては……いないだろうな」
つぶやいてみるものの、高橋京極相手にいつまでも嘘の報告が通用するはずもない。相手は一流の霊能者なのだ、勘という言葉には強い信憑性が生まれる。気を緩めず、常に思考する必要がある。陸郎は両方の頬を軽くたたいて自分に喝を入れた。
校舎からは活気が薄れ始めていた。グラウンドも大半のものが片付けられ、誰もが帰宅準備に取り掛かっている。陸郎はさっさと帰るかと屋上を下りて、はたと足を止めた。
明日に提出が必要な書類を、机の中に入れっぱなしにしていたことを思い出した。
陸郎が足早に自分の教室へと戻ると、そこには一人の男子生徒が黙々と机に向かっている姿があった。
(飛八巳影……何をしている?)
確か彼はどの部活にも入っていない。いつもなら帰宅している時間帯である。
教室の入り口で止まっていた陸郎の気配に気づいたのか、飛八巳影は顔を上げて「やほー」とのんきな声をかけた。
「こんな時間まで何してるんだ? 居残りか?」
「そんなところ。兼元くんは?」
接する態度は気さくなもので、柔らかな物腰は自然と人と打ち解けていく。監視対象であるものの、陸郎もまたクラスメイトとしてよく話す間柄となっていた。
「俺は雑用とか。もう帰るけど……」
側に立つと、陸郎は小首をかしげる。巳影は何やらみっちりと書き込まれたノートにシャーペンを泳がせていた。
「俺って字が汚いっていうか、下手だからさ。先生に相談してみたんだけど、書きなれるのが一番だって」
ノートをよく見れば、そこにはあ行から始まり様々な単語や文章などが並んでいる。ページは相当進んでおり、もう残りわずかになっている。
「相談したのってコンドー?」
国語と生徒指導の二束わらじ、昭和を地で行く頑固教師を思い浮かべて言う。巳影がうなずくと陸郎は思わず肩をすくめた。
「今タブレットが主流なんだからさ、字がちょっとぐらい別にいいだろ」
「そうだけど……ちょっと格好つかないなぁってレベルだから」
苦笑する巳影に陸郎の毒気が抜かれる。そういえば……と。監視対象として飛八巳影の人物像について報告されたレポートを思い出した。そこには義務教育を受けていたのかと怪しく思える状況が書かれていた。
幼少期、飛八巳影はほとんどの時間をペット用のゲージの中で過ごしている。
「まあ。なんだ……がんばってんだな」
巳影の右手を見ると、手の内側が墨で真っ黒に汚れている。この調子ではノートを使い切るまで居残りをしかねない。それは果たして健全といえるか……陸郎は自分でもおせっかいだと思える自らの思考に、心の中で「俺は保護者か」とツッコミを入れた。
「もう今日はその辺にしとけよ。遅すぎるとさすがに先生でも心配するぞ」
「うーん、そうか……そうだね」
「そこまで書き込んだ執念には敬意を表する。特別に俺が帰りにアイスをおごってやろう」
なんとなく、このまま一人で帰すのは忍びなかった。誰かひとりぐらい、彼を認めてもいいだろうと……妙に感傷的な気分になった。
「え? それは悪いよ……」
「遠慮すんな。俺も食いたいから、ついでだ。さっさと手を洗ってこい」
夏にはまだ早い時期であるが、時折食べるアイスも美味しいだろう。巳影は遠慮気味に何度も首を横に振ったが、最終的には折れて手を洗いに行った。
「変に頑固なところあるな……」
巳影が戻ってくるまでに書類を回収し、そしてふと巳影の席に下げられた通学鞄に目をやった。
見ただけで、五冊。乱雑にノートが突っ込まれてある。喉がひりつくような乾きを覚えながら、そっとノートの一冊を取り出した。
「……集中力って、レベルのもんじゃないだろう……こりゃ」
一行ずつ書き詰められた単語や文章。それらは今書きかけのノートにも書かれている。そして表紙などはまだ固く、長い時間をかけて使い込まれているようには見えない。
今日一日。それも、放課後に居残りができる時間だけ……この二時間ほどだろう。
これらのノートはすべてわずかな時間だけで使い切られている。
そっとノートを戻す陸郎は、なにか底知れないものを感じた。ただの努力家である、と片付けることもできる。だが。虫も殺さないような笑顔の裏に潜むものが何であるか……。
「……獣、か」
額から浮き出た球の汗をぬぐう。軽く、膝が震えていた。
陸郎は監視対象が何者であるかを、改めて突きつけられたような気分になった。
獣とは、牙を持つものである、と。




