188:夜の底、深海の果て
背筋に走った悪寒が消えない。加えて喉がつまり、息苦しくなる。
上野の指先にともる影のようなものが、見ているだけで恐怖心を植え付けてきた。
「独学だけど、僕も死霊術が使えるんだ。もちろん、いずれは高橋さんと肩を並べる練度まで鍛え上げるつもりだ」
影はか細く燃えるろうそくの火を思わせるものだった。しかし、その影からはひしひしと伝わる異様な圧力を放っていた。直視すれば命の危機に直結するような……今まで感じたことのない恐怖に、陸郎は額に球の汗を浮かべる。
「そんなに怖がらなくてもいいよ。ここに来る前にかき集めた、特に何でもない心霊さ。まあ、成仏してるとは言えないからそれなりに凶暴ではあるけどね」
風に揺らめく影が、徐々に人間の顔に見えてくる。恐怖心がそう見せているのか、上野の術が動き出しているのか……陸郎に判断することはできない。
(呑まれるな……自分のなすべきことを考えるんだ!)
しびれて麻痺しかけていた思考を無理やりかき混ぜ駆動させる。奥歯を食いしばり、相手との距離を測った。
(頼みの綱のスタンガン……俺にはこれしかない。これを何とか当てて、上野を無力化させることに集中するんだ!)
しかし。細い鉄骨を渡らなければ上野に近づくことはできない。幅は足片方が乗る程度で、中央部分はまだ工事が手付かずで何もない空間である。足を少しでも踏み外せば、簡単に地面まで落下してしまう。
だが、バランスを取りながらよたよたとした足取りで近づく相手を近づかせる馬鹿はいない。上野は動かないままで、影の炎をまとわせる指を一つ立てて、そこへ静かに吐息を吹き込んだ。
指先の影がゆれると同時におぼろげな輪郭だった炎が外形を現し、一つの頭蓋骨が姿を見せた。人間のもの……ではない。明らかに骨格に合わない突き出した上下二対の犬歯がサーベルのようにむき出しになっていた。
「少しアレンジしてあるんだ。ただ心霊をけしかけるだけじゃあ、芸がないからね」
上野は得意げな顔で笑っている。宙へと浮かび上がった頭蓋骨は、空気の上をすべるかのような速さで陸郎へと飛び掛かった。
とっさにしゃがんだ陸郎の頭上で、伸びた犬歯が空を切る。空振りに終わった頭蓋骨の顎先に向けて、陸郎は叫びながら右の拳を突き上げるように放った。その拳には、切り札にするはずだったボールペン型のスタンガンが握られている。
真下からの拳で大きく傾いた頭蓋骨は、たて続けに突き立てられたスタンガンの電流によって鼻を突く酸に似た刺激臭をまき散らす。頭蓋骨には大きなひびが入り、顎先をがくがくと震えさせながら灰のように細かい粒子となって崩れていく。
やがて動く力を失ったのか。頭蓋骨はほぼ原形をとどめず鉄骨の上で跳ね、真下の地面へと溶けるように転がり落ちていった。
陸郎は荒い息で両肩を上下させ、まだ恐怖で震える全身を無理に落ち着けようと手のひらを強く握る。
「へえ、スタンガンなんて隠し持ってたんだ。強引とはいえ心霊を一つ退けるなんて……面白いじゃないか」
上野の間の抜けた拍手が、まだ態勢を立て直せずにいる陸郎を煽るように鳴り響いた。
(くそ……切り札のはずが……!)
だが今持てるすべてを出し切らなかったら、陸郎はあっさりと食い殺されていただろう。食いかかってくる頭蓋骨の牙を回避できたこと自体、奇跡のようなものだった。
「でも大変だねえ。心霊一つ相手にその様じゃあ……」
上野は芝居がかった動作で指先に宿る影の炎を高々と夜空にかざした。
「僕の用意した心霊はあと四つもある。はてさて君はどこまで耐えられるのかな」
ほくそ笑む上野の吐息が、別の指先にともる影を揺らした。
陸郎は悪態をつきながらも踏ん張ろうとしたが、膝が恐怖に耐えられず大きく震え、立つことすら困難になった。これでは心霊をけしかけられる前に、バランスを崩して鉄骨から落ちてしまう。
(どうする……!?)
万事休す。再び思考が焦りと恐怖で動かなくなる。汗は噴き出て体中を濡らし、荒く乱れた呼吸は一向に収まる気配を見せない。
『聞こえるか、そこの人間』
麻痺しかけていた陸郎の脳髄に、強引に割って入る声が響き渡る。
「……!?」
とっさに我に返った陸郎は周囲を見渡す。
『下だ。あの上野とかいう小僧に妙な薬を使われ、肉体は動かん』
脳内に響く声が、陸郎の視線を下へと向けた。その先には、ぐったりと倒れる巳影の姿があった。巳影からは動く気配すら感じられず、口も閉じたままだった。しかし、声はその巳影から陸郎の脳内に向けて放たれていた。
「……け、獣……っ!?」
直感が疑問を吹き飛ばす。声の主は、巳影の中にいる存在に間違いはないだろう。
『肉体の主導権は私にはない。だがもう少し粘れ。強引にでも肉体を動かす。それにはあと少し時間がかかるのだ』
うっすらと、巳影のまぶたが開きかけていた。そこからのぞく眼球は、深く黒く、まるで深淵の底のような色をしており、陸郎は全く別の怖気に襲われてしまう。
あれは、見てはならないものだと本能が悟った。人間でもなく、心霊でもなく。理解や想像が遠く及ばない、化け物なんだと。直視すれば、奈落に引きずり込まれてしまう……真夜中の深海の底に沈む自分の姿を連想してしまった。
「おや、どうしたのかなぁ。また顔色が悪くなったよ」
上野の指先の上からは、人間の姿と思しき人影が二つも立ち昇っていた。影は互いに抱きしめあい、黒々とした体を混ぜ合わせようとしている。
「これは無理心中した男女の心霊さ。有名な自殺スポットから引っ張て来たんだ、もっと驚いてもらわないと、僕の労力と釣り合わない」
上野は聞いてもいないことを饒舌に語り始める。意識を下に……獣に取られていた陸郎は顔を上げて、震える膝に力を入れて姿勢を立て直した。
上野が出した二つの心霊は互いに手を伸ばし、自らの体と思しきものをがんじがらめにしている。
再び危機意識が怖気で体をこわばらせる。だが、黒く交わり続ける影にそれほどの脅威を感じることはなかった。
なぜならもっと恐ろしいものが、すぐそばで目覚め始めているからだ。
深い深い、夜よりも暗い相貌は、徐々に開きかけていくまぶたの下で胎動のような震えを生んで、鉄骨全体をみしりと痺れさせた。




