第七話 【勉強とチョコレート】
5歳になった。
授業が始まった。
正直、この日は永遠に来ないのではないかと思っていた。
というのも、誰も俺の教師役を引き受けたがらないという話を、両親がしていたからだ。
「失敗するのを恐れているのよ」
ジュリエットは腕を組み、そう言った。
「ああ。万が一、教育を間違えて我々に悪く思われるのを避けたがっているんだろう」
ヴァレリウスも真剣な表情で同意していた。
結局のところ、セラフェル家の評価というものはあまりに重い。
もし俺の教育で何か手違いがあれば、彼らの未来そのものに傷がつく。
だからこそ、誰もが固辞したのだ。
プロ意識に欠けるとも言えるが、彼らを責めることはできない。
最年長の従兄弟が言った通り、俺は『温室育ちのボンボン』だ。
自分が知らない世界について、外野からとやかく言う資格はない。
幸いなことに、ジュリエットの粘り強さのおかげで、引き受けてくれる人物が見つかった。
年齢不詳の、赤髪の女性だ。
実年齢よりはずっと若く見えた。
俺たちは学習室として用意された南棟の部屋へと向かった。
黒板。
本で埋め尽くされた棚。
たっぷりと光を取り込む背の高い窓。
そして、机。
磨き上げられた濃い色の木材。
前世の写真でしか見たことがないような、アンティーク調の学習机だ。
「さて、ダリアン様。座ってちょうだいな」
俺は指示に従った。
「拝見したところ……ご両親からの報告では、基礎はすでに習得済みとのことね。読み書きは完璧。算術の基礎も問題なし……歴史についても、ご自身で学ばれているとか。かなりの量の本を読まれたのね?」
「はい、先生」
「素晴らしいわ。私の幼い頃と同じね」
一瞬、彼女の瞳がきらりと光った気がした。
「ああ、ごめんなさい……授業をするのは久しぶりなもので。真面目な話に戻りましょうか。これからは、より複雑な算術、より精密な地理学を学ぶわ。そして、新しい科目として『修辞学』を始めるわよ。他者の前で明瞭に自分の意思を表現する方法ね。……なんでも、自己表現が苦手だとか?」
「さあ、どうでしょう。自分では分かりません」
「問題ないわ。これから身につければいいのだから」
彼女はパン、と手を合わせた。
「授業の時間割は、週ごとに変更していくわ。常に朝とは限らないの。これは私の教育哲学なのだけれど、毎週異なる時間帯に学ぶことで、思考の停滞を防ぐのよ。脳に『これは繰り返しのループではない』と認識させることで、適切な休息と平穏を得ることができるの」
説明を終えると、彼女は俺を見た。
「ここまでの説明で、何か異論はあるかしら? ダリアン様」
「一つだけ」
「何かしら?」
「ダリアンと呼んでください。敬語もなしで」
「なるほどね。敬称を好まれないとは聞いていたけれど、形式上、必要かと思って。……ごめんなさいね、ダリアン」
俺は頷いた。
なぜ敬称が嫌いなのか?
単純だ。俺にはその価値がない。
それだけのことだ。
こうしてまた、見知らぬ他人との社会生活が始まった。
彼女は輝く茶色の瞳で、静かに俺を観察している。
「他に何か要望はある?」
「ない」
「よろしい。では、始めましょうか」
そうして、俺の最初の授業が始まった。
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―――ジュリエット・セラフェルの視点―――
私の可愛いダリアン。今日が初めての授業ね。
彼のためを思うと、胸が高鳴るわ。きっと上手くやるはずよ。
自然と、温かい笑みがこぼれた。
ふと、私自身の初めての授業のことを思い出した。
私は中流階級ですらなかった。貧しい家庭の出身。
母は私に良い未来を与えようと必死で、商業区に小さな露店を開いたの。
最初は出店許可さえ危ぶまれていたけれど、一度商品を試食してもらったら、すぐに受け入れられたわ。
店はあっという間に評判になった。
当時、私は六歳。
そんな私の店に、毎週決まった時間にやってくる男の子がいたの。
高価な服を着て、真っ白な髪をした男の子。
必ず同じ時間に、チョコレートを買いに来るのよ。
その顔には、はっきりと『抜け出してきた』って書いてあったわ。
隠しきれていなかったもの。
その男の子こそ―――
チョコレートを頬張りながら私を見つめ、
必要以上の代金をカウンターに置いていったその子こそ、
この国で最も裕福な一族、セラフェル家の正統なる後継者。
ヴァレリウス・セラフェルだった。
ああ、あの頃が懐かしい……。
お母さん、私を誇りに思ってくれているかしら。
不意に、背後から抱きしめられた。
顔が熱くなるのを感じる。
「あの頃を思い出していたのかい? 愛しい人」
「あ、あなた……その手、下ろして……誰かに見られるわ。あっ、そこはダメ……んっ……!」
「見られる? 息子は授業中だし、君がチョコレートを作っている間は、厨房には誰も近づかないよ」
「も、もう……どうしようもない人ね。……ええ、思い出していたわ。閉店数分前に駆け込んでくる男の子のことを」
ヴァレリウスが私のうなじに口づけを落とす。
「ああ、懐かしいな……あの頃の俺は止められなかった。おかげで今は、書類仕事で背中が痛いよ。親父は優しかったが、俺を危険に晒すことに関しては厳格だったからな。『危険だ! 跡取り息子が夜に出歩くんじゃない!』ってね。まったくもって正論だ。……だが、君に会うことは、当主の座よりも重要だった。もし君を手に入れられないなら、リーダーになんてならなくていいと、自分に誓っていたんだ」
耳まで熱くなるのが分かった。
私はくるりと体の向きを変え、彼の方に両腕を回した。
彼は私より背が高いけれど、抱き合うには完璧な身長差だわ。
「ふふ、いたずらっ子なロマンチストさん……。私たちのダリアンは、いたずらっ子なインテリになりそうよ。もう本棚から二十冊以上も持ち出しているみたい。このままだと、セレナの大図書館に行って、セラフェル家の名で『全部ください』なんて言い出しかねないわね」
「『だった』? 俺はもうロマンチストじゃないのか?」
「うーん……最後にしたのはいつだったかしら……?」
ヴァレリウスが口の端を吊り上げた。
私がよく知っている、あの危険な笑み。
「いつ、何をしていないって? 愛しい人」
「……今は空いてる?」
「それは答えになっていな―――」
「するの? しないの?」
「ああ、空いてるよ」
「寝室へ。今すぐよ。火をつけたのはそっちなんだから、覚悟してね」
一瞬の沈黙の後、彼は低く笑った。
「おや……甘いショコラティエ様が、随分と支配的になられたものだ」
「知ってるでしょ? いつだって甘いわけじゃないのよ」
彼は私の手を取った。
「喜んで責任を取らせてもらうよ」
「そうこなくっちゃ……」
「おや、愛しい人……もう片方の手にチョコレートがついているよ」
「あら……うっかりしてたわ。いつも手に甘いものが残っちゃうのよね……」
私はゆっくりと、指を口元へ運んだ。
「ジュ、ジュリエット……わざとやってるだろう……」
「何のことかしら、あなた?」
私は小首を傾げ、無垢を装った。
そして別の指についたチョコを、今度はもっとゆっくりと舐め取った。
笑わずにはいられなかった。
あの一族の当主が、ほんの少しのチョコレートで理性を失いかけている姿はおかしいけれど……
同時に、幸せでもあった。
彼は今でも、あの夜抜け出してきた少年のような目で、私を見つめてくれる。
それが私にとって一番大切なこと。
まだ私を求めてくれている。
まだ私を愛してくれている。
たとえこの手が、チョコレートで汚れていようとも。
そんな想いを胸に、私たちは寝室へと向かった。
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―――ダリアン・セラフェルの視点―――
授業は四時間で終わった。
最後に、先生の名前がルビーだと知った。
驚きはなかった。
髪の色からして、そうだろうと思ったからだ。
いや、「そうだろう」じゃないな。
間違いなくそれが理由だ。
五歳児なのに四時間も授業があった理由は単純だ。
ここでは人の成長が早い。
それに、時間を短くするかと聞かれたが、俺が断った。
授業を通じて、この王国について多くのことを知った。
まず、ゼレニアについて。
首都は元々、英雄の名を冠して『セレナ』と呼ばれていた。
だがその後、セレナ自身がその名を『ゼレニア』に変えたのだという。
理由は?
子供たちが彼女を記憶し、その名を世界に広めるためには、より強い響きが必要だったからだそうだ。
どうやら『セレナ』では単純すぎたらしい。
それでは偉大なる加護を想起させない、と。
セレナはある特別な集団に属する『天恵者』だったと言われている。
「『暁の目醒め』よ、ダリアン。この世界の歴史上、二人しかいなかったわ」
ルビー先生はそう言った。
暁の目覚め?
詳しい説明はなかった。
だが、その名前だけで……強さを感じる響きだ。
それはさておき。
「ゼレニアには、その地位ゆえに王族とみなされる四つの家門が存在するわ。順に言うわね。セラフェル、レオフル、クレアストス、ザイローンよ」
授業の中でルビー先生はそう説明した。
レオフル家について理解できたのは、彼らが古い家柄だということだ。
山から下りて定住し、すぐに『未来へ』と名付けられた新興の首都で名を上げた。
その名は当初、多くの破綻した漁師たちにとって、希望の象徴でしかなかった。
彼らは河川を管理し、魔法陣によって維持される自動化システムでそれらを正しく接続する役割を担った。
川の各分岐点には拠点が置かれ、魔法陣を維持し続ける限り、家族と共にそこに住むことが許された人々がいた。
雨季には、川の水位が数センチ上昇することすら許さない。
さらに、彼らは飲料水用魔法陣の先駆者でもあった。
それ以前、魔法陣から出る水は……『無』だった。
味も素っ気もなく、体にも悪かった。
そこで彼らは模索し、実験を重ねた。
そして山の岩石を使うことで、「正しい感覚」に到達したのだ。
この世界にはミネラルという概念がないため、彼らは感覚を頼りにした。
俺の理解では、レオフル家はその感覚に長けていたのだろう。
何しろ……彼らは水の家系なのだから。
その発見の後、彼らは岩石から抽出した微粒子を魔法陣の中に組み込んだ。
するとマナが、ミネラルを含んだ水の構成を「理解」し、その流れを模倣することに成功したのだという。
授業中、俺は単純な好奇心から質問をした。
答えは分かっていたが、何か言わなければと思ったからだ。
「先生。彼らが生命の源である水を支配しているのなら、どうして富の面では二番手なんですか?」
ルビー先生は答える前に書類を整えた。
「ああ、ええと、そうね……。あなたの家が一番なのは、金属を輸出しているからだけじゃないの。敵がいないからよ。いえ……表向きは、だけど。その点で、彼らは上手く取引を成立させたわ。四百年前のドゥルグハイムとの一件は、大きな勝利だったの。彼らが滅びかけていた時、どの国も助けを差し伸べなかった……」
「先生。他の国々は、彼らが無防備になるのを待って、全てを奪い取ろうとしていたんでしょう?」
彼女は迷わず頷いた。
「ええ、その通りよ。『神聖法』により、国家間の戦争は禁じられているわ。ですが、干ばつやその他の危機的状況における略奪までは防げないの。単純に……弱みにつけ込んで、全てを持ち去るのよ」
「神聖法? それは知りませんでした」
「いずれ学ぶわ。重要なことだからね。今は、求められたことを教えるだけよ」
また、はぐらかされた。
本に続き、先生までもが。
そして、なぜセラフェル家が最も裕福なのかという答え。
セラフェルがいなければ、レオフル家のシステムは崩壊する。
セラフェルがいなければ、魔物に対抗するための武器は存在しない。
セラフェルがいなければ、北の人々は寒さで死に絶える。
そしてセラフェルがいなければ、危険な海を渡ることは不可能だ。
国家間に平和があろうとも、内部抗争が消えるわけではない。
この世界に残酷さをもたらすのに、戦争など必要ないのだ。
魔物。
野獣。
精霊。
盗賊。
頻繁に出現するダンジョン。特に北部は戦闘が困難で、リスクに見合う報酬が得られることは稀だ。
ダンジョンは……
安全な道を阻み、
不必要な死を招き、
怪我人を出し、
常に生存本能を刺激する。いつ自分の家の近くに出現するか分からないからだ。
幸運なことに。
まあ、魔物だらけの墳墓が現れることを「幸運」と呼んでいいのか分からないが……
少なくとも、人の真上に実体化することはない。
出現そのもので死ぬことはない。
その後に来るもので死ぬのだ。
具体的には、完全なランダム出現ではないらしい。
長い時を経て、人々はダンジョンが決して現れない地域を特定していった。
それらの場所が集落となり、都市となった。
ゼレニアの近くには一度も出現したことがない。
それは偶然ではないのだ。
...
ふう……今回はかなり興味深い情報を得られた。
ルビー先生は気の毒だったな。俺が質問攻めにするせいで、喋りっぱなしだった。
「もし何かがそうであるなら、変えることもできますか?」
冷風の魔法陣について聞いた時だ。
「それが魔法というものよ、ダリアン。魔法陣を変えることができれば、あなたはもう魔術師ね」
彼女はいつも忍耐強く答えてくれた。
決して短い言葉で済ませたりはしなかった。
ただ……多くの質問を避けられたのも事実だ。
『天恵者』について。
セレナについて。
神聖法について。
そして、俺が理解できなかった、王国の正確な歴史について。
勉強の後は、剣術の授業だ。
ガキンッ!
俺は従姉妹のヴァレリアと手合わせをしていたのだが、彼女は生まれついての戦士だった。
アレクシオは、俺に近い年齢の相手と訓練するのが最善だと判断したようだが、その「相手」が、かつては甘えん坊だったはずの従姉妹だとは予想していなかっただろう……。
「ダリぃぃぃくぅぅぅん! やぁぁぁっ!」
彼女は満面の笑みで剣を振り回してくる。
俺は身を低くしてそれを回避した。
片手を地面につき、脚を払うように回転させて彼女の脚を打つ。
彼女はバランスを崩し、土煙を上げて尻餅をついた。
「今の……ずるいもん! ううん……すごい! 今のすごかったよっ!」
俺は手を差し伸べて彼女を助け起こした。
彼女の顔が真っ赤になった。何か言おうとしたが、先にアレクシオが口を開いた。
「君、今の動きは……一体なんだ? 北部の戦士のような戦い方だったが」
「ああ、勝手に体が動いて……本能かな。本で読んだんだ。足技を使う戦士の話を」
アレクシオは必要以上に長い間、俺を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
だが、俺は真実を知っている。
前世で熟練の武闘家だったからだ。
望んでそうなったわけではない。
「弱きを守る」ために必要だったからだ。
もっと幼い体だったら、今の足払いは不可能だっただろう。
剣の訓練を始めたおかげで、この体も順応してきている。
俺はまだ顔を赤くしてそっぽを向いているヴァレリアに近づいた。
「ヴァレリア、もし何かあったら言ってくれ。痛くなかったか?」
「な、なんでもないもん……あっち行って、ダリくん。レディにはプライバシーが必要なのっ!」
「でも―――」
「ダリくん、お願いっ!」
彼女は振り返らなかったが、背後で手をシッシッと振って俺を遠ざけた。
そんなやり取りを経て、訓練は続いた。




