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第五話 【懐かしき、わが家の味】

 それからの約一年間、俺はこんな風にして過ごした。


 最初は、魔法の修練を隠れて行っていた。

 だがジュリエットに見つかってからは、バルコニーで堂々とやることにした。

 勘を鈍らせないよう、毎日欠かさず、根気強く。

 魔導書に幼少期からの鍛錬が必要不可欠と記されているのなら、やるしかない。


 精根尽き果てるまで練習した。

 魔力が空になり、日を追うごとに体が楽になっていく。

 その事実に気づいたのは、最初の数週間が過ぎた頃だった。

 内側に痛みを感じるほどの疲労を抱えて眠りについても、翌朝には活力が満ち溢れている。使える魔法の数も、着実に増えていた。


 本に載っている魔法陣の数に限界があるのではと考えた時期もあったが、水と風を組み合わせれば靄が発生することに気づいた。

 逆に重ねれば霧になる。

 描きたいイメージに合わせて機能するが、二つの円を均等に重ね合わせる必要がある……さもないと……。


 ああ、危うく腕を凍らせるところだった。


 なぜ幼い頃から体を鍛える必要があるのか。それは発達の窓と呼ばれる期間、つまり体が刺激に対して最も柔軟に、かつ素早く適応できる時期だからだ。

 すべては、魔術師が魔法陣の第一地点へマナを送り込むために到達すべき状態、いわゆる原点へと繋がっている。

 地点は通常、計六つ。中には十二まで拡張するものもあるらしい。


 論理は極めて単純だ。

 数値を定量的に理解したり、視覚化したりする必要はない。

 ただ図形を正確に構築し、精神をゼロに保てばいい。


 原点、魔術師が在るべき場所。

 第六地点、扉。

 第五地点、貯蔵。

 第四地点、無駄を省くためのマナ処理。

 第三地点、秩序だった魔法のためのマナ統合。

 第二地点、三から一への架け橋。

 第一地点、マナが最後に到達する場所。


 実にシンプルだ。

 この全工程は一秒足らずで完了し、余ったマナは自分へと還ってくる。

 第一地点は、魔法を放ちたい方向へ向ける必要がある。

 初めて魔法陣を展開した時、風が四方八方に散らばってしまった。

 最適化すればマナを無駄にせず、効果も高まる。

 反対方向へ同時に放ちたいなら、それぞれに第一地点を配置すればいい。

 ただし、上限は二つまでだ。威力は倍にならず、単純に分割されるだけだが。


 ちなみに十二地点については、本には何も記されていなかった。


 ただ、冷たい風でこれを行うと面白いことが起きる。

 片方からは風が。

 もう片方からは冷気が出る。

 なぜこんな話をするのか。

 別に無から冷気を生み出しているわけじゃない。

 ただ熱い空気を取り込み、風の出る地点から排出することで、その過程で冷気が発生しているだけだ。

 要するに、高度な冷却システムである。


 これを発見したのは……まあ、地下室でのちょっとした出来事がきっかけだった。


「ダリアン。許可なくそこへ入ってはいけないよ……それは自動発動型の術式だ。干渉すれば、良くも悪くも変質させてしまう可能性がある」


 ヴァレリウスに見つかった際、そう釘を刺された。


「良くも悪くも、とはどういう意味ですか」


 俺は問い返した。

 疑問をそのままにしてはおけなかった。


「ふむ、これほど早く返答が来るとは……。そうだな、強いて言えば、副次的な効果を変えてしまうということだ」


 卓越した知性で家を束ねる彼だが、俺との対話は一番の難業であるようだった。

 実際、魔法の疑問にいつも答えてくれるのはジュリエットの方だ。


「副次効果ですか。熱ですか」

「あぁ、熱だ。食料が腐敗したり、最悪の場合は火災の原因にもなる」

「なるほど。ですが、僕の意志が介入しない限り、術そのものには影響しませんよね、父様」

「それでも注意するんだぞ、いいな?」


 彼はそう言い残し、肩に紙切れをくっつけたまま去っていった。


 可哀想に。

 家族と過ごすより執務室に籠もる時間の方が多いのだろう。

 なぜか彼には親近感を覚えた。

 まだ父様と呼ぶには抵抗があるが。

 礼儀としてそう呼んではいるものの……。


 いや、今はいい。

 先を続けよう。


 ---


 それは、今日のことだった。


 この世界に来てから四年。

 ようやく誕生日の仕組みを理解した。

 ここでは十七歳で成人するまで、誕生日は祝わないのが通例らしい。


 上流階級や王族は、その日まで何もしない。

 毎年、ただ贈り物を積み上げていくだけだ。


 中流階級なら、数年おきにささやかな宴を開く。

 基本的には商談や人脈作りの場だ。


 そして下層階級。彼らは毎年、何かを準備する。

 富は少なくとも、精一杯祝うのだ。

 下層階級と言っても貧困層というわけじゃない。実際にはそれなりの余裕がある。

 王都の下層階級は、地方都市なら中流の下にあたるレベルだ。


 俺の場合、成人するまでは何もなし。

 ジュリエットも、それが忘れられないほど盛大なパーティーになるならという条件で、その伝統を受け入れてくれた。


 忘れられないパーティーなんて御免だ、と新米の母親にどう伝えればいいのか。

 拒絶は不可能。

 受諾も……交渉の余地はない。

 運命はすでに決まっていた。


 今さら運命などという非論理的なものを信じているのかって。

 いや、それは避けられない事態を正当化するための決まり文句に過ぎない。

 ただ、誰かがこのすべてを仕組んだのではないか、とは思う。

 異世界に赤ん坊として転生するなんて確率は、ゼロに等しいはずだ。


 ……まあ、いい。今は考えたくない。

 俺は彼女のことを考えていたい。母さんのことを。

 名前はヒヨリ。ジュリエットと同じような威厳を持った人だった。


 ジュリエットが宴を望むなら、そうなるだろう。

 ジュリエットが休めと言うなら、休む。

 ジュリエット……ああ、もう説明は不要だな。


 彼女にだけは、俺に選択肢はない。

 理由も分からぬまま、二言目には従っている自分がいる。

 これが母親の権威というやつか。

 それとも絶対的な上位存在への服従か。

 単に、壊したくないものへの本能的な反応か。

 それとも……。

 彼女が、あの人を思い出させるからか。


 俺は頭を振り、両頬を叩いた。

 たぶん、風呂にでも入ったほうがいい。


 ---


 翌日から、新たな訓練が始まった。


 事の起こりは、ヴァレリウスがバルコニーで魔法に励む俺の姿を目にしたことだ。

 俺を見つけるなり、彼は頷き、そして叫んだ。

 すでに目が合っていたのだから、叫ぶ必要はなかったはずだが。


「どうしました、父様」

「降りてきなさい。会わせたい重要な人物がいる」

「後回しには……」

「ならん。重要だ」


 溜息をつき、下へと降りる。

 案内されたのは訓練場だった。


 破壊された身代わり人形。

 鮮やかに断裁された丸太。

 倉庫に積まれた新品の備品。

 数多の木剣と弓、そして的。

 ここには訓練に必要なすべてが揃っていた。家族や護衛たちのための場所だ。


 そこで一人の男が待っていた。


 身長はおよそ一九〇センチ。

 赤茶色の髪に、鋭い緑の瞳。

 岩のような筋肉を纏い、その眼差しは歴戦の勇士そのものだった。


「ダリアン。こちらはアレクシオ卿。我が家の護衛隊長だ」


 その立ち姿から放たれる威圧感の前では、隊長という肩書きすら霞んで見えた。

 どこか一国の支配者と言われても信じてしまいそうだ。


「お初にお目にかかります、ダリアン様。ご記憶にはないでしょうが、赤ん坊の頃にお会いしておりますよ。ご両親がピクニックに出かけられた際、一度だけ私がオムツを替えさせていただいたことがありましてな。その後すぐに遠征へ出たため、今日までお会いできずにおりました」


 父と親しい使用人が、また一人。


「なるほど。自己紹介は不要みたいですね。……お会いできて光栄です、アレクシオ。僕はダリアンです」

「ふむ。お父上からは、これから何が起きるか聞いておられないようですな」

「ええ、何も」


 隣に視線を向ける。

 父の姿は、すでにそこにはなかった。

 いつの間に消えたんだ。


「ここでは幼い頃から剣を学びます。通常は六歳からですが、あなたは次期当主候補。その過程を少し早める必要がある。分かりますか」


 この世界の人間は成長が早いようだ。

 俺は四歳だが、六歳の子供と言われても違和感のない体格をしている。

 微々たる差だが、無視できないほどの実感があった。


 俺の言葉は、思っていたよりも短く溢れた。


「剣、ですか」

「魔法陣に注力されているのは存じております。しかし、魔法の才があるなら、剣の才もまたあるはず。流派こそ違えど、外部魔力と内部魔力は互いに補完し合うもの。この二つを正しく結べば、空斬りと呼ばれる技を放つことも可能でしょう。例えば、このように……」


 アレクシオは木剣を構えるなり、巨大な岩を一刀両断にした。


「極めれば内部魔力のみで空を生み出せますが、まずは両方を応用することから始めましょう」


 俺は唾を飲み込んだ。

 動きがまったく見えなかった。

 何より、木剣でどうやって岩を斬るんだ。


 その名は、文字通りの真空を作り出すわけではないらしい。

 斬撃が虚空、つまり無の空間を抉るように見えることから名付けられた。

 絶対的な虚無とは違うようだが、そこで俺はあることに気づいた。


「待ってください、アレクシオ……今、次期当主候補と言いましたか」

「ええ、言いましたが。……ああ、まだお聞きになっていなかったと。……しまったな」


 最後の一言はやらかしたというニュアンスの呟きだった。


「アレクシオ。断ることはできないんですか。次期当主は知性や努力、功績で選ばれるはず。当主の息子だからといって継ぐ必要はないはずだ」

「……ふむ。四歳にしてはよく回る口だ。だが、その通りですね。……さて、最後にもう一度問いましょう。学びたいですか、否か」


 溜息をつく。

 考え、顎に手をやり、彼を見上げた。


「はい、やります」

「よろしい。では始めましょう」


 こうして、アレクシオとの修練が幕を開けた。


 ---


 時が経つにつれ、アレクシオが両親……シオマラとアレックスを亡くしていることを知った。


 俺とは違い、彼は前を向く術を知っていた。

 その後、彼はセラフェル家に引き取られた。

 彼が言葉を選ぶのは、彼にとって俺がまだ幼い子供だからだろう。

 引き取られたと言っても、実際には奴隷として売られていたところを、俺の祖父にあたるアエリウスに解放されたらしい。

 その恩義から、彼は家のために尽くしてきた。

 無給で働くことすら申し出たが、アエリウスはそれを撥ね付けたそうだ。


「その天賦の才を金に変えるか、さもなくば去れ」。それが祖父の言葉だったという。


 アレクシオは寡黙だが、一度口を開けば自分の歩みを理路整然と語ることができた。

 それでも、俺に向ける言葉は常に柔らかかった。


 彼には名字がなかった。

 この国の多くの者と同じだ。

 だが、彼は遠征先で出会った貴族の娘と結ばれた。


 今の名はアレクシオ・シオスパ。

 名字の頭文字が同じだったのは、ただの偶然らしい。

 恋に落ちるまで、彼女の名字すら知らなかったのだから。


 それ以上、彼は語らなかった。俺も深くは訊かなかったが……。

 もう少しだけ、彼のことを知りたいと思った。

 子供でいるというのは、実に歯痒い。


「ダリアン……」


 アレクシオが指を鳴らした。

 その瞬間、彼の纏う空気が鋭く変わった。


「目を覚ませ、ダリアン。訓練の時間だ」

「あ、ああ。悪い、少し考え事をしていた」


 基本の構えをとる。膝を曲げ、右足を前、左足を後ろに引き、わずかに重心を下げる。


「違う。リラックスしろ、ダリアン。体が強張っているぞ」

「自分ではどうしようもないんだ。この体……いや、僕の言うことを聞いてくれないみたいで」

「ふむ。自分が一本の杭であるかのように考えているな。竹になったつもりで動くんだ。風に逆らわず、受け流せ。しなり、流れ、そして再び立ち上がるんだ」


 俺は頷き、訓練を再開した。


 ---


 一時間後、俺は地面に転がっていた。

 荒い息をつきながらも、剣だけは離さない。


「よし、ダリアン……」


 アレクシオが何かを言いかけたが、それは即座に遮られた。


「ダリくーん! 私の可愛い坊や、お昼ごはんの時間よー!」

「でも母様、もう少しだけ……」


 珍しく、俺は即答しなかった。

 この訓練が、想像以上に自分を突き動かしていたからだ。

 しかし、彼女の声色が瞬時に変わる。


「お母様に口答えする気かしら、坊や」

「い、いえ。今行きます、母様」


 ジュリエットはそれだけでは許さなかった。


 すでに湯浴みの準備をさせていたのだ。

 食事をするなら、清々しい状態で。

 さもなくば、彼女の機嫌を損ねることになる。

 結局、俺がどちらを選ぼうと、結末は同じだった。風呂に入り、そして食べる。


 髪を湿らせたまま、食堂の席に着く。

 母、ジュリエットは、見慣れないシミのついたエプロン姿だった。

 模様……ではないな、たぶん。


「坊や、これがママの自信作よ……!」


 デザートが山盛りになったトレイ。

 その中央に、大きなマグカップが置かれた。


「母様、これは……」

「ホットチョコレートよ! 昔はお店で売っていたのだけど、あなたには特別にタダで飲ませてあげるわね」


 チョコレート……。

 最後に口にしたのは、いつだったか。


「僕は……何と言えばいいか、母様……」

「いいのよ、飲んでみて。何も言わなくていいの。ママのモットーは考えず、流れに乗ることでしょう?」


 マグカップを両手で包み、そっと一口啜る。


「これは……」

「どう……かしら」

「……懐かしい味がします」

「懐かしい」

「と、とっても美味しい、という意味です」


 俺はもう一口啜り、自分の言葉を証明してみせた。


「キャーーッ! 愛してるわ、私の可愛い坊や!」


 若き、新米の母親。俺に言えることは何もない。

 ただ、彼女の笑顔は、形容しがたい何かで俺の心を満たしてくれた。


 格別に美味しいホットチョコレートと、俺を愛してくれる母。

 今回ばかりは、その温もりに身を委ねることにした。

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