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空明の再誕 - 生きる理由を取り戻すために  作者: 日和秋彦
第4章 - 風

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第三十八話 【瞳の中の虚無】

「ダメだ……!」


 ヤズミの体が震え始める。


「もっと時間があると思っていたのに……」


 一体何の話だ?


「ヤズミ? どうしたの?」

「王が……もうみんなを帰還させようとしているんだ。もっと時間をもらえると思っていたのに」

「でも、ヤズミ、何かできないの……?」

「無理だ……ごめん、マリア。僕にはどうすることも……うっ!」


 ふいに、窓の方へ視線を向ける。


「ごめん……また会おう」


 そして、ためらうことなく暗闇の中へと飛び出していった。


「ヤズミ……」


 ルビーが腕を組んだ。


「どうせ、またあんたに気を持たせるためだけに来たんだと思ってたわ」

「姉さん、やめて……ふぅ……それより、ご飯にしない?」


 そう言いながら、マリアがこっちを見る。

 今起きたことから気を逸らそうとしているのか?

 いや、マリア、悪いな。全部聞こえていたし、今回ばかりはほんの少しの誤魔化しで納得するつもりはない。年相応の子供みたいに、見て見ぬふりをする気はもうないんだ。

 少なくとも、これからは自分の力で理解してみせる。


「ねえダイキ、聞いてる?」


 目の前で指を鳴らされた。


「ご飯にするわよ、ね?」


 すぐには答えなかった。

 もしヤズミの言う通り、妖精王が同族を操るためのオーラのようなものを放っているのだとしたら……じゃあ、どうしてそれがここまで届いたんだ?

 もしかすると、あいつには別の刻印があるのかもしれない。

 分からない。


「ダイキ!」

「どうした?」

「食べるの? 食べないの? 決めて。何も答えないなら、あんたのご飯はなしにするわよ」

「ああ、食べる」

「よし、行くわよ」


 こくりと頷く。


「今日はシチューを作るわ。特別なやつをね。準備はいい、坊や?」


 一方のルビーは、まだ腕を組んだまま窓の外を見つめている。


「あの男……どうも気に食わないわ」


 何と言えばいいのか分からなかった。

 ある程度までは、ヤズミに同情していた。

 だから、そっと近づいてみる。


「なあ、ルビー。どうして気に食わないんだ?」


 ルビーは少しだけビクッとした。


「あ、私……えっと……その、あんたには敬意とか色々教えたけど……あいつには、なんだか無性に憎みたくなる何かがあるのよ。理由は分からないけど」

「あいつが妖精だからじゃないか? その『精神支配』ってやつが本当で、妹が被害者になるんじゃないかって、恐れてるんだろ?」

「ええ……まあ、そんなところね」


 なるほど。

 やはりそう思っていたか。

 責める気にはなれない。

 きっと、エリザベスが同じような目に遭っていたら、俺も同じ反応をしていただろう。

 だが、マリアをそう簡単に見くびることはできないとも感じていた。


「マリアはもう、強くて芯のある大人の女性じゃないか? 色んなことを乗り越えて、それでも前に進んでる。それに、騙すのはそう簡単じゃない。分かるだろ?」

「分かってるわよ、ダリ……ダイキ。信じて、ちゃんと分かってるの」

「じゃあ、何が問題なんだ?」

「何でもないわ。それが問題なの。私は誰とも心を通わせられなかったし、一緒に未来を想像できる相手もいない。結局、ただの姉の嫉妬なんだと思う。分からないけど」

「ルビー、いくつになった?」

「二十七よ。それが何?」

「で、誰にも出会ってないって?」

「ええ、そう言ったわ。どうして?」

「質問を質問で返しちゃダメだって知ってたか?」


 瞬きをし、それから苦笑いを漏らす。


「そうね」


 近づいてきて、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。


「いつからそんなに賢くなったの、ダイキ?」

「お前が教えてくれたんだろ。もっとも、俺も結局同じことをしちゃう時があるけどな。状況によるさ。それにお前の状況は難しくない……むしろ、俺には理解できないよ。お前自身が自分のことを分かってないなら、俺に分かるわけがない」


 椅子の方へと歩いていく。


「とにかく、前に進むしかないんだ。だろ?」


 椅子に座る。


 ルビーは数秒こちらを見つめ、小さな笑い声をこぼした。とてもささやかなもので、同時にその顔に自然な笑顔を浮かび上がらせた。


 これで傷が癒えるわけではないし、ネガティブな感情がすぐに消え去るわけでもない。だが、少なくとも今は、解決策が存在することを知っている。そして時には、それこそが最も重要なことなのだ。


 心の中で笑う。自分がそんなことを言うなんて皮肉なものだ。結局のところ、残されているのは、この先どうなるかを見届けることだけなのだから。


【こうなった今、私たちは再び対話できる。どれだけの時間になるかは分からないが、話すことはできる】


(自分が何者なのか教えてくれる気になったのか? それに、同じ存在であるかのように複数形で話すのはやめろ……)


【私たちは思考する。分析はしない。ただ思考することしかできず、もはや解決することはできない……そして、私たちは同じだろう?】


(ただの狂気、おそらく統合失調症の産物だとしか思えないがな……)


【どう思考しようと自由だ。だが、私たちが君自身の心よりも現実的であることは否定できない】


 ……


【なぜ……私たちは……君は、治癒できるふりをしてまで固執するのか? そんなことをしても弱くなるだけだ。そうは思わないか?】


(いや……弱くなんかならない。元から弱かったんだ。前世では神だったかもしれないが……俺の心はあまりにも脆く、転生して、愛してくれる人たちと七年間過ごしても、未だに癒えないままだ。俺は弱い。ずっと弱かったし、お前もその現実は否定できないだろ)


【……分かった】


 そして、静寂が訪れた。

 完全な沈黙。

 触れられそうなほどの静けさだった。

 まるで、心の中にいるかのようだった。


「うっ……」


 その沈黙と共に、頭痛が走る。

 一時的だが、確かな痛みだ。

 その時、ルビーが再びキッチンのほうへと背中を押してきた。


「マリア。続ける?」

「ええ、姉さん。手伝って」

「完璧ね。じゃあ、何をぐずぐずしてるの?」

「何でもないわ。始めましょう」

「マリア……そういう質問は答えるためのものじゃなくて、行動で示すためのものよ」

「え? もう、早く始めない?」


 ルビーは微笑んだ。

 テーブルに顔を突っ伏す。


(俺は本当に、そこまで弱いのだろうか?)


 腕をテーブルの上に投げ出す。

 癒されたい。それは分かっている。

 だが、あの声が正しいのかもしれない……。

 どうすればいい?

 再び姉妹の方へと視線を向けた。


「ルビー! 服が真っ赤じゃない……アメリアちゃんが縫ってくれたのに」

「ああっ! 嘘でしょ……あの子、すっごく怒るわ」


 瞬きをした。

 守りたい。

 それがやりたいことだ。

 そして、必ずそうする。


 今ここから、本当の訓練が始まるんだ。


 ---


 翌日。初めて水への制御力が発現したあの湖で、訓練を開始した。


 いつものことだが、水は待つ。そして、それを受け止める完璧な器が存在する限り、こちらの意思に順応する。さもなければ、水は一定の形を保ち、時が経てば最終的にその力を押し付けてくる。

 片足を水に浸した。


「よし……集中だ……」


 膝を曲げ、激しい動きで空手の型を打ち始める。


 打撃、回転、そして素早い足運び。普通なら水しぶきを四方八方に散らしてしまうような動きだ。


 水面が崩れそうになるたびに、水への制御力を駆使してそれを静止させ、小さな波紋を抑え込み、飛沫が形になる前にすべて押し潰していく。


 非常に困難だった。

 少しずつ、普通ではあり得ないほどの汗をかき始める。

 そして、型の半分に差し掛かったところで、そのまま水の上に仰向けに倒れ込んだ。


 荒い息を吐く。

 動きながら水を静かに保つ。ただそれだけが課題だった。

 たったそれだけのことなのに、やり遂げることができなかった。


「ダイくん?」


 背後から声が聞こえた。

 振り返ると、アメリアが後ろ手で手を組み、驚いたような表情でこちらを見つめている。


「やっと見つけた! ここにいるって思ってたよっ!」


 アメリアはカタツムリを大きな葉の上に置くと、ドレスを濡らさないように少し持ち上げながら近づいてきた。


「そんなふうになってるなんて、暑かったの?」


 彼女は空を見上げる。


「マリアちゃん、ダイくんがどこに行ったか教えてくれなかったもん。来ちゃダメって言ったの?」

「いや、そんなことは言ってない。どうして?」

「んー……きっと、言っちゃいけないって思ったんだよっ」


 行き先を伝えていなかっただけだ。

 ただそれだけのことだった。


「ああ、そうかもな」


 アメリアはもうドレスのことは気にせず、隣に座り込んだ。


「たまにすっごく暑くて、もう耐えられない時があると思うんだ。ドレスなんてどうでもいいもん! それに、私が縫ったんだから、これは私のお仕事なの。だからこう言ってもいいんだよっ!」


 腕を組み、一人でうんうんと頷いている。


「それより……どうしてそんなに苦しそうに息してるの? それは、ぜーんぜん普通じゃないよっ、ダイくん」


 カツッ……ズリッ……カツッ……ズリッ……


「なんだ?」


 足音が聞こえた。

 ゆっくりとした、しかし重々しい足音。

 辺りの空気が冷たくなり……さらに重苦しさを増し始める。


「ダイくん! あれ何っ!?」


 答えなかった。

 音のする方向をじっと見据える。

 そして、それを見た。

 遠くから、背が高く細身の影が姿を現した。

 血まみれの巨大なコートを羽織り、顔は完全に覆い隠されている。

 その『何か』は、こちらを指差した。

 そして、まるで皮のマスクでも剥ぐかのように、自分の顔を引き裂き始めた。


「あれは……エリトだ! 目を隠せ、アメリア!」

「は、はいっ!」


 アメリアはポケットから二つの包帯を取り出した。


「ママが……も、もしもの時のために、いつも準備してくれてるの……っ」


 勇敢に振る舞おうとしていたが、ひどく怯えていた。


「つ、つけて、ダ、ダイくん……っ」


 包帯を受け取り、すぐに自分の目を覆う。

 アメリアが背中にしがみついた。


「くそっ……こんなの予想してなかったぞ……」


 その時……


「ここから失せろ!」

「ウウゥゥ……?」


 気配がどんどん近づいてくる。

 指が頬から頬骨にかけて滑っていくのを感じた。

 今まで経験した中で、最悪の感触だった。

 だが、今ここで心を折られるわけにはいかない。

 エリトの物理的な力は弱い。

 耐え抜くだけだ……。

 そして……


「ギイィィィィィィィィ……」


 指は頬骨をゆっくりと這い上がり、包帯に届き……

 それを引き剥がした。

 その瞬間、本能的に目を開け、奴の月のような単眼を直視してしまう。その左側には一筋の……。


「ぐっ……! ダメだ……見るのを避けられなかった……」


 絶対的な虚無……。


 お前は何の役にも立たない……。

 ???……??……??

 すべてが崩れ落ちていく、だろう……?


 お前は完全な失敗作だ……。

 岩の壁。

 お前は存在しなくなる……。


「弱き者を守りなさい。それがあなたのすべきことよ」

「いや。ここでお前こそがゴミだ。お前だけが弱い……そして誰も守れなかった。お前を息子だなんて一度も思いたくなかった」

「私たちが死んだのは……あなたがただ存在し続けるためで、生きるためじゃなかったの?」


 ドォォォン!!


 再び、トラックの衝撃を感じた。


 死だ。

 またしても。

 その冷たさは、エリトが引き起こせるどんなものとも比較にならないほどだった。


 目を開け、わずかに首を傾げながら、もう一度奴を見つめ返す。

 エリトが後ずさる。

 長く歪な指を持つその手が、震え始めた。

 次の瞬間、エリトの頭が破裂した。


「マリアちゃん!」


 アメリアが駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。


「すっごく怖かったよぉ……」


 だが、マリアはこっちを見ていた。

 アメリアの言葉など完全に無視している。

 俺が奴を見て……それでも何事もなかったのを、見られたのだろうか?


「ダイキ、大丈夫?」

「え? あ、ああ……大丈夫だ。完全に奴を見る前に来てくれたからな。たぶん、あれは時間がかかるんだろ」


 いいぞ、ダイキ……。

 まるでビデオゲームみたいだな。

 とはいえ……案外本当にそういう仕組みなのかもしれない。

 もし、もう少し長く見つめていたら、結果は違っていたのだろう。


 マリアはエリトの方へと視線を向けた。

 その存在は血肉の通ったものであり、想像していたような霊的なものではない。

 奴が着ていたコートは明らかに他人のものであり、顔を隠すために使っていたあの皮のマスクも同様だった。


「さあ、帰るわよ、子供たち。何も言わずにここで何をしてたの?」


 その言葉とともに、俺は視界から消えるまで、ずっとエリトを見つめ続けていた。


 一体、あれは何だったんだ?

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