第三十八話 【瞳の中の虚無】
「ダメだ……!」
ヤズミの体が震え始める。
「もっと時間があると思っていたのに……」
一体何の話だ?
「ヤズミ? どうしたの?」
「王が……もうみんなを帰還させようとしているんだ。もっと時間をもらえると思っていたのに」
「でも、ヤズミ、何かできないの……?」
「無理だ……ごめん、マリア。僕にはどうすることも……うっ!」
ふいに、窓の方へ視線を向ける。
「ごめん……また会おう」
そして、ためらうことなく暗闇の中へと飛び出していった。
「ヤズミ……」
ルビーが腕を組んだ。
「どうせ、またあんたに気を持たせるためだけに来たんだと思ってたわ」
「姉さん、やめて……ふぅ……それより、ご飯にしない?」
そう言いながら、マリアがこっちを見る。
今起きたことから気を逸らそうとしているのか?
いや、マリア、悪いな。全部聞こえていたし、今回ばかりはほんの少しの誤魔化しで納得するつもりはない。年相応の子供みたいに、見て見ぬふりをする気はもうないんだ。
少なくとも、これからは自分の力で理解してみせる。
「ねえダイキ、聞いてる?」
目の前で指を鳴らされた。
「ご飯にするわよ、ね?」
すぐには答えなかった。
もしヤズミの言う通り、妖精王が同族を操るためのオーラのようなものを放っているのだとしたら……じゃあ、どうしてそれがここまで届いたんだ?
もしかすると、あいつには別の刻印があるのかもしれない。
分からない。
「ダイキ!」
「どうした?」
「食べるの? 食べないの? 決めて。何も答えないなら、あんたのご飯はなしにするわよ」
「ああ、食べる」
「よし、行くわよ」
こくりと頷く。
「今日はシチューを作るわ。特別なやつをね。準備はいい、坊や?」
一方のルビーは、まだ腕を組んだまま窓の外を見つめている。
「あの男……どうも気に食わないわ」
何と言えばいいのか分からなかった。
ある程度までは、ヤズミに同情していた。
だから、そっと近づいてみる。
「なあ、ルビー。どうして気に食わないんだ?」
ルビーは少しだけビクッとした。
「あ、私……えっと……その、あんたには敬意とか色々教えたけど……あいつには、なんだか無性に憎みたくなる何かがあるのよ。理由は分からないけど」
「あいつが妖精だからじゃないか? その『精神支配』ってやつが本当で、妹が被害者になるんじゃないかって、恐れてるんだろ?」
「ええ……まあ、そんなところね」
なるほど。
やはりそう思っていたか。
責める気にはなれない。
きっと、エリザベスが同じような目に遭っていたら、俺も同じ反応をしていただろう。
だが、マリアをそう簡単に見くびることはできないとも感じていた。
「マリアはもう、強くて芯のある大人の女性じゃないか? 色んなことを乗り越えて、それでも前に進んでる。それに、騙すのはそう簡単じゃない。分かるだろ?」
「分かってるわよ、ダリ……ダイキ。信じて、ちゃんと分かってるの」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「何でもないわ。それが問題なの。私は誰とも心を通わせられなかったし、一緒に未来を想像できる相手もいない。結局、ただの姉の嫉妬なんだと思う。分からないけど」
「ルビー、いくつになった?」
「二十七よ。それが何?」
「で、誰にも出会ってないって?」
「ええ、そう言ったわ。どうして?」
「質問を質問で返しちゃダメだって知ってたか?」
瞬きをし、それから苦笑いを漏らす。
「そうね」
近づいてきて、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。
「いつからそんなに賢くなったの、ダイキ?」
「お前が教えてくれたんだろ。もっとも、俺も結局同じことをしちゃう時があるけどな。状況によるさ。それにお前の状況は難しくない……むしろ、俺には理解できないよ。お前自身が自分のことを分かってないなら、俺に分かるわけがない」
椅子の方へと歩いていく。
「とにかく、前に進むしかないんだ。だろ?」
椅子に座る。
ルビーは数秒こちらを見つめ、小さな笑い声をこぼした。とてもささやかなもので、同時にその顔に自然な笑顔を浮かび上がらせた。
これで傷が癒えるわけではないし、ネガティブな感情がすぐに消え去るわけでもない。だが、少なくとも今は、解決策が存在することを知っている。そして時には、それこそが最も重要なことなのだ。
心の中で笑う。自分がそんなことを言うなんて皮肉なものだ。結局のところ、残されているのは、この先どうなるかを見届けることだけなのだから。
【こうなった今、私たちは再び対話できる。どれだけの時間になるかは分からないが、話すことはできる】
(自分が何者なのか教えてくれる気になったのか? それに、同じ存在であるかのように複数形で話すのはやめろ……)
【私たちは思考する。分析はしない。ただ思考することしかできず、もはや解決することはできない……そして、私たちは同じだろう?】
(ただの狂気、おそらく統合失調症の産物だとしか思えないがな……)
【どう思考しようと自由だ。だが、私たちが君自身の心よりも現実的であることは否定できない】
……
【なぜ……私たちは……君は、治癒できるふりをしてまで固執するのか? そんなことをしても弱くなるだけだ。そうは思わないか?】
(いや……弱くなんかならない。元から弱かったんだ。前世では神だったかもしれないが……俺の心はあまりにも脆く、転生して、愛してくれる人たちと七年間過ごしても、未だに癒えないままだ。俺は弱い。ずっと弱かったし、お前もその現実は否定できないだろ)
【……分かった】
そして、静寂が訪れた。
完全な沈黙。
触れられそうなほどの静けさだった。
まるで、心の中にいるかのようだった。
「うっ……」
その沈黙と共に、頭痛が走る。
一時的だが、確かな痛みだ。
その時、ルビーが再びキッチンのほうへと背中を押してきた。
「マリア。続ける?」
「ええ、姉さん。手伝って」
「完璧ね。じゃあ、何をぐずぐずしてるの?」
「何でもないわ。始めましょう」
「マリア……そういう質問は答えるためのものじゃなくて、行動で示すためのものよ」
「え? もう、早く始めない?」
ルビーは微笑んだ。
テーブルに顔を突っ伏す。
(俺は本当に、そこまで弱いのだろうか?)
腕をテーブルの上に投げ出す。
癒されたい。それは分かっている。
だが、あの声が正しいのかもしれない……。
どうすればいい?
再び姉妹の方へと視線を向けた。
「ルビー! 服が真っ赤じゃない……アメリアちゃんが縫ってくれたのに」
「ああっ! 嘘でしょ……あの子、すっごく怒るわ」
瞬きをした。
守りたい。
それがやりたいことだ。
そして、必ずそうする。
今ここから、本当の訓練が始まるんだ。
---
翌日。初めて水への制御力が発現したあの湖で、訓練を開始した。
いつものことだが、水は待つ。そして、それを受け止める完璧な器が存在する限り、こちらの意思に順応する。さもなければ、水は一定の形を保ち、時が経てば最終的にその力を押し付けてくる。
片足を水に浸した。
「よし……集中だ……」
膝を曲げ、激しい動きで空手の型を打ち始める。
打撃、回転、そして素早い足運び。普通なら水しぶきを四方八方に散らしてしまうような動きだ。
水面が崩れそうになるたびに、水への制御力を駆使してそれを静止させ、小さな波紋を抑え込み、飛沫が形になる前にすべて押し潰していく。
非常に困難だった。
少しずつ、普通ではあり得ないほどの汗をかき始める。
そして、型の半分に差し掛かったところで、そのまま水の上に仰向けに倒れ込んだ。
荒い息を吐く。
動きながら水を静かに保つ。ただそれだけが課題だった。
たったそれだけのことなのに、やり遂げることができなかった。
「ダイくん?」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、アメリアが後ろ手で手を組み、驚いたような表情でこちらを見つめている。
「やっと見つけた! ここにいるって思ってたよっ!」
アメリアはカタツムリを大きな葉の上に置くと、ドレスを濡らさないように少し持ち上げながら近づいてきた。
「そんなふうになってるなんて、暑かったの?」
彼女は空を見上げる。
「マリアちゃん、ダイくんがどこに行ったか教えてくれなかったもん。来ちゃダメって言ったの?」
「いや、そんなことは言ってない。どうして?」
「んー……きっと、言っちゃいけないって思ったんだよっ」
行き先を伝えていなかっただけだ。
ただそれだけのことだった。
「ああ、そうかもな」
アメリアはもうドレスのことは気にせず、隣に座り込んだ。
「たまにすっごく暑くて、もう耐えられない時があると思うんだ。ドレスなんてどうでもいいもん! それに、私が縫ったんだから、これは私のお仕事なの。だからこう言ってもいいんだよっ!」
腕を組み、一人でうんうんと頷いている。
「それより……どうしてそんなに苦しそうに息してるの? それは、ぜーんぜん普通じゃないよっ、ダイくん」
カツッ……ズリッ……カツッ……ズリッ……
「なんだ?」
足音が聞こえた。
ゆっくりとした、しかし重々しい足音。
辺りの空気が冷たくなり……さらに重苦しさを増し始める。
「ダイくん! あれ何っ!?」
答えなかった。
音のする方向をじっと見据える。
そして、それを見た。
遠くから、背が高く細身の影が姿を現した。
血まみれの巨大なコートを羽織り、顔は完全に覆い隠されている。
その『何か』は、こちらを指差した。
そして、まるで皮のマスクでも剥ぐかのように、自分の顔を引き裂き始めた。
「あれは……エリトだ! 目を隠せ、アメリア!」
「は、はいっ!」
アメリアはポケットから二つの包帯を取り出した。
「ママが……も、もしもの時のために、いつも準備してくれてるの……っ」
勇敢に振る舞おうとしていたが、ひどく怯えていた。
「つ、つけて、ダ、ダイくん……っ」
包帯を受け取り、すぐに自分の目を覆う。
アメリアが背中にしがみついた。
「くそっ……こんなの予想してなかったぞ……」
その時……
「ここから失せろ!」
「ウウゥゥ……?」
気配がどんどん近づいてくる。
指が頬から頬骨にかけて滑っていくのを感じた。
今まで経験した中で、最悪の感触だった。
だが、今ここで心を折られるわけにはいかない。
エリトの物理的な力は弱い。
耐え抜くだけだ……。
そして……
「ギイィィィィィィィィ……」
指は頬骨をゆっくりと這い上がり、包帯に届き……
それを引き剥がした。
その瞬間、本能的に目を開け、奴の月のような単眼を直視してしまう。その左側には一筋の……。
「ぐっ……! ダメだ……見るのを避けられなかった……」
絶対的な虚無……。
お前は何の役にも立たない……。
???……??……??
すべてが崩れ落ちていく、だろう……?
お前は完全な失敗作だ……。
岩の壁。
お前は存在しなくなる……。
「弱き者を守りなさい。それがあなたのすべきことよ」
「いや。ここでお前こそがゴミだ。お前だけが弱い……そして誰も守れなかった。お前を息子だなんて一度も思いたくなかった」
「私たちが死んだのは……あなたがただ存在し続けるためで、生きるためじゃなかったの?」
ドォォォン!!
再び、トラックの衝撃を感じた。
死だ。
またしても。
その冷たさは、エリトが引き起こせるどんなものとも比較にならないほどだった。
目を開け、わずかに首を傾げながら、もう一度奴を見つめ返す。
エリトが後ずさる。
長く歪な指を持つその手が、震え始めた。
次の瞬間、エリトの頭が破裂した。
「マリアちゃん!」
アメリアが駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。
「すっごく怖かったよぉ……」
だが、マリアはこっちを見ていた。
アメリアの言葉など完全に無視している。
俺が奴を見て……それでも何事もなかったのを、見られたのだろうか?
「ダイキ、大丈夫?」
「え? あ、ああ……大丈夫だ。完全に奴を見る前に来てくれたからな。たぶん、あれは時間がかかるんだろ」
いいぞ、ダイキ……。
まるでビデオゲームみたいだな。
とはいえ……案外本当にそういう仕組みなのかもしれない。
もし、もう少し長く見つめていたら、結果は違っていたのだろう。
マリアはエリトの方へと視線を向けた。
その存在は血肉の通ったものであり、想像していたような霊的なものではない。
奴が着ていたコートは明らかに他人のものであり、顔を隠すために使っていたあの皮のマスクも同様だった。
「さあ、帰るわよ、子供たち。何も言わずにここで何をしてたの?」
その言葉とともに、俺は視界から消えるまで、ずっとエリトを見つめ続けていた。
一体、あれは何だったんだ?




