第三十三話 【自由】
「お父さん、攻撃しないで!」
「アァァァァッ!」
槍で貫こうとしてきたが、なんとか避けた。
必死に両手で柄を掴み。
「お願い、お父さん……まだそこにいるんでしょ? どれだけお父さんを必要としてるか……」
「アァァァァァッ!」
「おねが――」
容赦のない蹴りが腹部にめり込む。
避けなかった……いや、避けたくなかったのかもしれない。
「いいよ……私にはお似合いだ……」
決していい娘じゃなかった。
いつも迷惑ばかりかけていた。
そして、お母さんがお産で……最後のお産で死んだと知った時。生き残った赤ん坊が私だと知った時……。
自分を激しく憎んだ。
生まれなければよかったんだと思い込んで、長い間、森に逃げ込んでいた。
ヤズミと出会ったのは、そこだった。
「へえ……人間が餓死しかけてるなんて。珍しいね」
「それ……豚肉?」
「まあ、人間からすればね。豚だよ。いらないから、食べる?」
初めて会った時、心を操られるんじゃないかと思った。
あの王国のおとぎ話みたいに。
暗闇の中で、その目は燃え盛る炭のように赤く輝いていた。それでも……他の誰よりも優しかった。
ヒュッ
私に向けて槍が放たれる。
間一髪で弾き飛ばすと。
続いて、顔面への直撃。
さらに蹴り。
右腕への衝撃。
最後に顎をカチ上げられ、体が数秒間、宙に浮く。
悪い娘だったんだから、これが当然の報いだ。
どうせ、もう何も残っていない。
私みたいな人間に、何があるっていうの……?
「君は強い人間だと思うよ。逃げ出したのは馬鹿だけど、やっぱり強い。誰しもがこういうことに罪悪感を抱くわけじゃないし、平気で生きていく奴もいる。僕はそれを強さだとは思わない。まあ、人間じゃないから裁く権利はないけどね。僕たちの出産は痛くないし」
「私に何を望んでるの、フェイリュ? なんで妖精が人間なんかと話したがるの?」
「おとぎ話みたいに、人間がみんな邪悪な生き物じゃないって知った時、すごく新鮮な発見だったからさ」
ああ、ヤズミ。彼は妖精だった。
出会う前、妖精はもっと人間と違うものだと思っていた。
もっと背が高くて細身で、催眠術のような冷たい目をしているんだと。
でも、耳の形を除けば、それほど違いはなかった。
おとぎ話にあるような要素なんて、何一つ持っていなかった。
鈍い一撃が顎を捉え、思わず横に血を吐き捨てた。
くそっ。
私、どうしちゃったの?
あんなに訓練して、何年もかけて準備してきたのに、どうして今、こんなに……無力なんだろう?
まるで、今まで見てきた父親の姿が突然わからなくなって、目の前にいるのに会いたくてたまらなくなる小さな子供みたい。
今の気分は、まさにそんな感じだ。
だって、もう前に進む理由なんてないから……。
ルビーにはルビーの人生がある。
完璧で、賢くて。一生かかっても返しきれないくらい助けてくれた。
あの子がいなければ、お祖父ちゃんの宿屋も、この家族も、とっくの昔に終わっていた。
だから今は……。
ダイキ。
ハッと目を見開いた。
ここでいなくなったら、あの子はまた一人ぼっちになってしまう。
私と同じように。
後悔に溺れて、このまま消えてしまおうだなんて……一瞬でも本気でそう思ったの?
私にはまだ、ダイキがいるのに……。
ほんと、バカみたい。大馬鹿者で、どうしようもない……。
「お父さん……そこにいるんでしょ? わかってるよ」
お父さんは、ほんの一秒だけこちらを見た。
瞬きをする。
そして、再び襲いかかってきた。
「弱くなったね、お父さん。昔から体は弱かったけど、心は誰よりも強かった……エフェリコみたいにね。やっぱり、血を引いてるんだね? お祖父ちゃんは立派な貴族で、ライサンダー家の人間だった。でも、政治の嘘のせいで全部奪われた。それでも……お父さんの中には、お祖父ちゃんの心が生き続けてた」
単純な動きで攻撃をかわしながら、語りかける。
飛んでくる拳の力点を、的確に手で払い落としていく。
「なのに今のあなたは……体は強いけど、いったい何者なの?」
お父さんが二歩、後ずさる。
「この迷宮は新しい……お父さん、まだ聞こえてるよね? 後悔しながら死んだこと、知ってるよ……そして私も、もう少しで同じようになるところだった。ようやくお父さんを解放して、安らかな気持ちで眠らせてあげられるチャンスなのに……」
その拳を片手で受け止める。
どうしようもなく、涙がこぼれ落ちた。
「お父さん……お父さん、愛してるよ。犯してもいない罪を背負い込まないで。お母さんがずっと喋り続けてても、いつもちゃんと話を聞いてあげてたじゃない……周りのみんなが耳を塞ぎたくなるような時でも……」
涙の合間に、小さな笑いが漏れる。
こらえる間もなく、唇からこぼれ落ちてしまった。
「でも、そういうものだよね? お父さんの娘たちはちゃんと生きてる……誰かの模範になれるくらいにね。それでも……私たちにはずっとお父さんが必要だった。お父さんの言葉、絶対に忘れないよ」
お父さんはじっとこちらを見つめていた。
やがて、ゆっくりと唇を動かし始める。
「愛しているよ、我が娘……私の死を自分自身のせいにしてはいけない。私はいつだってお前のこと、お前が成し遂げてきたことを誇りに思っている。私にとって……お前たち姉妹は、いつだって最大の希望だった」
一瞬、身動きが取れなくなった。
まさに、あの時の言葉そのものだった。
彷徨う魂が言葉を紡げたのだとしたら、それは死の壁を越えるほど、本気で愛していたからだ。
「私たちも愛してるよ、お父さん……」
その想いのすべてを、一つの拳に込める。
「また会えるといいな……私が死ぬまで、あと百年以上かかったとしてもね。知ってるでしょ、私ってすごく頑固だから」
そして、ありったけの力でその体を殴りつけた。
「お母さんとまた会えますように……愛してるよ、お父さん。安らかに眠ってね」
迷宮全体が揺れる。
私の、渾身の一撃。……
もう、どうだっていい。
今の私には息子が……ううん、ダイキくんがいるんだから。
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迷宮も洞窟も、歩みを進める背後で閉ざされていった。
かつて植物の命を喰らう魔物を生み出した巨大な洞窟は……今や完全に封印された。
そしてそれと共に、お父さんが最後に留まっていた魂も。
どんな気持ちになればいいんだろう?
お父さんは、天国へ行ってお母さんと再会する新たなチャンスを得た。
だから、喜ぶべきことなんだ。
でもその一方で、お母さんは昔からすごく信心深い人で、隠し事なんて絶対にしない人だった。
もし何かを隠したとしても、次の日には結局白状してしまうような。
お母さんが私を産んだ時に死んだと打ち明けられる前に、お父さんが教えてくれたこと。それは、お母さんがたとえ死ぬことになっても、絶対に後悔しないといつも口にしていたということ。
ルビーと私を産んだからこそ……。
「大丈夫……あとは帰るだけ」
そう呟いて、村へと歩き出した。
正直なところ、こんなに穏やかな気持ちで歩くのは初めてだった。
これ以上、できることなんてなかったから。
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宿屋に戻ると、入り口の前にダイキが座って待っていた。
姿を見るなり、サッと立ち上がって駆け寄ってくる。
いつものような真剣な顔つきで、あの子は言った。
「マリア……母さん、どうしたんだ? 予定より遅かったけど」
少し笑ってしまった。
真面目な表情と、隠しきれていない心配そうな態度のギャップ……。
悪いけど、それが少しおかしくて。でも同時に、すごく嬉しかった。
「ああ、うん、ごめんね。その……色々とあってね、魔物もたくさんいたから」
ダイキは首を傾げて、嘘を探るような仕草をした。
きっと気づいたはずだけど、それについては何も言わなかった。
「承知した」
「この家では『承知した』なんて言わないの、わかった?」
「どうして?」
「だって、お上品で貴族みたいじゃない……正直、似合ってないよ」
別にその高貴な振る舞いが嫌なわけじゃないけど、それがただの防衛機制だってわかっていたから。
「わかった、もう言わない」
「いい子ね。それじゃあ、ご飯にしようか?」
「うん、作っておいたよ」
「え、本当? 何を作ってくれたの?」
「母さんが最初の日に作ってくれたのと同じ料理」
「もう覚えちゃったんだ? ふふ、さあ行こうか」
ルビー、私がしたこと、誇りに思ってくれるかな?
そうだといいな……それに、もうすぐあなたも私の息子に会えるよ。
まだ一ヶ月しか経ってないのに。
どうして私、こんなにこの真面目な子に愛着が湧いちゃったんだろう。
結局、ただ家の中に入って、息子と一緒にご飯を食べた。




