第ニ十八話 【新たな人生】
翌日。
宿屋の庭へ向かった。
そこは……。
まあ、宿屋にしてはかなり広い。
そもそも宿屋自体がとても大きいのだ。
庭を囲むように何本かの木が生えており、ずっと奥の方にはかなり質素な小屋がある。
行く気にはなれなかった。
実を言うと、そこにはマリアが住んでいる。そこで何をするというんだ?
「どこに置いたっけ……」
それよりも、魔法の訓練を続けるのが一番だ。
このまま可能性を無駄にし続ければ、戻るべき理由すらなくなってしまう。
やるからには強くならなければならないが……今は何を使って訓練すればいい?
アレクシオからもらったチョークと剣はまだ持っているが、あのレベルの相手がいなければ、正直やれることは少ない。
結局のところ不利な状況かもしれないし、マリアが剣を扱えるようには見えなかったので、何も言えなかった。
実際、出会った時には一本も持っていなかった。
だから、訓練を手伝えるのかどうかは疑問のままだった。
積極的に動いていないのも事実だ。
それでも、こちらから何かを要求する立場ではないと感じている。
そもそも、受け入れてもらっただけで十分すぎるほどだ。
「探してたのはこれ、ダイキ?」
ドアの方を見た。
そこには、チョークの入った袋を笑顔で揺らしているマリアがいた。
「ああ、それを探してた」
「あー、否定されるか、もっと違う反応を期待してたんだけど……」
マリアは軽く頬を掻く。
「まあ、はい……でも気をつけてね? うちの妹、ある日全部燃やしそうになったことがあるから」
「ああ、分かった」
ルビーは、そんな未遂事件のことなんて一言も言っていなかった。
どうして言わなかったんだろう?
きっと、語るほどの価値もないことだったのだろう。
別に気にもしなかっただろうし。
マリアは袋を投げてから腕を組む。どうにかそれを受け取った。
「魔法陣、か。ダイキって魔法使いには見えないよね。少なくとも、魔法使いは盗賊相手にあんな上手く立ち回ったりしないし。戦ってるところは見てないけど、肩に矢が刺さってる奴と、気絶してる奴、それに怯えてるか驚いてる奴がいたのは見たわ。ただの魔法使いじゃないんでしょ? 珍しいわよね、魔法剣士とか戦闘魔法使いって」
予想外によく喋る。
戦闘魔法使いは普通じゃない。
理にかなっている。
両方を使うための集中力は、大半の人間には適していない。
つまり、転生者であるという条件が関係しているのかもしれない。
前世の記憶を持ったまま、この空っぽの脳を使っている。
それは何らかの意味を持っているのだろう。
ルビーといえば。
母によれば、ローゼンライへ向かったらしい。
ゼレニアに戻って、俺がいなかったらどうするのだろうか?
死んだと思うに違いない。
でも……もしここに戻ってきたら?
マリアが、赤い目の子供を見つけて今自分の宿屋にいると話すだろうか? だが、赤いメッシュのことまで言えば、気づかないかもしれない。
それでも、ルビーを甘く見てはいけない。
「まあ、物心ついた時から訓練してた。それだけだ」
「なるほどね。語りたくない話なんでしょ。どのみち、これ以上しつこく聞くつもりはないわ」
マリアは数秒間、俺を見つめた。
「それに、その名前……どこから来たの、ダイキ?」
「分からない」
「そう。フェイリュウ王国の名前に似てるわね」
「フェイ・リュウ……?」
「ごめん。フェイリューって発音するの」
「フェイリュー……」
その発音を聞いて、自分の中で何かが引っかかったが、それが何かは分からなかった。
正直なところ、なぜ混乱したのか見当もつかない。
「じゃあ、そこの出身じゃないのね、ダイキ」
「ああ、そんな場所があることすら知らなかった」
「それならあり得ないわ。それに、あなたの顔を見れば確信できる」
つまり、顔立ちのせいか。
「マリア、一つ聞きたいんだけど、戦士なのか?」
「私が戦士かって? 空を仰ぐくらいぶっ飛ばした強烈な一撃、見てなかった?」
「見てたけど、よく分からなかった。最初は内部魔力かと思ったけど……あの感覚を放っていなかった」
「内部魔力じゃないからよ。私の体質なの。というか、上位の天恵者だからね。一番分かりやすく言えば、怪力。そして、それは私の感情と繋がってるの」
マリアは上位の天恵者だった。
それで、思った以上に合点がいった。
どうやら天恵には制限があるようだが、マリアはそれをかなり上手く制御している。
並外れた闘士なのかもしれないが、その力が感情に依存しているのなら、意のままに制御できるのだろうか? 力は、偽りの感情と本物の感情を区別するのか?
もしそうなら、想像以上に厄介だ。
あの男たちへの怒りが、すべての感情をあの一撃に込めたのだ。
それに、どれほどの期間訓練してきたのかも分からない……。
頭を巡り続けているのは、あの一撃を前にして覚えた感覚だけだ。
それは説明のつかない、だがどこか催眠的とも言えるものだった。
おそらく、今日一日中そのことを考え続けることになるだろう。
「ねえ、ダイキ。その赤いメッシュ、不思議よね……遺伝だって言ってたけど、あんなの見るの初めて。濃い茶色の髪に赤いメッシュなんて、本当にあり得るの?」
「現にあるんだから、あり得るんじゃないか?」
「そうだけど、その色、もう少し広がりそうな気がするのよ。このままだと、ただのメッシュじゃなくて、一つの斑点みたいになっちゃいそう。でも正直なところ、似合うと思うわよ」
2色の髪が普通ではないらしいこの世界で、その異常が似合うとはどういう意味なのか理解できなかった。
だとすれば、エフィリアは一体何だったのだろう?
髪の片側が紫色で、もう片側が白色だった。
奇妙だった。
そしてマリアは、赤がさらに広がるかもしれないと言っている……。
ならば、別の意味で目立つことにはなるが、より気付かれにくくなるかもしれない。
だからこそ、あの密売人たちは俺をあんなに欲しがったのだろう。
話を変えることに決め、口を開いた。
「魔法陣、見てみるか?」
「ええ、しばらく見てないわね。妹が出て行ってから、一度も見てないわ」
頷き、簡単な魔法陣を描く。
冷風の魔法陣だ。
マリアは素早く床に座り込み、少し身震いしながら興味深そうに観察し始めた。
「それ知ってる! 冷風ね! 夏の間、私たちを救ってくれたの……まあ、エルピダ全体をね」
「これはかなり基礎的なものだ。あんたでも覚えられるかもしれない」
「私が? ダイキ、自分で何言ってるか分かってる? 私は本能の塊みたいな人間だから、そんなのむ——」
「やってみろよ」
チョークを渡す。
「頭はいいんだ。絶対にできる。ただ、今まで試したことがないだけかもしれない」
「まあ……でも、もし何か燃やしたら、あなたが弁償するのよ」
マリアは唾を飲み込み、描き始める。
驚いたことに、かなり絵が上手く、正確に魔法陣をなぞっていった。
「これで合ってる?」
年上の女性からこんなことを聞かれるのは奇妙だが、自分の二つの年齢を足せば、おそらく相手より上になるだろう。
「ああ。次は好きな方向に1の数字を置いて。拡散させたいなら、何も置かなくていい」
マリアは何も置かないことを選んだ。
「こう?」
「ああ。次は手を伸ばして」
「妹がやるのは何度も見たことあるけど、自分で試すのは初めて……」
魔法陣に向かって手を伸ばしたが、何も起こらなかった。
「言ったでしょ、ダイキ。何も起きないって。私には向いてないのよ」
「集中して。目を閉じて、無を想像するんだ……」
「無を想像するってどうやって?」
「まずは喋らないことだ」
慌てて口を閉じる。
「無を想像しろ。白い空間でも黒でも、好きな色でいい……要は、何もないと同時に、すべてが存在しているというイメージだ」
「どうすればそんなことできるわけ?」
「マリア」
「ごめんなさい」
再び口を閉じた。今度は、目も閉じる。
あそこまで集中しているのを見るのは初めてだったので、黙っていることにした。
2分が経過しても、その状態を維持している。
途中で少し身じろぎして揺れたが、言葉を発することも目を開けることもなかった。
そして目を開けると、マナが手から魔法陣へと正しく循環し始めた。
魔法陣は最初わずかに淡く起動しただけだったが、やがてその輝きを増していく。
とはいえ、長くは続かない。もっとも、これほど早く成功するとは思っていなかったが。
「できた! まさか本当に……! そんなに長くは続かなかったけど」
「まあ、マナを鍛えるための壁は越えたってことだ。すぐにこれ以上の結果は期待できないだろうけどな。それでも、マナの総量が大きければ、すごいことができるようになる」
「あいたっ、6歳の子供に心を折られちゃったわ。信じられる?」
「いや。でも、もっと上達できるさ」
「それがあなたの言うことなの、ダイキ?」
「他に何を言えばいい?」
「ううん……何でもない」
一体、何を求めているんだ?
「ダイキ。もう一度聞くわ。どうしてそんなに重荷を背負ってるの?」
……。
「そんなもの背負ってない。手放すことを学んだだけだ、それだけだよ」
「あなたくらいの年の子供なら、なんていうか、教えることを楽しんだり、少し不器用だったり、時にはすごく賢くても、やっぱり無邪気で無知であるべきよ。でもあなたは……ううん、やっぱり言わない」
マリアは床から立ち上がった。その視線の意味がよく理解できなかった。
「ダイキ。もし何か必要なら、私がどこにいるか分かるわよね。遠慮せずに小屋に来て、いいわね?」
そのまま部屋を出て行った。
「でも……」
なぜ突然去ることにしたのか分からなかった。
別れの挨拶や、何かを言う隙すら与えられなかった。
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どうすればいいか分からず、1時間ほどベッドの上で過ごした。
マリアは突然行ってしまい、もう以前のように物音も聞こえない。
いつもあちこち動き回っていたのに。
今は何も聞こえなかった。
探しに行くことにした。
謝るか、この気まずさを解消するためだ。
もしこちらの態度のせいで不快にさせたのなら、少なくとも事情を説明するべきだ。住む場所を、家をくれたのだから……。
その時、受付に座っているマリアを見つけた。
顔を覆い……。
肩を震わせながら、すすり泣いている。
右手には、赤いマフラーを握りしめていた。
どうして泣いているんだ……?
自分の部屋に戻ってドアを閉め、床に崩れ落ちた。
「俺が出る幕じゃない……」
ルビーが話してくれた物語の中で、マリアが誰だったのかを思い出したのはその瞬間だった。実際、ルビーもそれを話す時に泣きそうになっていたが……。
「いや、こんなことを分析しちゃダメだ。俺には関係ない。他人事だ」
どうでもいいことだろ?
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数時間後、マリアがお盆を持って部屋にやって来た。
「ごめんね、ダイキ。ちょっと忙しくしてて……まあ、それはいいわね。もうご飯の用意できてるけど、食べる?」
素早く床から立ち上がり、顔を見る。
赤く、少し腫れた目。泣いていた証拠だ。
だが、それについて質問するつもりはなかった。
「ああ、すごくお腹が空いてるみたいだ」
「みたい? さっきお腹が鳴るの聞こえたわよ」
「あ、それは……まあ、分からないけど」
「ふふふ……たまには子供らしいところもあるのね。じゃあ、置いておくから食べてね。後で話したいことがあるの」
お盆をベッドに置き、マリアは部屋を出て行った。
一体何を話したいのだろうか。
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食事を終えて下へ降りると、窓の外を見つめているマリアの姿があった。
「あ、ダイキ。こっちに来て」
ゆっくりと近づく。
「外に誰がいるか分かる?」
「分からない」
「じゃあ、何を探してるか分かる?」
「いや……」
「んー、本当に外の世界のことには詳しくないのね。あのね、人々は私たちみたいな人間を探してるのよ。才能のある人間を。ある時は特別な特徴を持っているからというだけで、またある時はただ他の人と違うという理由でね。問題は、こんなに栄えている町で、あなたをただ紹介するわけにはいかないってこと。納得できる理由が必要なの。そして、こんな言い方でごめんなさいね。誰も私のそばからあなたを奪おうとしないように、あなたが私のものだと思い込ませなきゃいけないの」
困惑して顔を見上げた。
「それって、どういう意味だ?」
マリアは振り返り、わずかに微笑む。
「町の人たちには、あなたが私の息子だって信じてもらうわ。遠くに住んでいた誰かとの子供だって。あなたの名前なら、信じてもらえる可能性は高い。それに、私たちには似ている特徴もあるし。あなたの目や髪の色の一部も私に似てるから、説得力があるはずよ。ここの人たちは私のことを知ってるし、私がよく旅に出ることも知ってる。正直言って、相手が死ぬまであなたを育てさせてもらえなかったっていう話の方が、盗賊を2人倒して森で拾ってきたなんて話より、ずっと信憑性があるでしょ」
長い間、沈黙した。
マリアは本当に今、そんなことを言ったのか? 何と答えればいい?
もし「はい」と答えれば、おそらくそれが最も賢明な判断だろう。家族を守るための、最後の隠れ蓑だ。
だが、もし断ったら……俺に何が残る?
旅を続けるのか?
それで、どこへ行くというんだ?
深呼吸をする……。
「分かった。受け入れるよ」




