第二十五話 【森の嘘】
もうしばらく炎を見つめていた。
目の前に何があろうと、それは常にすべてを食い尽くす。
悪意も、意志もなく、ただそこに存在する。
前世の俺と同じように。
焚き火の前にずっと座っていた。
答えなどない場所に、答えを求めていた。
炎が語りかけてくれでもするのだろうか。
そして、消えてほしいと願っていたその声は、消え去った。
完全に一人になった。
心の一部はそれを喜び、もう一部は。
「……ただ、帰りたい」
そう呟いた。
穏やかな風にかき消されそうなほど、微かな声で。
だが、確かに口にした。
「……もう、戻れない」
それは思った以上に痛みを伴った。
帰りたいのに、帰れないからだ。
仮に帰ると決めたところで、どうやって?
あまりにも遠すぎる。
もう、どうにもならない。
もう、手に入れることはできない。
あのチョコレート。
あの笑顔。
あの声。
あの小言。
もう、忘れなければならない。
◇ ◇ ◇
夜が明けた。
王族のマットレスに慣れきった体には、
地べたで寝るのははるかに寝心地が悪い。
だが、こんなものは始まりにすぎない。
早く慣れなければ。さもなければ……。
「もう起きたようだね、ダイキ君」
「おはよう、オソリオ」
荷物を持って外に出ると、オソリオが食事を用意して待っていた。
マントをしっかりと身につける。
服については、あえて破いておいた。
エルピダに向かう際、悪目立ちしないために必要な処置だ。
(おや、どこでそれを盗んだんだ?)と思わせないのが狙いだった。
「食事を終えたら出発するのだろう?」
「ああ、そうするべきだからな」
親のいない子供が村にいるのは、そこまで珍しいことではない。
だが……廃村にいるとなれば?
子供がこんな場所で何をしているのかと、必ず問いただされる。
そして、どんなに些細な疑問であっても、それは遠くまで広がる可能性がある。
赤い目自体は、人としてそう珍しいものではない。
それだけで目立つことはない。
だが、もし王が十分に賢いなら、誰かを送り込んでいる可能性もある。
「まだ六歳なのに、立派な冒険者だ。私のその頃はとても臆病で……ゴホッ、ゴホッ……」
「そうなるしかなかった」
「だろうね。一つ、頼みごとをしてもいいかい?」
「ああ」
オソリオは立ち上がり、目の前にある丸太に腰を下ろした。
「実はね。私の妻が……いや、元妻がエルピダに住んでいるんだが、伝言を頼めないだろうか?」
「何を渡せばいい?」
「これだ」
袋を差し出してきた。大して重くなく、中には一つだけ物が入っているようだった。
「エレナはいつも、息子の死を私のせいだと言っていた。どうして助けてくれなかったのと言って、近隣の豊かな町へと去っていった。私を憎む村人たちの前に、私を完全に一人残して……ゴホッ、ゴホッ……。そして……何より辛いのは……責められなかったことだ。生まれる前に一度、子供を失っているのに、どうしてまた同じことが起きるのか。だから私は何も言わず、去らせたんだ」
そして、袋を指差した。
「その中には、私たちがまだ子供だった頃に初めて作った指輪が入っている。特別な木の枝で作った婚約指輪で、今でも綺麗なままだ。これを渡して、幸せを祈っていると伝えてほしい」
男は目を逸らした。物思いに耽っている。
何と声をかけるべきか。
だが、宗教の教えが示す通り、すべてを話すべきなのだ。
天恵がすべてを奪ったにもかかわらず、決して女神への信仰を捨てなかった。
息子はどうせ死ぬ運命にあった。
そして、傲慢さゆえに若い頃に鍛錬を怠った自分自身が元凶なのだ。
だからこそ、女神を責めることができなかった。
「わかった。探してみる」
「もし見つからなくても、気にしないでくれ。死ぬには頑固すぎる女だがね。きっと私が迎えに来るのを待っていただろうに、私にはその勇気がなかった」
「本当に……?」
「だからこそ、私の経験から君に一つ言っておきたい。もし、自分にできること、やるべきだと感じることがあったら、それを見て見ぬふりをしてはいけない。迷いは常について回るが、それに足を引っ張られないことだ。機会があるうちに行動しなさい。もし結果がうまくいかなくても、少なくとも挑戦したという事実は残る。もしあの時こうしていればという疑問を抱えずに済むんだ。私のようにね……」
こういう時こそ、真実を思い知らされる。
去ったことで、どれほど傷つけたかを。
俺を大切に思ってくれる人々が、どんな反応をするかを。
そして何より最悪なのは、今になってそれに気づいたということだ。
だが、後悔はしていない。
泣かせることになろうとも、全員を救う方法はそれしかないからだ。
悲しみなんて、すぐに消え去るだろう?
いつか再会する時が来る。だが、今は……。
これしか方法がないのだ。
「その通りだな。忠告に感謝する」
「忠告じゃない。これは現実だ。助言としてではなく、啓示として受け取ってほしい」
そう言って、オソリオは石を使って残りの火を消した。
「さて、これで全部だな。ありがとう。肩の荷が下りた気がするよ、ダイキ君」
「気にしないでくれ。こっちも随分助けられた。六歳の子供がこんなことを言うのは奇妙だとわかっているが、早く大人になるしかなかったんだ……」
「世界は残酷だ。それは間違いない。だが、君はそれに気づいていて、自分の心に嘘をつかせていない」
「そうだな……」
オソリオが革の袋を渡してきた。
「これで指輪と干し肉、それに少しの水を持っていける。残りのことについては、あの森は君にうってつけだろう」
その言葉を背に、その場を出発した。
◇ ◇ ◇
森は広大だった。
広大という言葉すら生温い。
規模だけでなく、その多様性においても計り知れない。
見たこともない種類の木々。
枝から枝へ飛び移る猿たち。
こちらを好奇の目で見つめる類人猿。
まるで待っていたかのように、茂みからこちらを窺うキツネのような生物。
遠くで鳥の鳴き声が響き、前述の動物たちに警戒を促している。
だが、その鳥の鳴き声は様々な方向から聞こえてきた。
おそらく、捕食者を混乱させ、地上で餌を探すための戦術なのだろう。
木々そのものも巨大だった。
どの幹の太さも圧倒的だ。
その通り道にあるすべてを捕らえようとするかのように、根が地面から隆起している。
葉は鬱蒼とした屋根を作り、光をほとんど通さない。
森の外と中とでは、その対比が圧倒的だった。
しかし、身を隠すには完璧な環境だ。
樹皮の表面に少し触れてみる。
すると、そこから一匹のリスが飛び出し、手に乗ってきた。
「あ、すまない」
本気でリスに話しかけようとしているのか……?
リスは首を傾げ、再び木の中へと戻っていった。
「先を急ごう」
◇ ◇ ◇
すでに日が暮れかけていた。
この森は小さいと思っていた。
だが、違った。
腹がひどく減っている。
何か狩らなければ。
枝の間を飛び跳ねる三匹のリスを見つけた。
「あれは……」
ウサギ型のリス。
本にはそう記されていた。
ウサギほどの大きさだが、栄養価は倍ある。
これを食べればすぐに腹が減ることはないらしい。
袋を置き、剣を構えて奴らに飛びかかった。
峰打ちを試みたが、躱される。
そのまま枝の上に降り立った。
そこで、内部魔力に原点を使うことにし……。
リスたちは甲高い鳴き声を上げた。追い払おうとしている。
再び飛びかかり、峰を打ち下ろした。
三匹まとめての一撃で、それらは命を落として落下する。
落ちてしまう前に、どうにか掴み取った。
「今日の食事に感謝する」
誰に感謝しているんだ?
自分でもわからない。
全てを奪った女神にか?
いや、大自然そのものに対してだ。
◇ ◇ ◇
夜になり、いい場所を見つけた。
古い木だが、中に入れるだけの空間がある。
風を凌げる上に、入り口が狭いため大型の獣は通れない。
幹の空洞は広かった。
横になって夜を明かすには十分な広さだ。
おそらく、他の動物たちの住処だったのだろう。
匂いがないことから、もうここには寄り付いていないことがわかる。
狩りをする姿を見た以上、戻ってくることもないだろう。
動物は生まれつき本能が研ぎ澄まされている。
勝てない相手だと悟れば、ただ距離を置くのだ。
近づくのを見て、無数の蜘蛛さえも幹から逃げ出していく。
◇ ◇ ◇
翌日
これまでの人生で、こんなにも寝心地の悪い夜はなかった。
今の人生でも、前の人生でもだ。
最初はぐっすり眠れると確信していた。
夜はすぐに過ぎ去り、何よりも、
何もない場所でもリラックスできる術を学べるはずだと思っていた。
時々、自分が本当に勇敢だと思っているのか疑問に思うことがある。
眠りにつくまでに、かなりの時間を起きたまま過ごした。
枝が折れる音、風の音、かすかなざわめきのたびに、
外で何かが潜んでいるのではないかと思わされた。
だが何も起こらず、今はその古い丸太がただの丸太に見える……。
腐った古い丸太だ。
しかし、それでもまだ役割を果たしている。
溜め息をつき、歩き続けた。
◇ ◇ ◇
数時間後。
最初の数時間は穏やかだった。
絶え間なく様々な鳥のさえずりが聞こえ、
それらは高い枝の上でつがいを探している。
本能的に、見つめずにはいられない。
一度などは、危うく枝にぶつかりそうになった。
「誰かと話せたらな……」
静寂こそが求めていたものだと思っていた。
だが、いざ手に入れてみると、もう欲しくなくなっている。
以前は騒音があったが、今は静寂しかない。
確かに、鳥の鳴き声や、
揺れ動いたり笑い声を上げたりする猿たちの声はある。
奴らは時折、反応を面白がって皮を投げつけてきた。
倍の力で投げ返してやると「笑う」のだが、
中には怯えるやつもいた。
「助けてええええええっ!」
即座に駆け出した。
悲鳴の上がった方向へ走っていくと、その姿が目に入った。
太い枝から吊るされた檻の中で、エフィリアがじたばたと蹴りを入れている。
「エフィリア?」
「あ、君! 私が見つけた男の子でしょ!」
待て……なぜ三人称で話さないんだ?
「そこで何してるんだ?」
「森を通り抜けてたら、この罠に引っかかっちゃって。なんてもったいない! 私って本当にバカ! ここから出すの手伝ってくれる?」
しばし考え込んだ。
知る限り、エフィリアは海に住んでいるはずだ。なぜこんなところにいる?
「俺は……」
言い終わる前に、一本の矢が横をかすめ飛んだ。
「変身する魔物と……こいつは、子供か!?」
(くそっ。今の矢は速すぎた)
「ボス! 当たりを引きましたぜ!」
三人の男がいた。
防御の姿勢をとる。
いい人間には見えない。
子供相手であろうと、善意を抱いているわけではないようだ。
「おい坊主、そこで突っ立って何してる? そのおもちゃを捨てろ……」
「動くなよ、ガキ」
「黙ってろ、エレ。この子にも反撃する権利くらいあるだろ?」
男たちは口々に言い合っている。
「動くな! それ以上近づくな!」
奴らはさらに笑い声を上げた。
「本気で言ってるのか? 強情なガキだ……」
そう言ったのは背の高い男だった。
「森の中なら安全だとでも思ったか? これは冒険者の依頼なんかじゃないんだよ、坊主……それに俺たちは、お前を喉から手が出るほど欲しがってる連中を知っててね」
「俺を欲しがっている……?」
「ああ。その赤いメッシュと目、高く売れそうだ」
別の男が口を挟む。
「俺はそこまで値打ちがあるとは思えねえがな」
「何だって?」
「いや、貧乏くさいだろ? 誰が欲しがるんだよ。それに汚えし」
「綺麗にするに決まってるだろ」
「まあな、けど……やりすぎじゃねえか? 魔物じゃなくて子供だぞ」
「あの方の言葉に口答えする気か?」
「わかった、わかったよ……」
男がこちらを見た。
「悪いな坊主。俺の家族の方が大事なんだ」
そして、飛びかかってきた。
かろうじて躱す。
剣が頬をかすめた。
反転し、男の腹部を浅く切り裂く。
男は後ずさりし、別の方向に向かって叫んだ。
もう一人が襲いかかってくる。
開いた掌でその一撃を受け止め、みぞおちへ反撃を叩き込んだ。
男は気を失って倒れ伏した。
「クソガキ、思った以上に値打ちがあるようだな……チビのくせに間合いの取り方をわかってやがる」
「あの人と比べれば、お前らなんか何でもない……」
その言葉のおかげで集中力を保てている。
だが、それがさらに男を怒らせたらしい。
辛うじて奴の攻撃を防ぎ続ける。
真っ向からの打ち合いを維持できるほど、俺の腕は長くない。
何か他の手を見つけなければ……。
(見える!)
男は短剣を身につけていた。
腰からそれを奪い取り、奴の手を大きく切り裂く。
「このクソガキ!」
必死の攻撃を逸らす。
短剣を肩まで引き上げ、渾身の力で男の膝へと投げつけた。
男は間一髪でそれを避けた。
体を捻り、刃は脚をかすめて地面に突き刺さる。
舌打ちが聞こえた。
「賢いな……」
短剣を拾い直す暇はない。
奴は再び襲いかかってきた。
地面を転がって突きを躱し、再び短剣を手に取る。
男は小刻みな歩みで距離を測りながら迫ってくる。
(考えている……)
半歩下がる。
だが、もう一人の仲間がすでに弓を向けていた。
(くそっ……)
矢が放たれた。
剣を持つ男も動く。
二人がかりで、別々の側面から攻撃してくる。
詰みだ。
これで終わりか。
俺の力はここまでなのか?
あの訓練は一体何のためにあった?
森の中でたかが一味を相手にすることすらできないのなら。
その時、目を閉じ、すべてを終わらせようと決めた。
もしこれが最期なら、このまま逝くのが一番いい。
これ以上、抗う必要はない。
何のために戦い続けるというのか?
戦い続ける理由なんて、もう何も残っていない。
力があると思っていたが、そんなものはなかった。
ただの子供だ。一人で旅立つと決めた時、それを自覚しておくべきだったのだ。
もう……
「ダリアンくん!」
「ダリくん!」
「ダイくん……!」
この声。
この声こそが、俺の持っているものだ。
今の俺が持てるすべてだ。
まだ失っていない。まだ、この声を聞くことができる。
目を見開き、内部魔力を限界まで活性化させた。
顔の数センチ手前で、矢を止める。
「力は確かにあるが、俺はまだ精神的に弱いな」
剣の男が足を止める。
「だが、あの人と比べたら、お前らなんて何でもない」
その矢を、倍の威力で弾き返した。
一瞬にして宙を裂く。
瞬きすら許さぬ速さで、弓ごと男の肩を射抜いた。
それでも、剣の男は突っ込んできた。
目で追いつけないほどの速度で。
奴もまた、持てる力のすべてを振り絞っていたのだ。
首まで、あと数センチ……。
乾いた衝撃音が響いた。
見えざる何かに空中で押し潰されたかのように、奴の頭が急激に逸れる。
え……?
全く見えなかった。
一瞬前まで、そこには何もなかった。
だが次の瞬間、赤い布地が視界を横切る。
「忌々しいクズめ」
内部魔力は落ち着いたが、驚きは収まらない。
体が硬直する。反応することもできず、自分が声を発したことすら気づかないまま。
そして、その姿を目にした。
短い、赤い髪。
鋭い、赤い瞳。
年若い。
まるで最初からそこにいたかのように、俺たちの間に立っていた。
誰だ……?




