間話 【それを望まなかった少年】
「カンデリウス、行くの?」
母の眼差しは真剣だった。
あんな顔を見たのは初めてだ。
普段から嘘をつかない人だが、あんな目つきは滅多にしない。
「ああ、行く」
これこそ、ずっと望んでいたことだ。
競争相手がいなくなる。あの特別な生まれの奴が、消える。
女神は、ある意味で願いを叶えてくれた。
だが、これは……。
こんな風になってほしかったわけじゃねえ。
「カッシウス、ガイウス。その服に着替えて降りてきなさい」
「わかったよ……母さん」
「すぐ行く……」
ヴァレリアは一日中姿を見せていない。
ダリアンの部屋から一歩も出ず、
ずっと閉じこもったままだ。
この屋敷がこれほど暗く沈むなんて想像もしていなかった。
妹の輝きが、あんな風に失われるなんて。
俺はいつだって後先のことなんて考えねえ。
だけど、生まれた時からずっと見下してきたあいつは、いつだって考えていた。
ダリアンは得体の知れない奴だった。
泣かない赤ん坊だったと知った時から、特別なんだとわかっていた。
アエリウスが生きていた頃、まだほんの子供だった。
病気だった祖父を見舞いに行くと、いつも髪を撫でてくれた。
そして、いつもの笑顔でこう言った。
「お前にはすごいことができる。そして何よりも、ずっと望んでいたものになれるはずだ」
違った。
言いたかねえが、祖父は間違っていた。
そして、ダリアンも同じ目をしていた……。
あいつを見るたび、心の一部が壊れていく気がした。
そしてもう半分は、あいつを壊してやりたいと思っていた。
物理的にぶっ壊すって意味じゃねえ。ただ、当主になる理由をなくしてやりたかっただけだ。
それなのに、
思いとは裏腹に、
あいつはこの屋敷の当主になることなんて一度も望んでいなかった。
それに……もうなることもできねえ。
カッシウスとガイウスは着替えを終え、うつむき加減で部屋を出ていく。
もう少しだけその場に残り、窓の外を眺めた。
外は晴れ渡っている。
雲一つない空だ。
深い溜め息を吐き、着替えに向かう。
家ごとに決まった色があるなら、それを選ぶ。
黒でも許されてはいる。
セラフェル家の場合は、赤だ。
なぜ今こんなことを考えているのか、自分でもわからねえ。
……
母から、妹を呼びに行くよう命じられた。
さらに重苦しい面持ちで、ヴァレリアを参列させたがっている。
だが、説得しても来ないと言うなら、残ってもいいと認めてもいた。
死者を弔う者を見守る女神に対して、それは不敬に当たる。
死者が星々のもとへ旅立つには、まずこの地上で弔われなければならないからだ。
それでも、来ないからといって責めることなんてできなかった。
ドアを二回叩き、返事を待つ。
耳を押し当てると、鍵穴から漏れ出す泣き声だけが聞こえてきた。
「ヴァレリア……母さんが下に降りてこいってよ。……魂を弔うためにな」
「お兄ちゃん……? どっか行ってよ。ダイくんのこと、ずっと嫌いだったくせに。なんで今さら気にするのっ!?」
こいつは自分の言っていることがわかっちゃいない。
どう感じたらいいかわからない時、頭に浮かんだことをそのまま口に出してしまうんだ。
「今までキツく当たってきたのはわかってる、でも……」
「あっち行ってよ! 一人で降りるもん! だからあっち行ってっ!」
「ヴァレリア」
「一人にしてよ……っ」
このまま立ち去ろうかと考えた。
ドアノブから手を離し、背を向ける。
だが、逃げてばかりの弱い跡取り扱いされるのには、もううんざりだった。
「行かねえ。ダリアンに酷い態度をとってたのはわかってる。だけど、あいつから学んだんだ……大切な奴を見捨てちゃいけないってな」
「ダイくんは、わたしを見捨てたんだよっ……」
「見捨ててなんかねえさ。これからも心の中にいる。でも、見捨てられたなんて言ってたら、余計に苦しくなるだけだろ」
「わたし、ずっと一緒にいたかっただけだもん……」
「いられるさ。でもその前に、あいつを助けてやらなきゃならねえ」
「助ける……?」
「ああ、葬儀だ。見送る人間が多ければ多いほど、星空への旅はいいものになる。そうだろ?」
しばらくの間、沈黙が落ちる。
中で動く気配がして、ゆっくりとドアが開いた。
髪をボサボサにしたヴァレリアがそこに立っていて、こう言った。
「旅がよくなったら、ダイくん、わたしたちのこと見ててくれるかな?」
そんなことが本当にありえるのか、確証はねえとは言いたかった。
深く愛された者は、残された者を見守ることができるとは言われている。
だが、そんなことは言わない方がいい。今はその時じゃねえ。
ためらいながらも、こいつは俺の手を握り、着替えに向かった。
……
ダリアンは、祖父と共にエルメダリンの教会に埋葬される。
ずっと昔、女神と対話できたという一人の女が建てた場所だ。
女神アテの教会と呼ばれるべきなのだろうが、その本当の名は誰にもわからない。
この場所には、四つの名家がそれぞれの霊廟を持っている。
巨大な建造物だ。
そして今、全員がここに集まっている。
両親と共にやって来たあの少女、エミリアの姿もあった。
葬儀が始まった。
その時、意識はあいつから渡されたあの手紙へと飛んでいた。
『これをあんたに、従兄のカンデリウス。
あんたは何度も、俺に居場所を奪われたと思っていたな。
それは違う。俺はそもそも、そんな器じゃなかった。
正直に言うと、なりたいと思ったことすらなかった。
当主としての重圧よりも、冒険や魔法、剣の方にずっと惹かれていたんだ。
だが、今は自分のことはいい。あんたの話をしよう。
あんたが本当に持っている力についての話を。
自分では気づいていないだろうが、あんたは光に囲まれている。
ただ包み込むだけでなく、あんたという人間を定義する光だ。
時に、気圧されるほどの光だ。
傷つけられるからじゃない。あんたのように、俺にはそれを背負いきれないとわかっていたからだ。
利き手じゃない手で書いてでも、そう伝えたかった。
俺は当主になんてなりたくなかった。いつだって、あんたになってほしかった。
競い合いたいと思っていた自分も、確かにいた。
だが、もう一つの、一番偽りのない心は、ただあんたに笑っていてほしかった……自分自身を受け入れて、心穏やかに生きてほしかっただけだ。
ありがとう。
あんたが前に進んでいけるよう願っているよ、年上の従兄へ』
最後に残ったのは、ただ一つの思いだけだ。
(すまなかった……)




