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空明の再誕 - 生きる理由を取り戻すために  作者: 日和秋彦
第2章 - 光

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第二十二話 【さらば我が家】

 何もない。

 もう何一つ残っていない。

 錆びた剣で抉られたような、そんな痛みだけがそこにある。


【ヒカリ……】 その声を無視することにした。今回はどうでもいい。気にする理由があるだろうか? 何の意味もない。ただ鬱陶しいだけだ。


 弾かれたように目を開ける。夜だった。

 一日中眠っていたのだろうか? これは……。

 胸に手を当ててみるが、何も感じない。もうそこにはなかった。


(夢じゃなかった……。悪夢みたいだが、現実なんだ)


 まだそこにあるかのように、右手を握ろうとした。毒や夢が見せた幻覚だったかのように。だが違う。大切なものを失い、それがもうないのだと受け入れるような、幻肢痛だけが残っている。


【ヒカリ……聞いて……】


 嫌だ。聞きたくない。最悪のタイミングにだけ現れて、助けようとしてくるこの鬱陶しい声は。


【ダリアン……ダリアン……庭へ……】


(庭? 何が言いたいんだよ)


【庭……庭へ……】


 目の前に、小さな光が現れる。

 海に行った時、あの女の子の肩にいたのと同じ光だ。ただ、今はもっと近くにあって、こちらを見つめている。見つめている? 目はないが、そんな気がした。違うのは、この光がずっと消えずにそこにあるということだ。


【光に……ついていって……導いてくれるから】


 靴を履かずにベッドを降りる。なぜそんなことをしたのか。脚の感覚が妙だったが、すぐに慣れて、裸足で部屋を出た。

 前世で死なないように光が外へ導いてくれた、あの時と同じだ。きっと今も同じことをしているのだろう。だが、どうでもいい。

 もう自分の部屋にはいない。床は冷たく、近くに気配はない。いや、廊下の向こう側にアレクシオの気配を感じる。きっと部屋への唯一の通路を見張っているのだろう。だが、問題ない。


【窓から……お願い……】


 静かにドアを閉めた。アレクシオには気づかれるだろうが、今はそんなこと関係ない。光についていくことが唯一の使命だ……そうだろう?

 窓を開け、外に出る。

 光に導かれていくつかの通路を歩き、やがて噴水のある庭にたどり着いた。


「ここか? ここで何をさせたいんだ……え?」


 光はもう消えている。

 右を向く。ない。左にもない。上にも下にも、どこにもない。奇妙だ。前はどこからでも声が聞こえていたのに。今は何も聞こえない。

 突然、空気が変わった。うなじに何かを感じて、本能的に見上げる。だが何もない。星屑が散りばめられた、澄んだ夜空があるだけだ。


(わからないが、どうしても上から目が離せない)


 雲が渦を巻き始めた。

 さっきまでは一つもなかったのに。今や絶対的な暗闇が庭全体を覆い尽くしている。

 雲の中に、ゆっくりと螺旋が開いていく。まるで嵐の目のように。


 一気に熱が増した。

 何かに見下ろされているような、ぞわぞわとした感覚。

 これで終わりだと思ったその時……。

 白い光が、こちらに向かって降り注いだ。


「……」


 動けない。

 その光は眩しくはない。むしろ太陽よりも強く輝いているのに、少しも目を傷つけない。

 まるでこちらを知っているかのように、ただ周囲に存在していた。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ……。


 何が起きているのか理解した時、右腕に何かを感じた。

 右腕の、残された部分に。

 切断部に激しい痺れが走る。

 電撃のような感覚が体を伝って胸へと這い上がってきた。まるで、不可能なものを無理やり繋ぎ直そうとしているかのように。

 そして……動いた。


「違う、これは……」


 腕の残りを包んでいた布が、激しく揺れ始める。

 張り詰め、震え……そして最後には引き裂かれた。

 何かが生えてきている。


 呼吸が乱れる。そこから目を逸らすことができない。


 最初に骨が突き出た。

 次に筋肉が周囲に絡みつき、形を整えていく。

 そして神経が……。

 暴力的なまでの衝撃。

 無理やり命に繋ぎ直されているかのようだった。


「い、痛い……」


 目を逸らしたかった。だが、できない。

 最後に、皮膚がすべてを塞いだ。


 指。爪。

 自分の手。

 手が戻ってきた。

 動かしてみる。

 反応した。

 そして、それが最悪だった。


「ダリアン様……?」


 勢いよく振り返る。

 後ろにはアレクシオがいて、驚愕の表情でこちらを見ていた。


「ダリアン様、女神にかけて、どうか答えてください……あなたを完全に包み込む光が見えましたか?」

「アレクシオ……? あんたには見えなかったのか……?」


 反射的に腕を隠したが、間違いなくすでに見られていたはずだ。


「ええ。祝福を受ける者にしか見えないのです。私の時も同じでした。目を眩ませるほどの巨大な光なのに、決して視力を奪うことはない。ただ癒やし、そして……」

「祝福を与える。そうやって与えられるんだな」

「はい、その通りです……しかし教えてください、本当に光を見たのですか、それとも……?」

「アレクシオ、腕は完全に治ったし、光は少しも眩しくなかった。まるで太陽を見ているようだけど、代わりに癒やしてくれるような。これは……」


 アレクシオが剣を取り落とし、髪を掻きむしるのが見えた。


「駄目だ、これ以上最悪な事態は……やめてくれ……」

「どういう意味だ。何を……? いや、そんなはずはない」


 考えもしなかった。

 もし女神が祝福を与えたのだとしたら、つまり自分は……。


 いや、あり得ない……。どうしてまた自分なんだ?


 一歩後ずさる。

 いや、今度ばかりは黙って見ていたりはしない。苦労して取り戻したものを、また運命に奪い取られるなんて絶対に御免だ。行動するなら、早くしなければ。


「アレクシオ、頼みがある」


 すぐには返事がない。結んでいた髪が解かれ、顔には汗が伝っている。


「アレクシオ、お願いだ!」

「あ? はい、申し訳ありません、ただ……」

「今はそんなことを言っている場合じゃない。やらなきゃいけないことがある。手を貸してくれ」

「やらなきゃいけないこと……?」

「頼むから、何も聞かないでくれ」

「わかりました、わかりました……何をしろと?」

「急いで船を用意してくれ。目立たない、小さなやつを」

「まさか……?」

「アレクシオ、お願いだから! 家族に何も起きてほしくないんだ!」


 迷わなかった。思いきり平手打ちした。別の状況なら滑稽に見えただろうが、こっちは本気だった。


「あんたの気持ちもわかる。勅令のことも……。でも、もしここに残れば、父さんや母さんは絶対に死なせまいとするだろう。王に逆らい、殺されるかもしれない……絶対にそんなことにはさせたくないんだ」


 アレクシオは躊躇した。立ち上がりもせず、ただ頬をさすっている。まるで予想以上に強い一撃だったかのように。実際、そうだったのかもしれない。


「危険な決断ですが、最も理にかなっています……しかし、同行します」

「駄目だ、アレクシオ。一人で行く。目立たないようにするって言葉の意味がわからないのか? 頼むから、早くしてくれ!」


 悪いが、妥協はできない。

 説得しなければならない。


「わかりました。すぐに急行します。沿岸警備隊には別の区画を巡回するように伝えておきましょう。遠くに何か見えたと言えば、絶好の機会になるはずです。ですが……」


 短い沈黙が落ちる。風が髪を揺らした。

 雲の隙間から差し込んでいた光が消え、それと共に冷気が夜を支配する。


「どうかお気をつけて。お祖父様が救い出してくれました。生き写しだ。だからこそ、必ず生きて戻ってください……」

「こんなことに巻き込んでごめん……」

「お気になさらずに、ダリアン様。お仕えすることこそが役目ですから。アエリウス様の孫を救えるのなら、ためらいなどありません」


 アレクシオは一足飛びに姿を消した。あの速度なら、すぐに着くはずだ。


 すぐに自室へと戻る。

 大きな鞄を手に取り、必要なものをすべて詰め込んだ。


 一度も着たことのない地味な服、書き込み用の白紙の本の束、そして何本かのペンとインク。

 それから数枚の紙を取り出し、机に向かった。

 ペン先をインクに浸し、書き始める。


『母さん……父さん。

 何よりもまず、自分の意志でここを去るということを伝えておきます。二人のことを心から愛しています。最高の両親でした……でも、もうここにはいられません。死にたくないけれど、二人が死ぬのも見たくないから。

 母さん、とても怖いです。でも、いつも一緒にいると約束してくれました。だから、母さんとその心を、ネックレスに入れて一緒に持っていきます。数日前に盗み食いしたチョコレートの残りも一緒に。

 そして父さん、母さんを大切にしてください。苦しむ姿は見たくありません……耐えられません。素晴らしい父親でした。勇気と名誉、そしてどんなに仕事が忙しくても、家族のための時間は必ずあるということを教えてくれました。

 これだけははっきりさせておきたいのですが、これは自分自身の決断です。誰に強制されたわけでもありません。ただ……この状況で、他の解決策が思いつかなかっただけです。どうか、この手紙を読んだ後は燃やしてください。もし王の手に渡れば、二人に悪いことが起きるかもしれないから』


 涙がこぼれ、紙を濡らした。それは嘘偽りのない……本物の、震える涙だった。


『そして何よりも……助けてくれた人たちを罰しないでください。ただ、守ろうとしてくれただけです。もし何か酷いことをしたら、絶対に許しません。守ってくれたように、あの人たちを守ってあげてください。


 心の底から愛しています、母さん、父さん』


 そして最後に、前の世界の言葉で、『母さん、愛している』と書いた。

 それを書く時は手が震えたが、じっとしているわけにはいかない。

 次にヴァレリア宛の手紙を書いた。そしてエミリアへ。最後に、カンデリウスへ。


 息を吐き、手紙を書き終えた。


 王がずっと両親を排除したがっていたのは間違いない。だがそうすれば、世界最高であるドゥルグの金属の供給が途絶えるという事態に直面することになる。

 だから唯一の方法は、心を砕いて弱体化させること……つまり、最も愛するものを奪うことだ。

 両親への手紙を除いて、残りはまるで本当に死んだかのような別れの手紙だった……それでも、少なくともそれぞれの人生を前に進めるようにしておきたかった。

 最後に部屋を見渡し、枕元に手紙を置くと、ゆっくりとドアを閉める。中で何かが壊れるのを感じた。なぜなら、これは再びここから……家族から離れることを意味するからだ。だが、今回は違う。両親は生きている。未来でまた会えるかもしれない。この勅令の件が過ぎ去り、二人の暁の目醒めの天恵者が宇宙を破壊せずに生きられるとわかった時に。

 それでも、その事実は認めたくないほどに心を打ち砕いていた。


 ---


 同じ庭に戻る。そこでアレクシオが待っていた。泣いていたが、それを隠そうとしている。


「すべて……手配しました……時間は十分にあります、それに……」

「ありがとう、アレクシオ。本当に。最高の教え子だったよ。こんなことに巻き込んでごめん、面倒なことになるかもしれないのに」

「先ほども申し上げました。救うためなら、何だってすると」

「家族を守るためにも、何だってしてくれ。いいな?」

「お祖父様と同じほどの威厳をお持ちだ。しかし、暁の目醒めでもある。恐ろしくもあり、同時に誇らしくもあります。もう……」


 近づき、見上げた。


「行こう。泣くのは後だ」

「その通りですね。考えるより先に行動しろ、でしょうか。何度もそうお教えしました。さあ、背中に乗ってください。内部魔力を活性化させて、何があっても絶対に手を離さないように」


 慎重に背中に乗る。アレクシオは膝を曲げ、力強く跳躍した。一瞬にして地面が消え去る。

 さらに強くしがみついた。

 慣性が体を後ろへと引っ張る。

 景色がぼやけた。街路も、屋根も。すべてが足元にあった。


 動き一つ一つが風を切り裂き、押し退け、打ち勝っていく。

 屋根の上に着地した。

 余計な音は一切しない。瓦一枚すらズレることはなかった。

 止まることなく走り続ける。

 足音はまったく聞こえない。

 突然、目の前に港が現れた。

 気づいた時には、すでにそこに到着している。


 静寂があった。


 そして、音が戻ってくる。波が港に打ち付け、船を揺らしている。

 木材が桟橋にぶつかる音や、船を繋ぐ鎖の擦れる音が聞こえた。


 暗闇があった。

 唯一の光源は月だけだった。


「ダリアン様……」


 アレクシオが腕を伸ばすと、茂みから一本の剣が出てきた。


「これを持って行ってください。特別な銘が入っています。再びお会いした時、すぐにわかるように……その瞳だけでも十分な証拠ですが、念には念を入れなければ」

「本気か、アレクシオ? この剣の由来は知っている。お祖父様がローゼンライへ送る前に、初めてくれた剣だろう」

「だからこそ、持って行ってほしいのです。象徴のようなものです。経年劣化と未熟さのせいで、もう昔ほどの切れ味はありません。だからこそ持って行っていただきたい。ああ、忘れるところでした」


 ポケットから袋を取り出した。

 受け取ると、中に黒いチョークが大量に入っているのがわかる。


「旅の道具です。どこにいようと、きっと魔法陣の修行を続けたいでしょうから……この機会を無駄になさらないでくださいね?」

「わかった。本当に、ありがとう」


 最後に、髪をくしゃくしゃと撫でた。


「さて、船の操縦はご存知ですよね」

「ああ、船の操縦はわかるよ。たくさん本を読んだからな」

「ええ、そうでしょうとも。それに筋力もありますから、大きな問題にはならないはずです。ただ……あまり遠くへは行かないでください。沿岸部から離れなければ大丈夫です」

「わかってるよ、アレクシオ」

「ええ、わかっているでしょうとも」


 笑ったが、それは様々な思いを孕んだ苦い笑いだった。


「船には食料が積んであります。釣り竿もあります。ただ、なるべく早く陸に上がってください。長く止まらないように。暁の目醒めであることは承知していますが、それでも……」

「大丈夫だ、アレクシオ。わかってる」


 重い溜息をついた。


「では、時間です」


 船に乗り込んだ。

 波の様子がおかしい。

 乗り込んだ瞬間、波が静まった。ただの偶然かもしれないが。

 帆を張る。


「どうかお気をつけて、ダリアン坊っちゃん」

「あんたもな、アレクシオ先生」

 初めて、敬称で呼んだ。


 アレクシオが剣で舫い綱を断ち切った……船が動き始める。

 最初はゆっくりと。まるで船自身が迷っているかのように、桟橋にしがみつこうとしているかのように。だが風がその役割を果たし、少しずつ、未知なる場所へと遠ざかっていく。孤独の中へ。そして……生の中へ。なぜなら、認めるのは辛かったが、生き続けるのだから。

 月光だけが照らす暗い海が、巨大な布のように目の前に広がっている。

 喉が詰まり、目が潤み、何よりも……今すぐ海に飛び込んで戻りたいという強烈な衝動に駆られた。叫びたかった。ジュリエットに抱きしめてほしかった。もう二度と……一人になりたくなかった。


 だが、もう遅すぎる。


 泣いた。これまでにないほど泣いた。何かをようやく理解できたから泣いたのだ。守ることができると。そして同時に、生きることもできるのだと。そして誓う。必ず戻る。絶対にこのままでは終わらせない……。ただ生き延びるのではなく、生きるということがどういうことなのか。まだわからないけれど、父さん。いつか必ず見つけ出すと誓うよ。


 ◇ ◇ ◇


 ――ヴァレリウス・セラフェル視点――


 太陽が昇り始めていた。ほとんど一睡もできなかったからわかる。当主としても、父親としても失格だった。息子の利き腕を失わせてしまったのだから。


 全くどうしようもない男だ、と思った。申し訳ありません、父上。これ以上の人間にはなれませんでした。父上は何度も、お前は特別だ、愛する者を必ず守れると言ってくれましたが、そんなことはないようです。旅立つ前、未熟な身を一人残していく前に、父上はたった一言だけ言葉を残しましたね。


「孫は並外れた存在になるだろう。頼んだぞ、息子よ」それが、内側から身体を蝕む奇妙な病で亡くなる前に、父上が残した言葉でした。原因不明の病でしたが、逝く前に父上はたった一つの使命を与えてくれた。家を救うことでも、遺産を守ることでもない。息子の世話をすることだと。


 ベッドに倒れ込み、一日中何も考えずにいたかった。

 だが、今日だけは駄目だ。使用人たちは休みにして、息子のベッドまで朝食を運ぶのだ。

 父親として完全に失格だった。息子を救えなかったからだけではない。ダリアンと過ごすよりも、仕事に費やす時間の方が長かったからだ。これだけは知っておいてほしい。父親は自分の命よりも、どんな財産よりも、愛しているということを。


「ヴァレリウス……?」


 ジュリエットの声に振り返る。目元には隈があり、目は真っ赤だった……一晩中泣いていたのだ。


「ここにいるよ、愛しい人……」

「悪夢じゃなかったのね……?」


 座り込み、そしてすぐに立ち上がった。


「ああ、愛しい人……悪夢じゃない。だから、あの子に朝食を作ってやろう」


 ジュリエットは布切れを手に取り、顔を拭う。そして化粧をして、目の隈を隠そうとした。


「あの子にこんな顔を見せたくないわ。私……完璧な姿で出なきゃ。ええ、そうしなきゃ」


 後ろに回り、髪を梳かし始めた。当主となり、家を空けがちになる前によくやっていたように。


「もう起きてるかしら?」

「わからない。でも今はそんなこと考えたくない……それは……」

「落ち着いて。大丈夫だよ。今日は一日中、あの子と一緒にいよう。あの子にはそれが必要なんだ」

「私の可愛い子……どうしてあの子がこんな目に遭わなきゃいけないの?」

「ずっと一緒にいるからね」


 そう言って、髪を整え、化粧を終えた妻と手を繋ぎ、厨房へと向かった。


 ---


 妻がチョコレートを準備している間、ファクトゥーラスを焼いていた。


「あなた、私にファクトゥーラスを教えてくれた時のこと覚えてる? すごく美味しくて、作り方を覚えたのよね……」

「ああ、チョコレートもそうだが、君はファクトゥーラスを一番気に入っていたからね。特にカスタードクリームが入ったやつを」


 思い出して、少しだけ微笑む。精神にはそれが必要だった。起きてからずっと張り詰めている。息子を安心させるためには、こうして明るく、少なくとも打ちひしがれていない姿を保たなければならなかった。


 数分後、盆の準備が整った。

 ジュリエットが慎重に持ち上げ、口を開く。


「私が持っていきたいの。いいかしら?」

「ああ。行こうか」


 客室へ向かって歩き始めた。

 ジュリエットが肩に頭をもたせかけ、そっと腰に腕を回す。

 ゆっくりとドアを開ける。


「ダリアン、おはよう……ん?」


 完全に扉を開くと、そこには誰もいない。ベッドは乱れていた。


「あの子、自分の部屋に戻ったのかしら?」

「ああ、そうかもしれない。行ってみよう」


 慎重に階段を上り、同じように廊下を歩いて部屋へと向かった。ドアは閉まっている。以前はいつも開いていたのだから、ここに来たのに違いない。


 ジュリエットが深呼吸をして言った。

「一、二、三……おはよう、ダリアン……!」


 だが、ドアを開けると、そこにも誰もいなかった。


「ダリアン? どこなの?」


 ジュリエットが綺麗に整えられたベッドの上に盆を置く間、部屋の中央にある絨毯へと向かった。

 ダリアンはおもちゃで遊ぶ癖があったが、普通の子供のような遊び方ではなく、戦闘の計画を練るためだった。今回の場合、船上で怪物と戦う海兵たちだ。

 そして今、絨毯の上には作りかけの計画と、ペンで描かれた盤面が置かれている。


「ヴァレリウス、来て! 嘘でしょ……!」


 急いで駆け寄った。


「どうした……? その紙は?」


 震える手で、それを渡してくる。

 そこに書かれていた内容は……。


「ヴァレリウス、これ何の冗談? もし冗談なら……私、絶対に許さないわよ……」


 答えられなかった。

 喉が渇ききって、いや、むしろ喉そのものが消え失せたかのように感じた。


 これがあの子の言葉だというのか。

 素晴らしい父親でした。勇気と名誉、そしてどんなに仕事が忙しくても、家族のための時間は必ずあるということを教えてくれました。

 その言葉が激しく打ちのめした。違う、そんな人間じゃなかった……。


 突然、入り口にアレクシオが片膝をついて現れる。


「アレクシオ、一体何が起きている!?」

「申し訳ありません、旦那様、奥様。できる最善の選択でした……」

「私の子に何をしたの!? この手紙はあなたが偽造したの!?」


 ジュリエットを止めなければならなかった。限界だったが、冷静さを保たねばならない。手紙を読んで本物だとわかっていたが、妻の心は完全に曇りきっている。無理もないことだ。


「奥様……大変申し訳ありません。ですが、ダリアン様は暁の目醒めであり……思いついた最善の決断は、遠くへ逃がすことだったのです」

「なんですって!? 遠くへってどういうこと? だって……あの子はまだ六歳なのよ!」

「承知しております、奥様。しかし、勅令がある以上、救うにはこれしか方法がありませんでした……そして、決めたのはご本人です。もし手引きしなければ、別の方法で逃げ出し、見つかっていたでしょう」


 ジュリエットはこちらを見て、力強く抱きついてきた。


「ヴァレリウス、私の子が家の外に……私の腕から……すべてから、私から離れてしまった……耐えられないわ……」

「ジュリエット……息ができないくらい苦しい。だが、一つだけ断言しよう。あの子が暁の目醒めであるなら、無事に生き延びてくれるはずだ……」


 糞っ、まともに思考することすらできない。自己防衛の手段は冷静さを保つことだが……他に何ができたというのだ? もし今から捜索を始めれば、あの子が暁の目醒めであることが知れ渡ってしまう。腕を失ったことはすでに街中で噂になっているし、ジュリエットは身籠っている。何もできない……。

 その時、助けてくれた者を罰しないでほしいというダリアンの言葉を思い出した。だから迅速に決断を下し、残りのことは後で考えることにした。


「アレクシオ、立て。今すぐにだ」

「しかし、旦那様。見下ろす資格など……」

「アレクシオ、これは命令だ」

「わかりました……申し訳ありません、旦那様」


 アレクシオが立ち上がり、その顔を見た。


「当主として、非常に失望している。相談することなく独断で動いたことだけでなく、報告が遅れたことにもだ……だが、父親としては、一つ言わせてくれ。あの子を救ってくれて感謝する。一つだけ確かなことは、お前の訓練を受けていたなら、きっと生きていけるということだ……それから、お前を救ってくれた父にも感謝しているよ。さあ、下がってくれ」

「ありがとうございます、旦那様……そして、重ねてお詫び申し上げます」

「もう謝るな……それから、リヴィアを呼んできてくれ」


 ジュリエットは胸に手を当て、ベッドに座り込んで枕を抱きしめている。


「私の可愛い子……お母さんを守りたかったの? そんなことしなくてよかったのに、そのために私がいるのに……でもね、寂しいわ。ここにいてほしいの。魔法の失敗でたくさん迷惑をかけてくれていいから……」


 その言葉で、涙を堪えきれずに泣き崩れた。

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