第一話 【これが新しい人生ってやつか?】
虚無。
永遠の炎。
存在するのか……。
なんだ、この感覚は。
目を開けると、若い女が俺を見下ろしていた。
なぜそんな目で見る。
なぜ色がわからない。
起き上がろうとしたが、体は動かなかった。
あの事故は致命的だったはずだ。なのに、生き延びたのか。
よくわからない。
横には、髪が……
はっきりとはわからないが、色の見え方からして、白だとほぼ確信した。
「……ッ! …………・……・…………!」
女は酷く疲れているようだった。
首を回そうとしたが、動かない。
厄介だな、どうすればいい。
視界が完全にクリアになると、
大勢の人間が盆や布を持って慌ただしく行き来しているのが見えた。
どうやら、出産の真っ最中らしい。
なぜそう思うのかはわからない。
ここは病室でもなんでもないからだ。
そして、どう見てもこの部屋は……
俺からすれば、かなり豪華な造りをしているように見えた。
女の姿が、よりはっきりと見えた。
差し出された小瓶を受け取ると、
突然、何事もなかったかのように立ち上がり、
足取り軽く歩き出した。
(なんだ……。意味がわからない)
さっきまであんな状態だった女が、そんなに早く回復するはずがない。
だろう。まあ、実際のお産なんてほとんど見たことはないが。
女が、俺のいる方を見た。
「…………・…………」
待て……おかしい。
ここは病院じゃないし、
知らない言葉を話している。
体は動かないし、おまけに、
視界は白と黒と灰色のモノクロだった。
女が近づいてきた。
数秒間こちらを観察した後、俺を抱き上げた。
(え……。俺の身長は180センチ以上あったんだぞ、それが……)
事故で手足を失ったのか。
つまり、あの事故のせいで、大部分を切断された可能性がある。
だが、それでは辻褄が合わない。
そもそも、
なぜさっきまで陣痛で苦しんでいたはずの女が俺を抱き上げているんだ。
それに、
なぜ俺はこんな状況に巻き込まれているんだ。
「…………!!! …………!!!……」
俺を抱きかかえる女は、やけに元気そうだった。
それで俺の気分がマシになるわけでもないが。
何もできない、話すことすら。
話すか。
そういえば、試していなかった……。
「あ……あぁ……あっ……」
しかし、口から出た音は、うめき声でも喘ぎ声でもなく、何かを発しようとする不器用な試み……湿った無意味な音だった。
話すことも、動くこともできない。要するに……
視覚以外のコミュニケーション手段が一切ないということだ。
(多分、事故のせいだ……)
しかし、これは麻痺じゃない。
制限だ。
舌は重く、
喉は弱々しく、呼吸すら浅い。
(怪我をしているわけじゃない……この体は、まだ未発達なんだ)
その時、下を見てみることにした。
すると、そこには小さな体があった。
動かせないわけじゃない、動かしても感覚がないんだ。
手はまだ言うことを聞いてくれたが、ゆっくりと指を動かせるだけだった。
自分が生まれ変わったのだと、その時になってようやく気付いた。
(転生なんてものが、本当にあり得るのか)
だが、
なぜ俺なんだ。
俺が何をしたっていうんだ。
ようやく解放された、ただの空っぽな寄生虫だったのに、
人生は再び、残酷な真似をしてきた。
「……………………………… ………………」
女は何かを問いかけてきているようだった。
何もわからない。
何語なんだ、これは。
前世では、数え切れないほどの言語を学んだ。
古代語や、使用者の少ない言語さえ調べた。
学術的な好奇心からヴォイニッチ手稿を解読しようとしたこともある。
だが、これは俺の知るどれとも違った。
頭で処理しようとした頃には、
急激に体力が落ちていくのを感じた。
それと同時に、ひどい眠気が襲ってきた。
畜生……赤ん坊の今の俺には、これが限界か。
(せめて……)
だが、暗闇が訪れた。
◇
丸一ヶ月が経った。
なぜ転生したのかは、まだわからない。
だが、他に何ができる。
今の俺の状態では、この人たちに頼るしかない。
自分の意思で動くことも、自分の世話をすることもできない。
だから、全面的にカバーしてもらう必要がある。
惨めだ。
待て……
俺は今、惨めだと言ったか。
いや、今の状況に対する正常な反射に過ぎない。
このままじゃ、誰も守れない。
弱者である俺は守られなければならない……そういうことだろう。
……強い者は、弱い者を守るためにいる……
突然、手が伸びてきて、俺を思考の渦から引きずり出した。
新しい母親だった。
「…………、…………」
彼女は服をまくり上げ、優しい声で話しかけながら、俺を引き寄せた。
妙だった。
授乳されなければならないという事実のせいじゃない、
俺が何の抵抗もしていないからだ。
不快感か何かを感じるはずなのに、
何も起きない。いや、最悪なのはそれじゃない。
拒否することすらできないことだ。
赤ん坊として、食べる必要がある。
正直なところ、他に方法はない。
泣き方もわからないから、彼女は俺がいつ腹を空かせているか推測するしかない。
だから俺は、ただ目を閉じて身を任せた。
---
ドアが勢いよく開いた。
犯人は俺の父親だった。
彼は笑顔で入ってくると、俺のそばに立った。
二人はいつものように話し始めた。
時折キスを交わしながら。
観察した限りでは、20代そこそこだろう。
子供を持つには若すぎるんじゃないか。
そして、テクノロジーというものが存在しないことにも気がついた。
シャンデリアがある。
スイッチや現代的な服の痕跡は一切ない。
目に入るものはどれも高価そうで、部屋は途方もなく広い。
おそらく100平方メートルほどで、天井も高い。
言うなれば、かなり裕福な家庭に生まれ変わったらしい。
もしかすると裕福すぎるほどに。全く知らない言語が話され、
「現代的」と呼べるものが一切ない場所。
服装も別文化のものにしか見えない。
何はともあれ、早く動けるようになりたい。
---
4ヶ月が過ぎた。
ようやくまともに動けるようになり、色も正しく認識でき、体力もついてきた。
それでも、まだ完全に彼らに依存していることに変わりはない。
時々ハイハイはするが、大した役には立たない。
部屋は広いが、やれることは少なかった。
なぜだかわからないが、外には出してもらえなかった。
おそらく、巨大な階段があるからだろう。
この部屋の広さを考えれば、あり得ることだ。
今重要なのは、動けるということ。
そして予想外だったのは、それに喜びを感じている自分がいたことだ。
興奮。
幸福感。
そんな気分だった。
ここは、俺のいた世界じゃない。
電気がなかった。
頭上のシャンデリアには毎晩勝手に火が灯るロウソクがあり、
優れた換気システムまであるようだった。
だが、現代技術の痕跡は皆無だ。
全てが……魔法のように見えるのか。
確信はないが、今の俺にはそう考えることしかできなかった。
ドアが勢いよく開いた。
母親だった。
赤褐色の髪をポニーテールにして肩に垂らし、
部屋に入るたびに、その薄茶色の瞳が俺に向けられた。
「ああ、私の可愛い赤ちゃん。おばあちゃんに会いに行きたいかしら」
言っておくが、今では言語をかなり理解できるようになっていた。
結局のところ、そこまで複雑ではなかった。それに赤ん坊の真っ白な脳みそが合わさった結果、学習は早かった。
何しろ、前世では多言語を操っていたのだ。
両親はよく喋るし、なぜか俺の前で話す時はいつも物を指差してくれるので、
すぐに区別がつくようになった。
この世界では、子供に早くものを教える風習でもあるのだろうか。
答える間もなく、腕が俺を掴み、持ち上げた。
「さあ、おばあちゃんがあなたに会いたがっているわよ」
いつものように抱かれたまま、俺は彼女の胸に顔を埋めた。
「きゃあああ! うちの子、世界一可愛い!」
そう言いながら、彼女はさらに俺を強く抱きしめた。
ちょっと仕草をしただけで、大興奮だ。
---
中庭への道のりは永遠に感じられた。
廊下を3つ以上通り抜け、階段を降り、
さらに長い廊下を歩いたと思う。
その広さについては考えたくなかったが、
否定のしようがなかった。巨大な建造物だ。
(なぜ俺はここにいるんだ。どういうわけか、人生は俺に努力させようとしている……)
親が金持ちだからといって、良い人生とは限らない。
いつものように、大げさに考えているだけだ。
これが全部良くないことのように思い込みながら。
だが、こんな環境には慣れていない。
動きたい、世界を見たい。でも、こんな石の要塞に巻き込まれていては無理だ。
やっぱり、大げさだな。
案外、そこまで悪くないのかもしれない。
とにかく、俺はまだ1歳にもなっていないのだから。
なのに、こんなことで悩んでいるのか。
大きくなったら、荷物をまとめて出ていけばいいだけの話だ。
だが、この体がそういう思考の邪魔をする。
だから残っているのは、「感心させたいという欲求」だけ。
全く予定していなかった感情だ。
ようやく、庭らしき場所に到着した。
メインでも、サブでもない。
最も厳重に守られた庭で、
5メートル以上の壁に囲まれながらも、
それでいて屋敷の一部だった。
いや、もはや宮殿だ。
「ああ、お前かい」
話しかけてきた女は、俺の祖母だった。
父親の母であり、つまり、母親の母だ。
「お加減はいかがですか、お義母様。お健やかなら良いのですけれど」
「いつもの通りさ。私に何か起きるなんて、そうそうあるもんじゃない」
「お義母様の冒険者としての武勇伝は存じておりますわ。止まらないという言葉でも足りないくらいだと」
「ハッ、よくわかってるじゃないか。……さあ、その小さな子を私に渡しな」
俺を受け取る前に、彼女は数秒間俺を見つめた。
それから頭の上に持ち上げて、俺を観察した。
いや、そう見えただけか。何をしているのかはよくわからなかった。
「これが小さなダリアンかい。思ったより大きいね」
「ええ、この子は成長が早いですわ」
「ふむ、見ればわかるさ。お祖父さんにそっくりだね」
彼女は地面を見た後、俺の目を見た。
俺を母に返すまで、ずっと見つめ続けていた。
「ジュリエット、この子はその目をしているね。太陽の光でようやく気付いたが、アエリウスの目を受け継いでいるよ」
「ええ、ヴァレリウスも生まれた時から気づいていましたわ。素晴らしいことですよね」
「赤色は随分と長い間見ていなかった……アエリウスがその色を取り戻したが、長男のヴァレリウスや他の子たちはその目を受け継がなかったからね」
「えっ。赤色は一族の中で、何世代も現れていなかったのですか」
祖父の赤い目を受け継いだらしい。
祖父はずっと前に亡くなったようだ。正確な時期はわからないが、
祖母が彼に言及するたびに声が震えていたことを考えると、ごく最近のことかもしれない。
なぜだか、俺は彼女に同情していた。
なんだ、この感覚は。
「まあいい、今はそんなことどうでもいいさ」
祖母は背を向ける前に、最後にもう一度俺を見た。
「役に立つだろう」
何の役に立つというんだ。
それは孫に向かって使う言葉じゃない。
どういう意味で役立つんだ。
跡継ぎとしてか。
指導者としてか。
この一族をまとめるためにか。
政治でか。
どれであれ、最後のものでないことを祈る。
要するに、俺はまるで道具扱いだ。
「はい、お義母様……そうなるように、できる限りのことをしていますわ」
「ジュリエット。もう兆候は見せているのかい」
「とてもよく観察していますよ、お義母様。それに大人しいの。私の子はとても大人しいんですわ」
「本当かい。その年頃ならもっと……元気であるはずだが」
「それが、この子は生まれてから一度も泣いていないんですの」
こればかりはどうしようもなかった。
やり方がわからないのに、泣けるわけがない。
赤ん坊の真似をしようと何度も試みたが、無駄に終わった。
むしろ、メイドたちを困惑させていたと誓って言える。
「泣かない、だと」
「ええ、一度も」
「ふむ……」
「お義母様、古い魂というものが存在するのはご存知でしょう」
「確かにね。我らが女神アンテイアがそれをお許しになったのなら、そういうことなんだろうさ」
我らが女神か。古い魂か。
なるほど、そういうものを信じているわけか。
俺はあの火事の後、神なんて信じるのをやめた。
とはいえ……それが意味する論理に従えば、
俺がその存在の生きた証拠ということになる。あるいは単純に、
そんなことが可能だという証明に。
ただの偶然かもしれないが。
どうやら古い魂というのは、単に成熟した子供のことを指しているらしく、
必ずしも転生者という意味ではないようだ。
つまり、賢いというだけのこと。
とはいえ、泣かないことはそのカテゴリーには入らないらしいが。
「さて、ジュリエット。私も用事があって長居はできない。もう行くよ」
「息子のためにわざわざここまで来ていただいて、ありがとうございますわ」
「いいんだよ。この子を産んでくれてありがとうね。何年も前のごたごたは許しておくれ。あの子の人生に飛び込んできて、それが何を意味するかを知りながらヴァレリウスに求婚した、あの時のことさ」
「ああ、気になさらないでくださいな、お義母様。過去のことで、理解していますから。それに……恥ずかしくて耐えられないので、そのお話はもうやめてちょうだい……」
母の頬は赤く染まっていた。
異常なほどの惚れ込みようだ。
愛する男と結婚できるのなら、言い争いなど気にも留めなかったらしい。
---
俺は再び自分の部屋へと連れ戻された。
今度はベビーベッドには置かれなかった。
母は俺と一緒にベッドに横になり、大きな本を開いた。
「これは木よ……数字の1ってわかるかしら」
「あ……あ……」
何か言おうとしたが、またしても意味をなさない音が出ただけだった。
「その通りよ。木だわ」
それでも、彼女は諦めなかった。
読むたびに、指で文字をなぞっていた。
なんでこんなに急いで俺に教えようとするんだ。
まだ生後4ヶ月だぞ。それなのにもう字を読めるようにしたいのか。
親の野心とでも呼ぶべきか。
ともかく、このチャンスを無駄にするつもりはない。
物語は複雑なものではなかった。
祝福されし者たちの集団についての話だ。
彼らは偉大なる竜ドゥリンを打ち倒した。
そしてその骨を使い、人類の真理と王の城を抱く巨大な島を支えたという。
(随分とファンタジーな話だな)
だが、母の朗読する声は穏やかだった。
優しく、注意深く。俺が動いても、決して無視することはなかった。
それが、俺の中に理解できない感情を引き起こした。
その感情のせいで、俺はあっという間に眠りに落ちてしまった。




