07:偶然の出会いと、必然の遭遇と
窓からうっすらと朝日が差してくる。
鳥のさえずりもまばらな早朝、ツルギはいつものように目を覚ました。
まるで眠気を感じさせないきびきびとした動作で、ベッドから降りて顔を洗う。
ふと、部屋の中に甘い匂いを感じた。
昨日の残り香だろうか。塔子か、あるいは麻矢の匂い。女の子を部屋に上げたのなんて初めてだったし、なんだか不思議な感じがする。自分の部屋ではないみたいだ。
そう思って部屋を見回してみる。
本棚に詰めこまれた武術の本。うっすら埃をかぶったノートパソコン。壁に貼られたカレンダー。床の大きな救急箱。知らない匂いがするだけで、よく知っている自分の部屋に間違いはなかった。
「……しかし、こうしてみると人間味が枯渇してるな」
いつからこうだっただろうか。
楽しかったはずのことを楽しいと思えなくなったのは。
そうして武術以外をどんどん切り捨てるようになったのは。
「まあ、いいか」
思索を打ち切り、軽く柔軟をしてから寮を出た。
朝独特の冷たく澄んだ空気を心地よく感じながら、ツルギはゆっくりと走り出す。
日課になっている朝のジョギングだ。
怪我のせいで筋トレや激しい運動は難しいが、それでもできることはしておきたい。
体を慣らしながら徐々に速度を上げていく。
寮の隣の黒丸マーケットはまだ閉まっている。その隣の学園病院も静かなものだ。温水プール施設、一般生徒用の体育館と武系生徒用の武芸館、部室棟、図書館、そしてもちろん校舎に至るまで、まだ人の姿はない。
もう少しすれば熱心な部活動は始まるだろうが、今はツルギ一人きりだ。
そう思っていたツルギだったが、思いがけず人影を見かけた。
人がいるだけでも珍しいのに、その女子生徒はツルギの知っている人物だった。
八嶋麻矢だ。
「おはよう。早いんだな」
近づいて声をかけると、麻矢もツルギに気づいて立ち上がった。
「おはようございます。なんというか、まだ実家の感覚が抜けなくて」
「ああ、それはわかる」
ツルギの家も道場をしているので、無駄に朝は早かった。おかげで今も起こされるでもなく目が覚めてしまう。
「ところで、何をしてたんだ?」
ツルギからは、何もない場所に座りこんで地面をにらんでいたように見えた。しかし、いくら暇でも朝から地面をにらむことに意味があるとは思えない。
「ああ、はい。学園の植生を調べてました」
「しょくせい?」
「何が生えているかとか、そういうことです」
よく見れば麻矢の片手には数冊を紐で綴ったような分厚いノートがある。そしてそれに付箋を貼る作業をしていたようだった。ノートの表紙には題字のようなものが手書きされている。
「えっと、しょうひこ……」
「すくなびこなほんぞうしょう、です」
《少彦名本草抄》という字はそう読むらしかった。
「うちに伝わってる薬草の本です。もっとも、これはわたしが写した写本ですけどね」
「少し見せてもらってもいいか?」
「どうぞ」
差し出されたノートをめくってみる。
植物のイラストと名前から始まって、その植物が好む環境、生で使用する場合の効能、絞った場合、煮出した場合、干した場合、もっと複雑な加工の方法とその効能まで、びっしりと書かれている。
「すごいな……」
何ページかめくって、万事がその調子なのを確認し、麻矢へと返す。
「匂いの診断といい、もしかして麻矢の家は医者か何かか?」
「大昔は似たようなことをやってたらしいですけどね」
あ、それで思い出しました、と麻矢は続ける。
「ツルギくんって、お昼は学食派ですか? 持参派ですか?」
「えーと、学食派だが」
「嫌いな食べ物はありますか?」
「特にないな。わりと何でも食える方だ」
「じゃあアレルギーとかは?」
「それも特にないけど」
ツルギの答えにふんふんとうなずく麻矢。
「それでこれはいったい何の調査だ?」
「いえ、実はお昼にお弁当を作ろうと思いまして」
「オレの分もか……? それは大変じゃないか?」
そこで麻矢は真面目な顔になる。
「ツルギくん、偏食家でしょう?」
「な、なぜわかった?」
「そのくらい匂いでわかります」
「匂いで」
恐るべき麻矢の嗅覚。
ツルギの背筋を冷や汗が伝う。
「それを直せば少しは治癒力も上がって、怪我も早く治るかもですよ」
言われてツルギは自分の腕を見る。
「なるほど。そういえば最近ちょっと調子もよくなかったんだよな」
「薬食同源。健康はまず食からですよ」
そう語る彼女の様子は強い自負と自信を感じさせた。
「それじゃあ悪いけど、頼めるか?」
「任せてください。死ぬほど健康にしてあげます」
「いや、死なない程度に健康にしてくれ」
さすがに健康のために死にたくはない。
何か矛盾しているような気もするが。
「あ、それでですね。とりあえず塔子さんとは一緒に食べる約束してるんですけど、もしよければツルギくんもどうですか?」
「いや、オレは昼飯は臣と――」
そこで思い出す。
臣は言っていた。
彼女たちとの交流が、調子を取り戻すきっかけになるかもしれない、と。
「いや、やっぱりオレも混ぜてもらっていいか?」
「嬉しいです。じゃあ今日……は午前終わりですから、明日から作ってきますね」
「よろしく頼む」
白嶺祭まであとわずか。
少しでも傷の調子がよくなるなら、こんなにありがたい話はない。
その上で謎の不調もなんとかなれば、臣に心配をかけることもなくなる。ここは麻矢に甘えさせてもらおう。
そんな風に麻矢と話していたときだった。
風が吹いた。
その中に強烈な戦意を感じ、ツルギは反射的に振り返る。
「おっと、本当にいた。確か三位の人。大滝さん……でしたっけ」
そこにいたのは一人の男子生徒だった。
「滝川だ」
「ああ、すいません。どうにもね、人の名前を覚えるのが苦手で。だから俺の名前も覚えてもらわなくていいですよ。九重イズミと言いますが」
「武系の新入生だな」
ツルギが断言すると、九重は目を細めた。
「ご慧眼で」
「さすがにな」
三白眼の中の瞳に強烈な戦意を感じる。
そして正中線を貫く細く長い体躯。その中にわずかな左右非対称。武術をする人間は利き腕や利き足、あるいは型の影響でどうしても体の左右に差が生まれる。
顔に比べて手の先がわずかに赤い。その色は明らかに内側からの変色だ。そこから想定される戦闘スタイルは――内出血を伴うものか。
なかば無意識のうちにツルギは思考を巡らせる。
「ツルギくん? これは、ええと……?」
不穏な気配を感じてか、麻矢が一歩下がった。
その前にツルギが立つ。
彼が話をしにきたのではないことは、もうわかっていた。
「いやね、地元では俺と戦ってくれる人がもう長いこといなくて、この学校の評判を聞いて入学したはいいんですが……不安なんですよ」
「……何がだ?」
眉をひそめるツルギに、九重は自嘲気味に笑いかける。
「本当にここに俺と戦える人がいるのかってことがです。もしもここがダメだったら、もう他に行くアテはない――どん詰まりなんですよ」
その表情でツルギは九重の境遇を理解した。
彼は好敵手に恵まれなかったのだ。
だから自分が今どのあたりにいるのかがわからない。どこへ行けばいいのかもわからない。真っ暗闇の中で一人放浪しているに等しい。
それは――とてもつらいことだ。
「だから強い人に見せてもらいたかったんですよ。この学校がどんなものかを。そしたら通りすがりの女の子がね、ちょうどいい相手がここにいるって教えてくれたんです」
「女の子……?」
「ああ、しまった。これは秘密でした。聞かなかったことにしてください。――ということで滝沢さん、ぜひ俺にこの学園のレベルを教えてくれませんか?」
「学園での私闘は禁止されている。それにオレは学園を代表できるほど強くはない」
「…………」
九重の目つきが鋭くなる。
「――だが、指南という名目で、三手までならつきあおう」
「ありがたい。ぜひともお願いします」
九重が構えを取る。
ツルギも構えて対峙する。
「それと――」
ツルギが口を開いた瞬間、九重が踏み込んでくる。
ねじりこんだ体から放たれるのは、叩きつけるような凄まじい打撃。
それが定石から外れた角度から襲ってくる。
だがツルギにはしかと見えていた。
右腕と、それを支える左腕で受け止める。
衝撃。
鈍い激突音。
ツルギの左足が半ば地面に埋まる。
「――それと、オレは滝川だ」
ぶつかる視線。
それに押されたように九重が下がる。
「遠心力と脱力を利用した変則的な打ちか。劈掛拳か、首里手か――いいや、違うな。柳生志限流か?」
ツルギの一言に、九重は大きく目を見開いた。
「厳密に言えばその系譜の傍流ですが……驚きました。たった一合で見抜かれたのは初めてです。有名な流派でもないのに」
「前に一度戦ったことがある。この学園はそういうところだ」
ツルギは答えながら構え直す。
「いい一撃だった。鍛錬のほどがよくわかる。これほど真面目に鍛えていながら、それを受け止めてくれる好敵手に恵まれないとは……不運だったな、九重イズミ」
その言葉を聞いた九重は、わずかに震えた。
そして首を振る。
「いいえ、いいえ――いいんですよ。たった今、受け止めてもらったんですから」
その口元が吊り上がる。
嬉しそうな彼を見て、ツルギもまた笑った。
「オレは出会いに恵まれている。どうやら後輩にも恵まれたようだ」
「それではもう一手、ご指南願います――!」
「ああ」
再び両者が向かい合う。
遠間を維持する九重。劈掛拳にしろ柳生志限流にしろ、遠心力を利用する拳法は相手が遠いほうが都合がいいのだ。その距離の分だけ加速し、重みが載る。
一方ツルギは近づかなければならない。それは流派云々というよりはリーチの差があるからだ。体の小さいツルギは、余計に彼に接近しなければならない。
じりじりと間合いを詰める。
当然ながら先に九重が動いた。
振り回される鞭のような腕。その下をツルギはくぐる。
ねじれる九重の体。腕が胴に巻きつくようにしなる。その反動を利用して今度は左腕が来る。その一撃を今度は手刀で迎え撃った。叩きつけるのではない。そっと優しく手刀を滑らせて打撃の方向を逸らす。
泳ぐ九重の体。その脇腹にツルギはてのひらを添える。
密着距離から全身を連動させての打ちこみ。
体の中を力が流れる。
足元から膝へ、膝から腰へ、腰から肩へ、肩から腕へ。
肋骨が軋む手応え。浮き上がる九重の体。そのまま親指の付け根を押しこむようにしてさらに威力を透す。
「うおおッ――!?」
九重が飛んだ。
まるで放り投げられたかのように。
そうして当然、地面に叩きつけられる。
「次が三手目だ」
「待った待った。降参です降参」
咳きこみながら両手を上げる九重。
「……いいのか?」
「ここで使い切るのはもったいないですから。三手目は、もう少し腕を上げてからにします。いやあ、強いですね先輩。貴方が二年なのが残念です。同じ学年なら卒業までずっとつきあえたのにな」
「――大丈夫だ。心配するな。この学園になら、必ずお前の好敵手になるヤツがいる。お前を認め、お前を導いてくれるヤツが」
ツルギは倒れた九重に手を差し伸べる。
「はは。先輩がそう言うなら期待しましょう」
九重はそう言ってツルギの手を取り、吹っ切れたように笑った。
そんな二人の様子を少し離れて見ていた少女――いつの間にやら蚊帳の外に置かれていた麻矢は、なんとも言えない表情でため息を吐く。
「……本当に、男の子って男の子ですよね」
わたしのことも忘れないでほしいんですけどー、と小さくつぶやいたが、結局ツルギの耳には届かなかった。




