06:お風呂と、トイレと
――黒瀬塔子は、人間が嫌いだった。
全部とは言わない。自分に近しい数人に関してはその限りではない。でもそれ以外は嫌いだ。みんな嫌い。絶滅すればいい。
できるなら、この世に生きる人間を自分が選べたらいいのにと思う。残りは滅ぼして世界を自分と家族だけにしてしまいたい。いつもそんなことを考えている。
けれど考えたところで隕石が降ってきたりはしないし、氷河期が来たりもしない。だから仕方なく人間に囲まれて生きている。
もちろん生まれたときからそうだったわけではない。
きっかけがあった。
いつのころからか、相手の瞳に感情が透けて見えるようになったのだ。
自分を利用しようとする打算、立場に対する嫉妬、外見に対する恐怖や嫌悪。屋敷の外の人間には必ずと言っていいほどそれがあった。
気持ち悪かった。
歪んだ鏡しかないミラーハウスにいるみたいだ。
人に囲まれていると、自分が何者なのかすらわからなくなっていく。
だから塔子は人間が嫌いだった。屋敷の外も嫌いだった。できる限り屋敷から出ようとしなかったし、大抵のことはメイドに頼んで済ませてきた。
けれどある日、メイドの彩良に誘われて外出して。
――そして、あの事故が起きた。
爆発が起こり、足を痛め、あちこちが燃え上がり、崩れ、逃げ惑う人々に押しのけられ、踏まれ、けれど声も上げられず、吐き、小さくうずくまっているうちに誰もいなくなり。
けれど、そのおかげで出会ったのだ。
水鏡のような瞳を持つ彼と。
……ついでに、あの三つ編みとも。
あの二人はどういう間柄なのだろう。
仲がよさそうに見えたし、遠慮があるようにも見えた。自分をツルギから遠ざけようしているのかと思ったが、しかしその瞳に敵対心がまったく浮かんでいなかった。今まで見たことのないような、でも懐かしい色を宿していた。
わからない。
ツルギの部屋から退散してからもついてきて、食堂でも目の前に座って、色々話しかけてきた。ほとんど返事もしなかったのに、延々と健康と料理の話をしていた。正直うるさいし頭が痛かったし、追い払おうかとも思ったが、あまりにも悪意がなさすぎて気後れしてしまった。
結局食事が終わって別れたが、最後までその瞳に負の感情が見当たらなかった。
「……不思議だわ」
そうつぶやきながら、塔子は壁の案内板をにらんだ。
手には下着とジャージとタオルがある。
大浴場へ向かう道を確認しているのだ。
と、背後のエレベーター前に数人の女子生徒が集まってきた。
一様に手提げ袋を持っていることからすると彼女らも風呂に向かうのかもしれない。だが、人間の詰まったエレベーターに入るなんて血を吐くほどの苦行だ。だから背を向けたまま見送る。エレベーターの扉が閉まる音に安堵さえ覚えてしまう。
せめて止まる階数を確認しようとエレベーターに視線を向けたとき、声がかけられた。
「黒瀬さん?」
そこには手提げ袋を持った三つ編みがいた。
「お風呂ですか? やっぱり縁がありますね」
「……そうかしら」
「これはもう運命ですよ」
「……違うと思うけれど」
単に二年生の入浴時間の中で、少しばかり噛みあっただけだと思うのだが。
麻矢がエレベーターのスイッチを押す。どうやら風呂場は上の階にあるようだ。
すぐにエレベーターが到着し、扉が開く。
「ささ、どうぞ」
扉に手を当てて促す麻矢。
一瞬躊躇したものの、結局乗ってしまった。
少し遅れて麻矢が入ってくる。
できるだけ距離を取るべく奥へと詰めた。
麻矢は三階のボタンの押して、扉を閉める。そういえば食堂も三階にあった。そういった施設がまとめてあるのかもしれない。
上り始めるエレベーターの中で鼻歌を歌う麻矢を、後ろから観察する。
三本の三つ編みという不思議な髪型。後ろの一本が動きにあわせて揺れるのが小動物を思い起こさせる。そして小柄な体格に少し大きめのジャージ姿。
ジャージ。そういえば寮内で見かけた生徒はほとんどがジャージ姿だ。食堂でも九割くらいがそうだった気がする。そういうものなのだろうか。
塔子は自分の服装を見下ろす。いまだ制服姿だ。
むう、と悩んでいる間に三階に到着する。
「着きましたね」
「……ええ」
並んでエレベーターから降りる。
「一番奥がお風呂みたいですよ」
少し離れたところに、先ほどの女子集団の背中が見えた。
うなずいて麻矢の後ろを歩く。
ほどなく到着。
戸を開けるとそれなりに広い脱衣スペースがあり、女子生徒が数名会話しながら服を脱いでいる。
なるほど、ここでの脱衣の手間、持ち帰る荷物を考えると、あらかじめジャージになっているのは合理的だ。一人納得しながら人気のない角のスペースに陣取ると、塔子も服を脱ぐ。制服の上、スカート、シャツ、靴下、ストッキングにそれから下着。
「なんというか、ちょっと敗北感感じますね……」
「……何が?」
麻矢の声に振り向くと、そこにはウェーブのかかった髪の、小柄な少女がいる。
「……三つ編みがいなくなった」
「そっちが本体ですかわたし」
それが髪をほどいた麻矢だったらしい。
なるほど、と納得する。
「……だいぶ雰囲気が変わるわね」
「そうですかね。自分ではよくわかんないんですけど」
そんな話をしながら二人並んで浴場へ至る曇りガラスの戸を引く。
――視界に、大勢の人間が飛び込んできた。
想定していたより遥かに人が多い。大きく反響する笑い声。入ってきた塔子に向けられる無数の視線。肌に直接突き刺さるような視線。視線。視線。視線。
耳鳴りがする。肌の上を汗が流れていく。
ぐるぐると視界が回る。
「黒瀬さんっ!?」
ふらついた体を麻矢が支えてくれた。
離れて、と言おうと思ったが声が出ない。
支えてくれる麻矢に向かって吐瀉物を撒き散らしてしまった。
「ぐうぇっ……うぅぅぁ……けほっ、けほっ……」
さらに周囲の視線が突き刺さってくる。
余計に気持ちが悪くなる。
ざあざあと耳のそばを血が流れていく音がする。
と、そんな塔子の背中を、麻矢がさすってくれた。
「大丈夫ですか……?」
小さな手が、優しく何度も往復する。
そのおかげだろうか、吐き気が少しだけ治まってきた。
「落ち着いたなら、一回そこのトイレで全部出しちゃいましょう」
麻矢は塔子を支え、脱衣所の横にあったトイレへと連れて行ってくれる。
個室の中で下を向くと、わずかに残っていた胃の中のものが喉を焼きながらこぼれ出る。
「変ですね……病気の匂いもしないし、食中毒かなぁ」
首をかしげながらも、麻矢は変わらず背中をなでてくれる。
「……大丈夫よ……少し、人に酔っただけ」
「そう……なんですか?」
納得していない気配。
だから説明した。
自分の人嫌いと、その体質を。
教室くらいの人数でもしばしば気分が悪くなり、特にたくさんの視線を浴びると体調さえ崩すことがあると。
「言われてみれば、食堂でも少し調子悪そうでしたね」
「……でも、こんなにひどくなることは、なかったのだけど」
「うーん……お風呂だからですかね。普段、お風呂に他の人はいないから、とか」
「……そうかもしれないわね」
落ち着いてきたので顔を上げる。
すると麻矢の胸元に自分の吐瀉物がかかっていたことに気づく。
「……ごめんなさい」
「え?」
「……その、吐いて、かけてしまって」
「ああ、いいんですよ。しょうがないです」
ようやく気づいたという感じで、麻矢はトイレットペーパーを引き出して、自分の胸元を拭った。
「お風呂の方はひとまず管理人さんに話をして、人のいない時間に使わせてもらえないか聞いてみましょう。ご飯の方も、慣れるまでは部屋で摂る方がいいかもですね」
「……ねえ、三つ編み」
「なんですか、黒瀬さん」
「……貴方の名前を聞いてもいいかしら」
麻矢は一瞬考えこんで、それから手を打つ。
「そういえば名前を言ってなかったですね。八嶋麻矢です」
「……麻矢。ごめんなさい。ありがとう……その名前、二度と忘れないわ」
「やや、そんな大げさな」
「……私のことも、塔子でいいから」
「それは嬉しいですけど……ところでそろそろ出ませんか。トイレの個室に二人して全裸で入っているというすごい状況に気づいてしまったので、ってあの塔子さん……? なんか近くないですか……?」
「……麻矢の瞳は、キレイね」
「うわひゃあーっ!」
瞳の中に不思議な輝きを持つ少女。
八嶋麻矢もまた、塔子の中で特別になった。




