32:四日目/女島07
――速すぎる。
二人の戦闘を見て、蓼科冥はただ呆然とする他なかった。
凄まじい速度で移動し、攻撃する水無月玲子。
それを最短の動作でいなす綴喜ゆら。
確かに自分と戦っていたときには手を抜いていたのだろう。先程のダメージは抜けてきてはいるが、仮に万全の状態であってもこの戦いに割って入るのは無理だろう。
「ふむん……これが話に聞く『学園最速』ですか」
「――フーガ。背中は大丈夫なんですか?」
「まあ、なんとか」
ふらふらと近くに歩いてきた風々院風雅は、そこで脱力して座り込む。
「彼女に『弱さを自覚しろ』って言われたときは憤慨しましたけど、これではそう言われても仕方ないですね」
「……ですね。ふたりとも速すぎる」
冥も震える足の力を抜き、風雅に倣って地面に座る。
そして抱いた少しの悔しさを、その場の土を握ることで紛らわす。
実のところ、戦略的にはまだ負けていない。
どころか、水無月玲子の登場で有利になったとさえ言える。
ダメージが抜けきったところで逃げ出すこともできるし、戦況次第では弱ったゆらを確保することもできるだろう。
あるいはその間に、黒瀬塔子が八嶋麻矢を探して連れてきてくれるかもしれない。
そこまで思考を巡らせた冥は自嘲じみた笑いを浮かべる。
いくら言葉を取り繕っても、状況に有利を見出しても、負けてないと主張するにはあまりにも心をくじかれすぎた。
人を自在に動かしているつもりだった。
でも、ゆらの行動も心情も、まるで読めていなかった。
そこに麻矢と風雅を巻き込んでしまった。
武系の中で誰よりも頭を使って戦っていたつもりだった。
でも、実際には子供の遊びのようなもので、本当に頭を使って戦っている人間には手も足も出なかった。
「……これが、敗北感、なんですね」
冥は嘆息とともにつぶやく。
眼鏡越しの視線の先で、二人の武系生徒が激突する。
――遅すぎる。
綴喜ゆらは歯噛みした。
自分の中のイメージに体がついていかない。来るとわかっている攻撃に対して、躱すのも合わせるのも間に合わず、仕方なく受けている場面が幾度もある。
自分にもう少し敏捷性があれば、という無意味なシミュレートが頭の片隅で浮かんでは消える。
ゆらは自分が弱いことを知っている。
滝川ツルギのような力はない。
倉本臣のような技術もない。
水無月玲子のような速度もない。
大鳳示炎のような特異体質でもない。
武系生徒の大半が持つ、生涯をかけて打ち込んできた己の武術すらない。
また、玲子が視界から消える。
(――視界の外、左の樫の木、地面から1m20㎝の位置の幹に着地して、もう一度跳ぶ)
もう一度跳ぶとなると、首と眼球の動きは間に合わない。
動きの出だしを捉えて次の動きを予測する、このやり方だけでは追いつけない。
だから、さらに一手先まで予測する。
着地位置から後ろには跳べない。当然幹の反対側に突き抜けることもできない。右手側に跳ぶかこちらの正面手前に落ちるか直接飛びかかってくるか。
否。玲子なら、きっと――
「――上を取る」
盾として掲げ交差させた両腕が、玲子の踵落としを受ける。
体を走り抜ける衝撃。それを体を揺らして足元から逃がす。
反動を使って逃げるはずだった玲子は、衝撃を吸収されて逃げ場所を失う。
体を捻って脱出を図るも、こちらの方が一手早い。
両手の甲で挟んだ玲子の右足を引っ張るように後ろに重心をそらす。
空中で体勢を崩した玲子の重心を、完全にこちらのものにした。
したと思った。
だが玲子はそこで全身から力を抜いた。
倒れ込む玲子の上半身。そしてたたまれる左足。
後ろへとのけぞる反動を利用した左足のサマーソルトがゆらの顔面に向かう。
食らったらまずい。両腕を使ったままでは防御すらままならない。
即座にそう判断して玲子の右足を放し、首を曲げて蹴撃を避ける。
間一髪のところをかすめていく左足。
その勢いのままに玲子はちょうど半回転して、ごくごく自然に着地する。
はあ、と安堵の息を漏らしたゆらの頬が、遅れて裂ける。
「――――ちっ」
痛みより熱を感じるその傷口を、ゆらは撫でた。
――最初からこうだったわけではない。
玲子は確かに幼少から鍛錬を続けてきた優秀な武術家だったが、あくまで常識的な学生の強さだった。
その道場に興味本位でゆらが通い始めたときには、ゆらのほうが強かったのだ。
だが、あるとき玲子が原因不明の病をわずらい、高熱を出した。
熱は数日間続き、そして急に引いた。
結果、美しかった黒髪は総白髪になり、そして今の強さを発露した。
その急激な才能開花を、ゆらは横でただ見ていることしかできなかった。
ほんの少し前までライバルだった女が、急にどこか知らないところへ行ってしまった。
初めは勝とうと努力した。
次は追いつこうと努力した。
それから負けないように努力して。
最後には何も言わずに距離を取った。
焦りと劣等感と嫉妬と怒りと、言語化できない無数の情念が脳髄を焼いていた。
遠くから彼女を眺めて、何か奇跡が起きて彼女に追いつくことを願った。
だが、奇跡は起きなかった。
燻り続けていた情念は、いつの間にか炎になった。
得たときと同じように、突然あの才能がなくなればいいのに。
なんかの事故に巻き込まれて、自分と同じくらいの強さまで堕ちてくればいいのに。
そんなことを考えては、手の甲の皮が剥けるまで壁を殴った。
ゆらは自分が弱いことを知っている。
肉体も技術も精神も、玲子ら記章持ちに到底及ばぬ自覚がある。
だからこそ飛躍を求めた。
一足飛びに彼女たちに追いつける奇跡を求めた。
滝川ツルギの体験にすがったのもそうだ。
あれはきっと、玲子の病気のように彼独自の飛躍だったのに、真似をすれば自分も到れると信じようとした。
ゆらは自分が弱いことを知っている。
だが、それを受け入れられなかった。
自分は頭がいいと思っていたから、なおさらに、どうにかなると思ってしまった。
(――結局のところ、それに尽きる)
背伸びどころではない。
近くにある椅子を互い違いに積んで、今にも崩れそうな塔を作って、高いところにいる誰かと並ぼうとした。
そんな自分を客観視することが、どうしてもできなかったのだ。
「――は」
「どうした、ゆら。急に笑いだして」
「いや、別に。恥ずかしいなと思ってな」
「ん?」
「なんでもないよ。続けよう」
恥ずかしい。
自分は弱くて未熟で、記章持ちたちが持っている特殊な才能を何一つ持っていない。
今の攻防の中でも、一度も優位に立てていない。
玲子がやりたいことをやって、ゆらがなんとか捌く。
その繰り返しだ。
――だが、今の自分が立っているのはここだ。
これが自分の今の実力だ。
悔しさはあるが、同時に少しだけ嬉しいこともあった。
玲子には及ばないけれども、積み重ねてきた努力のおかげで、いつの間にかその攻撃を捌けるようにはなっていたのだ。
あの日の自分が間違っていたとしても、あの日から続けていた努力は自分を裏切っていなかった。
だから積み重ねよう。
創意工夫をしよう。
それが紙程度の厚さだとしても、重ねて月に届くまで。
「せやぁッ――!」
玲子の右足蹴り上げられる。
それを最小限のスウェーで避ける。
ここで迂闊に踏み込めば返す踵で断ち切られる。
これまで飽きるほどに見て、食らって、躱してきた、虎切という技だ。
ゆらは知っていた。
知っていたからこそ、飛び込んだ。
「ッ!?」
空振りして、そこから献追に派生したかったのだろう。
そうはさせてやるものか。
重力の力を借りる虎切は、蹴り上げよりも遥かに速い。
それまでの時間で密着まで行くのは難しい。それでもできるだけ懐深く入り、高い打点で技を受ければ威力は低減する。
掲げた両手で踵落としをする右足を掴み、受けた衝撃を捌き、膝のバネで吸収し、足を滑らせて玲子の股下をくぐる。玲子の右足を掴んだままだ。
足を後ろにひっぱられた形になり、玲子の体が浮く。
「くっ――」
顔面を打ち付けないために、玲子の両手が地面に着く。
ゆらはそのまま野菜を引っこ抜くように、玲子を前に投げた。
――だというのに。
玲子は投げられながらゆらのジャージを掴み、二人はそろって錐揉みしながら宙を舞う。
「くそッ――――!」
「むぐぐ――――!」
そして接地の瞬間に上を取って、衝撃をゆらを押しつける。
ゆらは不自由な体勢ながらもなんとか衝撃を全身から逃して、ダメージを軽減する。
そして腹を蹴り上げての巴投げ。
さすがに掴んだままでは威力を直に受けてしまうと、玲子は手を放して素直に投げられる。
「やっぱ面白いな、その技。どことなく滝川ツルギを思い出す」
「貴様おれがどんな気持ちで――いや、いい。そういうヤツだ、貴様は」
「何がだ?」
「何でもない。気にするな」
「? まあ、いいけどな」
会話はそこで終わり、再び攻防が始まる。
(しかし、滝川ツルギか――)
綴喜ゆらは思案する。
受けた衝撃を運動に変えて全身に分散して外へと逃がすゆらの『捌き』。
全身の力を編み上げて拳から放つ滝川ツルギの『力の統率』。
方向性が真逆なだけで、そこだけ見れば原理は同じだ。
……だが、難易度はまったく異なる。
関節の数だけショックアブソーバーがある人間の身体は、元よりダメージを逃しやすくなっている。ゆらの捌きが複雑な計算の為せる技とは言え、飽くまでも構造上やりやすいことをさせているにすぎない。
滝川ツルギのアレは違う。
あれは空手や中国拳法において型を練ることで生まれる力に近い。
全身で生んだ力を途切れることなく運び、一点に集約して放つ――だけではない。
重心の力も骨格の力も組み合わせている。
そういった複雑な運動を意図的に行うのは難しいから、武術では型を使って同じ動きをすることで毎度同じ威力を出せるようにするわけだ。
だが、力の統率は自由だ。
どのような体勢でも、どの方向にも、どちらの腕からも力を放つ。
重心の使い方も、骨格の使い方も、状況に応じて変えている。
言わばアドリブだけで舞台を成立させるようなものだ。
どれだけのセンスがあれば可能なのか、見当もつかない。
(――まあでも、そうだな。やってみないうちから諦めるのは、おれの悪い癖だ)
さまざまなスポーツ、多様な武術をかじっていた自分の経験値の中から、一番適した動作を模索する。
(――強いて言えば、野球の投球。アレが近いと言えば近いか)
体幹を駆使した全身の連動。遠心力。そして重心の力。すべてを組み立ててボールを加速するその動きが、ゆらの経験の中では一番近い。
試しにやってみる。
ボールを握る代わりに拳を作り、振りかぶって放つ。
体内を通り抜ける力の流れ。
なるほどこういう感覚か――と納得しながら姿勢を低くし、前に転がって玲子の攻撃を避ける。
当たり前だがこんな予備動作の塊、玲子に当たるわけがない。
もっと動きは小さくしなくてはいけないし、使い道も考えなくては駄目だ。
重心の向きとベクトルも考慮して、動きを小さくするために遠心力は省き、おそらくはツルギが感覚でやっているだろう力の統率を、ゆらは計算で再現しようとする。
その分時間がかかるので、いくら威力があっても玲子には当たらない。
「ああ。こうじゃないな、こうじゃない――」
試行錯誤。修正。玲子と拳を交えながら、計算式を組み上げていく。
そして、玲子が右に跳んだのを視界に捉えた瞬間。
ゆらは編み上げた力を左足から地面に向けて放った。
力を受けて爆ぜる地面。
「なに――!?」
「そうか、これが――」
すごい速度で流れる背景。
その中で、相対速度があっているために、はっきりと見える玲子の姿。
「これが――貴様のいる世界か」
それはわずかな時間でしかなかったが、ゆらが初めて玲子のいる速度帯に踏み込んだ瞬間だった。




